(3)
ある日のバイト帰りのことだった。
深夜シフトだったので、帰宅したのは朝だ。初夏の日の出は早く、既に太陽は高くなっていて、気温が上がり始めていた。
もう少しで部屋に着くというとき、ちょうど、隣の中年夫婦が車で帰ってきた。
奥さんのほうは、つばの広いチューリップハットをかぶり、双眼鏡をぶら下げていた。旦那さんのほうは、カーキ色のメッシュベストを着用し、ごつい一眼レフを首から下げて、三脚などの撮影機材を車から下ろしているところだった。
ご夫婦の趣味は、近くの雑木林や河川敷などの散策であるらしい。ついでに風景や写真撮影を楽しんだりしているのだ。
おれに気づいたおばさんが、にこやかに声をかけてきた。
「おはよう、北斗くん。暑くなりそうね」
「おはようございます。そうですね」
おれは無難にあいさつをして、その場を立ち去ろうとしたが、何やら手招きして呼び止められた。
「ねえ、ちょっとそこで待っていてくれる?」
おばさんは、足早に自分の部屋へ戻っていった。荷物を抱えたおじさんが、おれをじろっと睨みながら、無言で通り過ぎていった。
隣の部屋に戻ったおじさんと入れ替わるように、おばさんが再び現れた。白い小さな箱を持ってきて、おれに差し出した。
「これ、頂きものなんだけれど、たくさんあるから妹さんにどうぞ」
「あ、ど、どうも……」
おれは箱のすき間から覗きこんでみた。中身はシュークリームらしい。美羽は人間の食べ物は口にできないし、おれも甘党じゃないから、正直いらない。しかし、女の子はスイーツ好きというのは世の中のお約束なので、本当のことは言うに言えない。
しかし、おばさんの本当の用件は、これを渡すことではなかったらしい。少し小声になって、おれに耳打ちをした。
「ところで、お洗濯は妹さんがしているの?」
「そうですけど……」
「気をつけたほうがいいわよ。このあたり、下着泥棒が出たらしいから。――その、妹さんの洗濯物をベランダに干すのは、ね。……とくに、美羽ちゃんは可愛いから。最近、なんだか急に大人っぽくなってきたわね」
おれはぎくりとしながらも、おばさんに礼を言って、そそくさと立ち去った。
そうだ、ここに来たばかりのときは子どもっぽくて、突然押しかけてきた妹だと言っても不自然じゃなかった。ところが今はどうだ。美羽は明らかに成長していて、その変化は隣のおばさんも気づいているほどだ。
隣のご夫婦だけじゃない。他の部屋の住人たちや、ご近所さん、それに下着泥棒まで、美羽はたくさんの人目に晒されているのだ。ほんとうは妹ではない、普通と違うということが分かったら、一体どうなることか。
おれが玄関で考え込んでいると、美羽が部屋から顔を出した。
「おかえり、北斗にい。どうしたの?」
おれは、おばさんから頂いたケーキ箱を差し出して言った。
「これ、お隣のおばさんから。――美羽、食えないんだよね?」
「うん、悪いけど……。でも、気持ちだけもらっておく。次におばさんに会ったら、お礼言っておくね」
「だめだ! 美羽はなるべく、外に出るな!」
おれはとっさに言った。
美羽は、いきなり冷水を浴びせられたように呆然としている。おれは、少々の罪悪感にさいなまれつつも、取り繕うように、ぎこちなく説明をした。
「あ、あのさ……。美羽って、ちょっと成長が速いだろ? だからその……ご近所の人たちが変に思っているみたいでさ。それに、最近は変質者もうろついてるっていうし」
「そうなんだ……。でも、買い物は?」
「最低限にしよう。なるべく人に会わないように。――ああ、おれが買い出しをしよう。それがいいな! 美羽の負担も少なくなるし」
美羽はそれを聞くと、口を尖らせて、しょんぼりと下を向いてしまった。
ちょっと可哀想だと思ったが、仕方がない。これも、おれが新人賞をとるまでの辛抱なのだ。美羽が記憶を取り戻したならば、何かわかるかもしれないんだから。
それから、美羽が用意してくれた朝ご飯を食べた。
ちょっとしょげていた様子の美羽だったが、おれが話しかけると、すぐにいつもの明るい美羽に戻った。朝のワイドショーを見ながら、いつものように雑談をし、笑いあった。
部屋の中は暑くなってきて、古くて調子の悪いエアコン一台しかない部屋の温度は、ぐんぐん上昇した。美羽が服の胸元をぱたぱた動かしているのを、おれはうっかり上から覗きこんでしまった。
あっ……ノーブラ?
何事もなかったように座りなおした。すぐに、おれの頭上にもくもくが現れた。
「あっ、何かな? 冷たいものがいいなあ」
美羽が煙をつかむと、冷え冷えでぷるんぷるんの、まるごと白桃ゼリーがふたつ並んで現れた。しかも、てっぺんの中央部には、赤いクランベリーの実が一つずつ飾られているではないか。
おれは内心冷や汗ものだったが、美羽は喜んでぺろりと平らげていた。
それからしばらくの間、美羽の取り出すスイーツは、あんずの柔らかコンポートやら、丸くて大きなカスタード・ムースやら、その他、キウイ・パパイヤ・マンゴー的なものがやたらと多くなった。
気まずくておれはひたすら黙っていた。美羽がその意味に気づいたのかどうかは分からない。
やがて、連日連夜の熱帯夜を迎える、真夏の到来となった。
おれは、トランクスにTシャツ一枚という姿で、流れる汗を首にかけた白タオルでふき取りながら、執筆をつづけていた。パソコンが発する熱波がうっとうしくてたまらないが、ほかに執筆手段もない。
おれは、少し前まで意欲を燃やしていたハードボイルド路線の作品をあきらめていた。
代わりに、かわいいヒロインが複数出てきて、平凡な主人公に次々と惚れていくような物語に方針を転換した。なんだかんだ言っても、時代は甘々萌え萌えのふわとろプリンを求めているのである。
こうなったのには理由があるのだ。
「ねえ北斗、お腹すいちゃった」
背後から美羽が言った。
最近では、「にい」なんて呼んでくれない。いつのまにか呼び捨てである。外見は一気に、おれといくらも変わらない年齢にまで成長していた。まあ、強気な同年代の女性も嫌いではないのだが。
「ああ、少し待ってくれ」
おれの十八番の妄想力にも、最近はかげりが見えてきた。
こうして人は歳をとっていくのだと思う。おれももうすぐ三十路。いつまでも、バイトしながらいつかは作家に、などとほざいている年齢ではないのだ。あーあ、永遠の少年でいられる国にでも行けたらいいのになあ。
今夜あたり、キュートな金髪妖精さんが迎えにきてくれないだろうか。すいーっと空を飛んで、幻想の国に行っちゃうのだ。あちらの世界が涼しかった場合、もう戻る気なくなっちゃいますけど。
このあたりで、おれの頭の上にもくもくが湧き出す。
「わお、さっすが北斗ね」
美羽は腕を伸ばして、煙の中から湯気の立つどんぶりを取り出した。
ニンニクとごま油の香りが、暑苦しい部屋に充満する。
首を伸ばして覗きこんでみると、もやし炒めと肉味噌がたっぷり乗った拉麺のようだ。このくそ暑い中での担々麺とは、中々の通好みなチョイスである。
「北斗の妄想って、最近パンチが効いてるよね。前は甘いものしか出なかったのに」
「うっさい。これが現実なのだ。――そんなことより、美羽はまた太ったんじゃねーの?」
「パンツ一丁の北斗に言われたくないわ。そっちこそ、すっかりおっさんじゃん」
「何だとお」
美羽と喋っていると退屈はしないが、いかんせん可愛げがなくなってきた。
何より、体型がぽっちゃりしてきた。顎のラインは不明瞭だし、二の腕はぷよぷよ。スボンやスカートはゴムウエストのものを愛用している。
美羽自身も気づいているようで、先週履いていたジーンズがもう入らないと言っている。シンラ様がこの事態を予測していたのかどうか、三日おきくらいに宅配便が届いて、美羽にぴったりのサイズの衣服を届けてくれている。
まあ、ぽっちゃりは別に構わないんだよ。
おれだってそろそろ三十路だし、女の子はスリムで美しくなきゃ許せん、なんてわがままを言っている場合じゃない。これが現実であるし、変わらず家事をこなしてくれている点は非常に助かる。
ああ、そうだ。おれはそんなことにかまけている場合ではない。
とにかく、新人賞だ。美羽のスタイルなんてどうでもいいではないか。少し前に、いかがわしい妄想をして小説に集中できなかったものだから、きっとバチが当たったに違いない。そう考えるとむしろ好都合だ。
名前が売れるまでは、みんなが喜ぶものを書く。そしてとにかく作家デビューだ。信念を貫くのはそれからでいい。
よし、執筆をがんばろう。
おれは扇風機をぐいっとこちら向きに変え、ふたたびキーボードに向かった。
【幻想曲文庫大賞 最終結果発表!】
・最優秀賞……篠崎ホクト『ノスタルジイ・ロマンサー』
おれは、パソコンのディスプレイを呆然と見つめていた。
そこに書かれていたのは、まぎれもなくおれ自身のペンネーム。そしておれが書いた作品のタイトルだ。確かに、この賞には応募したおぼえがあるが、かなり前のことだったので、記憶に埋もれていたのだった。
やった! おれの作品が、やっと理解されたんだ。時代がおれに追いついたんだ!
拳を突き上げて喜びを爆発させたいところだったが、何か違和感がある。
新人賞の選考結果をウェブ上で発表することは珍しくなくなっているが、選考委員側から、受賞を知らせる電話かメールのひとつくらいないものだろうか?
そこが、まったく現実味を感じない部分だ。
――ん? 現実じゃないのか?
あーわかった。これ夢オチだ。まあ、古典的な方法で確認してみよう。昔の偉い人は言いました。夢なら痛みを感じないはずである、と。
おれは、目の前の机の脚を思い切り蹴飛ばしてみた。
「――い、痛っ!」
気が付くと布団の中だった。
やっぱり夢だったではないか。でも、夢のくせに痛かったのは割に合わないと思う。
足に痛みを感じた理由は、おれの脛の上に美羽が腰かけているからだった。不注意にもほどがあるだろう。
「美羽、どいてくれー。重いだろう」
「――ああ、ごめんごめん。久々に濃厚スイーツの匂いがしたもんだから」
美羽が持っているのは、超キングサイズのチョコレートパフェ。さっきのおれの夢から製造したのは言わずもがなである。
その器はもはやバケツ同等サイズで、一時間以内に一人で完食したら無料になりそうな代物であった。
ベースはおそらくチョコレートアイスで、その上にたっぷりのクリームとベリーのソースがかかっている。少なくとも三個の巨大プリンが乗っていて、丸ごとのバナナが五本ほど突き立てられている。
「では、いっただっきまーっす!」
美羽は、カレーライス用のでかいスプーンで、ソフトクリーム部分をざっくりと削り取った。ついでに、大粒のとちおとめも回収しているところがポイントだ。一口ぶんの中で、甘さと酸味のバランスがとれている。
しかしおれには、どうも女の子がスイーツを食っている光景には見えなかった。
さながら工事現場だ。特大シャベルで土砂の山を削り取っているようにしか見えない。美羽がぱくりと大きな一口を食べると、足にずしんと重みを感じた。
そのときである。
目の錯覚ではない。寝ぼけているわけでもない。美羽の体が、むくむくと一気に膨れ上がったのである。一般のふくよかな女の子から、ヘビーなぽっちゃりが売りの女性芸人並みに成長したのだ。
「ちょ、ちょっと美羽――重い、痛いって!」
「ん? ――あ、また育っちゃったみたい」
美羽はこともなげに言うと、あっさりとおれの上から降りて、床に座ってバケツを抱え、がつがつと食べ始めた。
巨大パフェよりも、ちゃんこ鍋のほうが似合いそうだ。しかも、なぜか年齢も重ねてしまっているようで、三十代中盤のように見える。
このままでは、おれの部屋が相撲部屋になってしまう。
もはや一刻の猶予もない。
おれはがばっと起き上がり、テレビをつける前にパソコンを立ち上げた。そして、現在募集をしている新人賞を、片っ端から調べてリストアップした。いままではライトノベル系かファンタジーに特化した賞だけを狙っていたが、世の中にはもっとちがう分野のレーベルもあるし、文字数が少なくて済む短編向けの賞もある。
とにかく、何でもいい。いまから応募できるもの。そして、いまのおれが書けるもの。
些細なことにこだわっている場合ではない。美羽の巨大化を止めるには、おれが賞を取るしかないのだから。
その日を境に、おれはバイト以外の時間の全てを執筆に充てた。
いままでもそうだったつもりだったけれど、実際おれは呑気だったんだ。時間なんていくらでもあるような気がしていたし、調べものや資料映像の鑑賞に夢中になり、それで満足していた日もあった。
いままで手を出さなかったミステリーやホラー、SF短編の賞、児童文学ジャンル、更にはエッセーまで、とにかくちょっとでも書けそうだと思ったものは、片っ端から書いてみた。書けないものはあきらめ、一応形になった作品は全て応募した。
おれの妄想が誇大なほどハイカロリーな食べ物が現れるらしいので、なるべく無欲に徹した。
態度も体も大きくなった美羽だったが、家事はきちんとこなしてくれた。食事の時間も惜しかったので、お願いして、おにぎりやサンドイッチなどの片手で食べられるメニューを中心にしてもらった。
今となっては不思議に思う。
美羽がこの部屋に来る前、おれは全力で執筆していたつもりだった。でも、あんなもの必死でもなんでもなかったんだ。
新人賞の募集は、たいてい定期的に行われている。
したがって、今年の作品が落選しても、また来年、再来年があるから平気だ――そんな生ぬるい考え方をしていたんだ。今日できなかったことを翌年の今日にやろうだなんて、ただ先延ばしを繰り返しているだけ。
それじゃだめだ。いまやらなくては意味がない。
おれは毎日、時間の許す限り、キーボードを叩き続けた。部屋は蒸し暑く、いつも汗だくだった。
肩が石のように硬くなり、手に力が入らない日もあったし、朝起きると首がまわらない日もあった。おれの上半身は常に湿布まみれだった。それでも書き続けた。
文章で食っていくって、大変なことだったんだ。おれが凡人だからなのか、それとも、天才に見えるような有名作家たちも、裏ではこんなにボロボロなんだろうか。
美羽がおれの頭から取り出すものは、雑穀ごはんの焼き魚定食とか、盛りそばとたくあんとかになっていって、たまに野菜ジュースがついた。スイーツが食べられないので美羽は不満そうだったが、いまはもう、出そうと思っても簡単に出てこなかった。
カロリーオフな食事のせいか、美羽の成長速度はゆるやかになっていた。しかし、痩せるということもなかったので、じわじわと大きくなり続けていた。