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(2)

 美羽が転がり込んできて、二週間ほど経ったある日のこと。


 アルバイトの休み時間のあいだ、スマートフォンである新人賞の選考結果を確認したおれは、目の前が真っ暗になった。二次選考落ちなんて、とてもじゃないが信じられない。

 かなりの傑作だと思っていたのに。すくなくとも三次選考、あわよくば最終選考にまで残ってくれるのではないか――そんな期待は否定された。

 現実は残酷なものだ。


 アパートに戻り、重々しい気持ちで扉を開けた。


「北斗にい、お帰り! きょうはハンバーグにしたよ!」


 おれは、フリル付きエプロンと玉じゃくしを持った、古典的な若妻風ルックで待ち構えていた美羽の横をだまって通り過ぎた。

 キッチンから炒め玉ねぎの匂いがした。昼飯がのどを通らなかったので、空腹で腹が鳴る。

 こんな日に限って、おれの好物を作りやがったな、美羽のやつめ。


「どうしたの、にい! ごはん食べないの? せっかく作ったのに――」

「うるさい! ほっといてくれ」


 おれはまっすぐ寝室に行き、ベッドの上に倒れこんだ。

 頭の中がぐるぐる回る。

 何が良くなかったんだろう。それよりも、どうしてあんなに自信があったのだろう。小説家を目指す人間なんて、世の中にたくさんいる。並み居る強豪を押しのけて、おれがトップクラスに上がれるなんて、何を根拠に思っていたのだろう。

 部屋の扉がおそるおそる開かれるのを感じた。目を閉じていたって、気配でわかる。


「北斗にい……入るよ?」


 美羽が入ってきて、ベッドの端に腰かけた。

 心配をかけてしまうことは分かっていたが、少しだけ一人の時間がほしかったのだ。一緒に暮らしているのだから、それはおれのわがままであるというのも、わかっていた。


「ごめんな、美羽。前に応募した小説、落選しちゃった」

「……そっか、残念だったね」


 ふと、美羽の手に何かが握られているのに気が付いた。緑色をしたチューブ――いわゆる練りわさび、である。


「ところで、なんでそれ持ってるの?」

「いま、北斗にいの頭の中から出てきた」

「ああ、なるほどな……」


 美羽には悪いが、今日のおれには、スイーツを出してやることが出来ないかもしれない。

 それにしても、この苦々しい想いを食品化するなら、他にもなにかあるだろうに。ゴーヤのいため物とか、激辛カレーライスとか。それが、よりによってわさびチューブ一本とは。腹の足しにもならんじゃないか。


「わさび、わさび……ワナビ? ああ、ワナビー、か。……おれのことか」


 うわごとのようにつぶやくと、美羽は心配そうに身を乗り出し、おれの顔を覗きこんだ。


「わさびがどうかしたの?」

「ワナ・ビー、 Wanna be。――アマチュア創作界の俗語でさ。小説家になりたい、でもなれない人間をそういうんだ」

「小説家になるのって、難しいの?」

「そりゃ、な。世の中には、おれみたいなのがたくさんいる。石を投げれば当たるってもんさ。でも、小説家の数は、そんなに多く必要ないんだ。おれみたいに、特別な才能がないやつは、努力したってだめなんだよ」


 おれは美羽と目を合わせないようにうつ伏せになった。美羽はおれの顔を覗きこもうとして、右へ左へと回り込んでくる。彼女がおれを励まそうとしているのは分かっていたが、さすがに少し苛立ってしまった。


「北斗にい、元気出そう! 才能がなくたって、頑張り続ければいいんじゃない? 前よりも、もっと頑張ったやつを書いて送ればいいんじゃないの? ねえ……」


 美羽がそう言ったものだから、一瞬で頭に血が昇ってしまったのだと思う。おれはついかっとなって、怒鳴りつけてしまった。


「おまえに何がわかるもんか! おれがどんなにあの小説を、必死に書いたと思うんだ? おれは自分の全てを賭けて書いた。それなのに、もっと頑張るって、どうすりゃいい? 方法があるなら教えろよ、なあ――」


 美羽は泣く――かと思いきや、手に持っていたわさびチューブの栓を開け、自分の口へ押し込んだ。


「ちょっ――何してるんだよ!」


 おれは急いで、美羽からチューブを取り上げようとしたが、美羽が具現化した物体におれは触れることができない。チューブの半分ほどの内容物を飲み込んだところで、美羽は激しく咳き込んで、涙を流してうずくまってしまった。


「馬鹿! おまえ、なんてことを――」


 美羽が人間であれば、すぐに水を飲ませるなどしたかったのだが、美羽は人間の食べ物を口に入れることができない。そう、水の一滴さえも。おれが生み出したものしか摂取できないのだ。

 おれは、とにかく美羽の背中をさすり続けた。


「どうしてこんなことを! わさびが辛いって知らなかったのか?」

「……知ってた。でも、北斗にい一人だけが苦しそうで……。せめて、あたしも一緒に、つらい気持ちになりたかった。……こんなんで、わかるわけじゃない……けど」


 美羽は泣きながら咳き込んでいる。

 どうすればいい?

 そうだ、おれが妄想をして、別な食べ物を出せばきっと……。

 だが、いまのおれに、綿菓子みたいなふわふわの甘い夢がみられるはずもない。いや、甘いものじゃなくていいんだ。せめて何か、口にできるものを――。

 おれは、ふてくされて挫けそうな心を叩き起こし、立ち上がれと念じた。


――そうだ。おれ、しっかりしろ。前を向け。あきらめるな。

 少年漫画の主人公なら、ボロ負けしても立ち上がるじゃないか。きっと、いまのおれがそうなんだ。戦いはこれからなんだ……! 新展開で連載再開だ!


「美羽、美羽。手を貸せ」


 おれは美羽の手をとり、頭の前にあらわれた、小さな毛糸玉ほどの、頼りない煙に触れさせた。美羽がつかみ取ったものは、たった一杯の水。

 それでも充分だったようだ。

 美羽がコップの水を飲み干すと、激しい咳はぴたりと収まった。頬にはまだ涙のあとが残っていた。


「ありがとう、北斗にい。ありがとう」


 美羽はおれに抱き付いてきた。どうやら、声を我慢しながら泣いているようだった。美羽の柔らかい髪を撫でてやっているとき、妙なことに気が付いた。いつのまにか泣いているのは美羽のほうで、おれはすっかり落ち着いて、少し温かい気持ちになっていた。

 ごめんな、美羽、ありがとう。

 今日も日課の執筆をしよう。おまえの言う通り、きょうは昨日よりも頑張ればいい。その程度の覚悟もない奴が、ほんとうの小説書きになれるもんか。

 そして、用意してくれたハンバーグも、ありがたく頂こう。

 だからもう泣かないでくれ。




 美羽がやってきて、そろそろ一カ月が経つ。

 ある新人賞に落選し、自信喪失しかけていたおれだったが、既に新作の執筆に取り組んでいた。

 いよいよ本格的に暑くなってきたが、美羽が部屋を片付けてくれているため、気温の割には快適に過ごせていた。

 毎日、ご飯を用意してくれるのもありがたい。おかげで、アルバイトの時間以外をすべて執筆にあてることができた。

 おれは食後のコーヒーを飲みながら、洗濯ものを干す美羽に話しかけていた。


「昔のアニメとか漫画ってさ、ちょっと不良っぽい主人公に、セクシーないい女をヒロインに据えて、やんちゃな大冒険をやったり、世の中のあざむきを暴いたりしてた。いいよなあ、おれ、その時代の子供に生まれたかったな」

「いまからでも、過去の名作は鑑賞できるよ」

「そうなんだけど、なんつーかなあ……。子供のうちにそういう作品に触れて、主人公に憧れながら大人になりたかった」

「そっかあ」

「だからさ、おれは、細っこい軟弱な主人公とか、従順な萌えヒロインとかは書かないんだ。これからの子供たちにさ、そんな歯ごたえのないものを読ませたくないからね」


 話しながらおれは、調子に乗って妄想をどんどん膨らませる。


 そうさ。時代はふたたびハードボイルド。熱い八十年代の再来だ。

 おれの作品は、ただの懐古趣味におさまらない。温故知新、新しい時代を拓くのだ。

 戦わないヒーローなんて要らない。どこかで見たような、安っぽいヒロインはお呼びじゃない。きっと誰もが偽りから目を醒まし、涙を流しながら絶賛するに違いない。おお、降り注ぐのは壮大なスタンディング・オベーション! おれは喝采の中で、栄光のスポットライトを独占するのだ。


――と、頭の上にもくもくと雲が浮かんだ。


「あっ、いただきまーす!」


 美羽が煙に手を突っ込んで、ほら貝のように渦をまいた菓子パンを取り出した。中には濃厚なミルクチョコのクリームが詰まっているようだ。チョココロネってやつだ。

 いつもであれば、間髪入れずにぱくっと口に入れてしまう美羽だったが、どうしたわけか、じーっとチョココロネを見つめている。

 そういえば、きょうの美羽はなんだかすこし元気がない。


「どうしたんだ? 食欲がないのか?」

「うーん……。なんだか、こういうのが懐かしいような気がして」

「こういうのって、チョココロネのこと?」

「うん、多分」


 横から下から眺めまわして、結局思い出せなかったのか、美羽は釈然としない表情のままチョココロネを平らげた。


 ここ一カ月のあいだ、美羽とはいろいろなことを話した。

 彼女には、過去の記憶がないのだという。最後に憶えているのは、死にかけているところをシンラ様に助けられ、目を醒ました場面なんだそうだ。


「まだ何も思い出せないのか?」

「うん。……でも、北斗にいの夢が叶ったとき、あたしの役目も終わるでしょ。そしたらきっと、何かを思い出せるんじゃないかって気がするの」

「ふーむ、そうかもしれないな。パンが懐かしいなんて、美羽はもしかしたら、欧米で暮らしていたのかな?」

「そうなのかなあ……」


 美羽は窓辺に行くと、静かに窓を開けた。

 まだ熱帯夜とは言えず、夜風が涼しさを運んでくる。

 美羽は夏の星座を見上げていた。月光に照らされた頬は青白く、その横顔がやたらと儚げで、おれはぎくりとした。このままどこかへ行ってしまいそうだったのだ。


「なんとなくだけれど、もっと涼しいところで暮らしていたような気がするの。そこには父さん、母さんも、大勢の仲間たちもいた。こうやって星をみていると、何かを思い出せそうで――」


 美羽はうつむいて、頭を横に振った。

 おれは、美羽のことを何も知らない。一カ月もの間、人間の食べ物を口にしないことからも、普通の女の子じゃない。じゃあなんだ? 天使か、はたまた妖怪か。


「ねえ、北斗にいの家族は、どこにいるの?」

「ここよりはずっと田舎のほうだよ。しばらく帰省していないな」

「そっか。でも、その気になれば会いに行けるんだね」


 よく考えたら、美羽はこの街で、おれ以外の知り合いもいないんだ。

 おれがバイトに行っているあいだ、美羽はひとりきりで、部屋を片付けたり洗濯をして一日を過ごす。その間、どんなに寂しい思いをしていることだろう。かすかな過去の記憶も、余計に空しさを感じさせるだけかもしれない。


「美羽。おれ、美羽が記憶を取り戻せるように頑張るから。でもいまは、おれの妹じゃないか。……それじゃだめなのか?」

「北斗にい、ありがとう。だめじゃないよ」


 美羽は振り向いて微笑んだ。瞳が濡れているような気がした。


 妹と言ったが、おれは最近、それが怪しくなってきたと思う。美羽は、ここに来た頃に比べると、格段に大人っぽくなった。十四、五歳の少女だと思っていたのに、このごろ美羽は十八くらいに見える。ほとんど平坦だった胸は膨らみ、脚から腰のラインもずっと女らしくなってきた。

 このまま兄妹でいられるのだろうか。実のところ、おれにはあまり自信がない。

 とにかく、早く新人賞を獲る。それだけを考えなければ。


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