(1)
初夏のある日のことだった。
空が夕焼けに染まっていた。コンビニのアルバイトを終えてアパートに戻ってくると、おれの部屋の扉の前に、華奢な少女が座り込んでいた。
白いひらひらした短いワンピースに、下は黒いハーフパンツ。肩の上で切りそろえた髪は、夕陽に照らされているせいか、赤毛に近い茶髪に見える。目が大きくて色白で、まさに美少女。
年齢は、十四……五歳くらい? いや、よく分からない。とにかく、おれが知っている子ではない。
一体なにごとかと、普段ろくろく使っていない頭を稼働させて考えてみる。
そうそう――きっとあれだよ。お隣に住んでいる中年夫婦の姪っ子とかで、いきなり尋ねてきてはみたものの、部屋番号を間違えてしまったために、扉が開かなくて困っているんだ。
うん。なかなか現実的な解釈。
というわけで、怪しまれないように注意しつつ、軽く声をかけてみることにした。
「ね……ねえ彼女、ここで何してんの?」
我ながら、ちょっと古かった。昔のナンパみたいじゃないか。
誤解しないで頂きたいが、これでもおれはまだ、辛うじて二十代。おっさんではない。ただ最近、研究資料にと古いコミックを読み過ぎたせいで、ちょっとレトロな言葉が出てしまうことがあるのだ。
白ワンピースの美少女は、大きな真っ黒い瞳でおれを見ていた。
「あの、篠崎北斗さんですか」
「え? ――ああ、そうだけど?」
「よかったぁ! あたし方向音痴で、さんざん迷ってしまって。朝のうちには到着しているはずが、こんな時間になっちゃったんです」
少女は目を輝かせて喜んだ。
重ねて言うが、おれはこの子をほんとうに知らない。しかも、防犯上の理由で、部屋の前に表札を出してもいない。いったい何故おれの名前を。
「あの、ところで、どちら様でしたっけ?」
「申し遅れました! あたしは、東奥山神社から遣わされました――ううっ!?」
少女はいきなり立ち上がると、めまいでも起こしたのか、バランスを崩しておれのほうに倒れかかってきた。おれはとっさに抱き止めた。
は、犯罪じゃないぞ。これ緊急事態だから! とにかく、誰も見ていないことが救いである。
その子は、驚くほど軽かった。風でも吹いたらどっかに飛んでいってしまいそうだ。
「き、きみ、大丈夫か?」
「ごめんなさい。実はあたし、しばらくまともな食事をしていないんです……。いきなり押しかけておいて図々しいですが、食べ物を頂けませんでしょうか」
女の子はか細い声でそう言った。
おれは、とりあえず彼女を元の位置に座らせた。バイト先から賞味期限がアレな食品を安く買ってきていたので、その中のサンドイッチでも渡そうかと、コンビニ袋をがさがさとまさぐり始めたときだった。
彼女はもじもじしながら、恥ずかしそうに言った。
「あ、いえ、そういう食べ物じゃなくて……」
「ん?」
「なんとご説明したものでしょう。 ……そうだ、北斗さん。前に、小説で新人賞をとるのが夢だって言っていましたよね? もしそうなったらどんなご気分です? 想像してみてください」
はて。親兄弟ですら知らないおれの夢を知っているとは、こやつ一体。
おれが書いているのは、いわゆるライトノベルってやつで、早い話が文字で書いた漫画みたいな、軽い作風の娯楽小説だ。何となく恥ずかしいものだから、周囲には極力言わないである。
まあ、それも今のうちだけのこと。
新人賞を獲得して、絵描きさんが美麗なカバーイラストを描いてくれて、有名レーベルから書籍が発行されれば、きっと大当たりでアニメ化の道まっしぐらである。
印税がっぽりで大儲けしたら、もはや隠しておく意味もない。鼻高々で両親に仕送りをしたり、更には家のひとつでも新築してやるつもりだ。
そうなった頃には、アンタいい歳してこんな破廉恥なお話を書くなんて……などと、誰にも言わせない。結果を見ろと言ってやりたい。稼いだ奴がいちばん偉いのだ!
うーん、なんと夢あふれる未来。選考委員の皆さま宜しくね。トラスト・ミー!
おっといけない。
目の前の女の子が空腹で倒れそうだというのに、おれとしたことがすっかり甘い妄想にひたってしまった。
おれが現実に戻ったとき、女の子はおれの顔めがけて白く細い腕を伸ばしてきた。頬は紅潮し、大きな瞳は恍惚として潤んでいる。
「ああ、なんて美味しそう――! ごめんなさい、もう我慢できません」
彼女の指が、おれの額をすっと撫でた。
いつのまにか、某チェーン店の棚に百円で並んでいそうなドーナツが少女の手に握られていた。セミスイートチョコレートがたっぷりかかっている。
もう一度、同じように彼女の手の平が額をかすめる。
ふたたびドーナツが現れた。今度は中にカスタードクリームを挟んだタイプである。
まばたきをする間もなかった。おれが驚いて、口をぱくぱくさせている間に、少女は二個のドーナツをぺろりと平らげてしまった。
「ご馳走様でした!」
女の子はすいっと立ち上がると、無邪気な笑顔でぺこりとお辞儀をした。青白かった頬には血色が戻っていた。口元にまだ粉砂糖がついている。
うーん、今の何だったんだ。手品か?
おれが首を傾げているとき、隣の部屋の中年夫婦が夕方の散歩から帰ってきてしまった。
ご婦人のほうは気さくな人で、おれに会うといつも声をかけてくれる。旦那さんは寡黙なタイプで、あまりしゃべったことがない。というか、たぶん一度もない。
気づいたときにはもはや手遅れで、二人はおれの部屋の前まで来てしまっていた。この少女となにか変なことがあったわけではないが、なんとなく後ろめたい。
内心焦りながら、おれはぎこちなく挨拶をした。
「こ、こんばんは」
「こんばんは。あら――そちらのかわいい子は妹さん?」
おばさんが、いつも通りの優しそうな笑顔でそう言ったので、おれはなんだか気が抜けてしまった。
そうだよね。この年齢差、普通は妹に見えるよね。
空気を察したのか、少女は軽い足取りでおれの前に進み出て、となりの夫婦に頭を下げた。
「こんばんは! あたし、北斗兄さんの妹で、美羽っていいます。しばらくここでお世話になりますので、よろしくお願いします」
「まあまあ。礼儀正しい、いい妹さんね。こちらこそよろしくね」
おばさんは愛想よく笑いながら、隣の部屋へ戻っていった。おじさんのほうは、いぶかしげにおれの顔をじろじろと見ていたが、結局何も言わずに扉の中へ消えていった。
たぶん、似てない兄妹だ、などと思っているんだろうな。
美羽と名乗った見知らぬ少女は、おれの腕をつかむと、甘えるように言った。
「北斗にい、あたしたちも部屋に帰ろうよう。それにアイス食べたい」
勝手に「にい」と呼ぶな。アイス食うな。
ちょっと可愛い顔してるからって、何でも許されると思うなよ、って言ってやりたかったけれど、そこはぐっと飲み込んだ。その前に、根本的な問題がある。
おれはため息をついた。この子、一体誰なんだ。
妹だと言ってしまった以上、いつまでも立ち話をしているのも怪しまれる。
おれは少女を部屋に招き入れた。
ゴミ屋敷未満の、だらしない一般人レベルに散らかっている部屋に入れるのは申し訳ないと思ったが、この子が押しかけてきたも同然なのだから、仕方ないだろう。
古いちゃぶ台の前にちょこんと正座している姿は、まさに掃き溜めに鶴。
女の子が来るってわかっていたなら、もう少しくらいは片付けておいたかもしれないのだが。
「は、初めまして! あたし、東奥山神社から遣わされた者で、美羽と申します」
彼女はそう言うってお辞儀をした。勢いがありすぎて、ごつんと額をちゃぶ台に打ち付けてしまった。ドジっ娘のお約束パターンを目の当たりにしたのは、これが人生初である。
「あの、大丈夫?」
「は、はい、なんとか……」
美羽と名乗った少女は、痛む額を手でさすりながら目を潤ませていた。
そういえば、この子、さっきも東奥山神社って言っていたな。
おれは記憶を掘り起こした。神社に行くのなんて、初詣のときくらい。そういえば、今年の元旦はバイトが入っていたので、数日遅れで初詣に出かけた。そのとき行ったのが、東奥山神社だったような気がする。
「えーと……。宮司さんから言われてきたってこと? じゃあきみは、巫女さんか何か?」
「あ、あの、そうではなく……。東奥山神社の主神、えーっと確か、森羅なんちゃらのミコト、とかいう神様から遣わされました。憶えにくいのでシンラ様って呼んじゃってますけど」
「へ、へえー。神様……ね」
なんか面倒なことになってきた。
これはもうあれだ、早いとこ警察に連絡するとかしてお引き取り頂いたほうが、後々トラブルにならなくていいかもしれない。
スマートフォンを片手に立ち上がりかけたとき、美羽があわてて言った。
「待って、本当なんです! そ……そうだ! ほら、さっきの超能力、人間にはできないやつですよね? もう一回やってお見せしますので」
「さっきのやつ、って?」
おれは思い出した。
美羽はさっき、どこからかドーナツを二個も出してみせたのだ。
マジシャンは普通、ジャケットの内側とか、袖口とかに手品のネタを仕込んでいるという。ところが、美羽の着ているワンピースは半袖で、肘から先は丸出し。それ以外に上着はつけていない。ドーナツどころか、小物を仕込むのも至難の業だ。もしも手品だとしたら、相当の手練れであろう。
それに、美羽は倒れそうになるほど空腹だった、
手品のネタとしてドーナツを用意してあったのなら、そこまで我慢しないで食ってしまえば良かったのである。それに、突然取り出す小道具として、ドーナツである必要性はまったくないだろう。
ふうむ、と、おれは一息ついて座りなおした。
「では、もう一度やってみます。そうですねぇ……。小説が売れて、お金がたくさん儲かった状況を想像してみてください」
「金か……。ちょっと待て」
これでも、妄想は得意中の得意である。
おれの小説がアニメ化されて大ブームを起こし、本は全巻書店に平積み、馬鹿売れ、印税がっぽり。預金口座はうなるほどの金でいっぱいだ。
札束の風呂にも入り放題だけど、そんなアホらしいことはしない。
こんなボロアパートを出て、高層マンションの最上階に住もう。執筆用のアトリエは別に借りて、仕事とプライベートは完全に分離。
高級クラブで豪遊したい。毎晩シャンパンタワーをやって、高いボトルを入れて、きれいな女の子たちに囲まれて、ちやほやされたいのだ。
「いい感じです! その調子でお願いします!」
目の前で美羽がうれしそうに言ったが、おれは妄想に夢中でうわの空であった。
いや待て。クラブ遊びはまずいかな?
金の匂いを嗅ぎつけた女たちが寄ってきて、騙されて、気づいたときには吸い尽くされてすっからかん、なんて、どっかでそういう話を聞いたことがあるぞ。
いっそ、稼いだ金を元手に株でもやって、一山当てるほうが面白いかな? それとも、手堅く投資信託のほうが利口か? 資産運用は全てプロにお任せしたほうが、税金対策の面でも安心だし……。そもそも、専属の税理士でも雇ったほうがいいのか?
「そのあたりでストップ、ストップ!」
「はっ」
美羽の声で、おれは我にかえった。
あと少しだけ放っておいてくれたら、メガネの似合う美人秘書を雇って、ちょっと色っぽいイベントが満載な日常生活編が始まったのに。
――と、文句のひとつでも言ってやろうとしたときだ。
おれの額のあたりに、白煙のかたまりが浮かんでいる。
大きさはビーチボールくらい。たばこの煙と違い、そいつは丸く濃く固まっていて、おれのやや前方上側にとどまり続けている。
「出ました。これが北斗さんの『夢』です」
「おれの夢? これが?」
おれは、ふわふわ浮かんでいる煙玉を、おそるおそる指でつついてみた。が、何の感触もない。次には、手刀でまっぷたつに分けてやろうとしたが、おれの手がど真ん中を通過しても微動だにせず、なんの変化も現れなかった。
「これは、シンラ様からお借りした超能力なんです。あたし以外には触れることができません。さっきはお腹がすいていたので余裕がなかったのですが、こんどはゆっくりやりますね」
美羽は煙の真ん中に手を突っ込んだ。
もくもくしたものが一点に集中して、なにかの形を成し始めた。ものの数秒のうちに、それは白い皿に乗った茶色いケーキに変化していき、煙はすっかり消えてしまった。
「はい、出来ました。ちょっぴりほろ苦いチョコレートケーキ、通称、ザッハートルテのホイップクリーム添えです」
「おおっ!」
今度はおれもしっかり見届けた。これは本物の魔法か、あるいは、彼女の言葉を借りれば超能力か。
おれは、美羽が持っている皿に手を伸ばしてみたが、そこには何の手応えもなく、指がすり抜けていくばかりである。
「ごめんなさい。これもやっぱり、あたしにしか食べることが出来ないんです」
「そうなのか」
「その代わり、あたしは人間界の食べ物を一切食べません。北斗さんが幸せな妄想をしてくれさえすれば、あたしは飢えないってわけです」
「へぇー、大したもんだな」
おれは目をしばたたかせながら、皿の上のなんちゃらトルテとやらを見ていた。甘党じゃないおれは別段食べたいとも思わないが、ホテルのベーカリー製と言われてもおかしくないような、実に見事な出来映えである。
「では失礼して……いただきまーす!」
美羽は、銀色のフォークをタルトの一端に突き刺した。それは、バターをふんだんに使った重めの焼き菓子に似た感じで、皿の中でほろほろと崩れた。美羽はお構いなしで、添えられたクリームをたっぷり絡めながら口に運んでいる。
「――まあ、きみが神様のお使いってことは、百歩譲って信じよう。おれのところに来たのは、どんな理由で?」
「北斗さん、お忘れですか? ――ああ、憶えていないのですね。初詣のとき、シンラ様にお願いしていたじゃないですか。『小説で新人賞を獲れますように。あとついでに、誰かおふくろ以外の女性がやってきて、おれの部屋を片付けてくれますように』って」
うーん。言われてみれば、そんなことをお願いしたような気がする。
美羽は口をもごもごさせながら続けた。
「あたし、死にかけていたところをシンラ様に拾われて、助けていただいたんです。この御恩をどうお返ししたら良いものかとお訊ねしたところ、『この家に行って、この青年が夢を叶えるまでのしばらくの間、お手伝いでもしてきたらー?』という感じで、ご紹介頂きましたものですから」
なんか神様って適当だなあ。
他にもっと、叶えるべき願いはあったのではないか。たとえば、世界平和とか。経済の好転とか。世の中から戦争がなくなれとか。
それとも、初詣の願いなんて、みんな自己中心的なものばかりなんだろうか。
きっと人間なんて、口では美辞麗句を並べても、心の底は真っ黒なものなのさ。おれが神様になったなら、人々の冷酷な本性をすべて白日の下に晒してやりたい。
そんなことを考えていると、また目の前にもくもくした玉が現れた。
美羽が見逃すわけがなく、素早く手を伸ばすと、煙の中から棒つきのアイスキャンディーを取り出した。
「北斗さん、ナイス妄想です! さっきから食べたかったんです!」
「えっ、まだ食うの?」
ソーダ味らしきアイスバーにかぶりつく美羽を見ながら、おれは不思議と心がなごむのを感じていた。
甘いものに目がない彼女は無邪気で、恋愛対象としてはちょっと子供すぎるかもしれない。でも、本当に妹がいたらこんな感じかな、って思うと悪くない。
おれは、コンビニ袋からサンドイッチとカツ丼を取り出し、テレビを見ながら夕食をとった。
美羽はほんとうに人間の食べ物は要らないみたいで、お茶すらも口にしなかった。いつものバラエティー番組をみながら、他愛のない話題で盛り上がった。
夕食のあとは、日課の小説書きに着手した。
おれがパソコンに向かっている間、美羽は部屋のごみを片付けていた。けっして手際が良いとは言えないが、空のペットボトルや、あいたスナックの袋などを集め、廃棄用の袋にまとめていた。
執筆が一段落したころ、おれの部屋は少しだけ片付いていた。
美羽は疲れたのか、ソファーで背を丸めて、眠ってしまっている。おれは美羽に毛布をかけてやった。なぜか途端に眠気がやってきて、大きなあくびが出た。
「ふあー。おれもこのへんにして、寝るかなあ」
そのあと、シャワーを浴びて寝床に入った。おれにしては珍しく、よく眠れた気がした。
いろいろな夢をみた。良い夢だったような気がするが、朝になったらまったく憶えていなかった。美羽はおれよりも先に起きていた。どこから出したのか、あんぱんとイチゴ牛乳を手に持って、にこにことご機嫌そうな様子だった。
ははあ。夢を忘れたのは、こいつのせいに違いない。おいしいところを、全部もっていきやがったのだ。
こうして、おれと美羽の奇妙な同居生活が始まった。