挿話 ある影男による転生
元々、この挿話は16話『世界をなおすもの』と17話『敵対者』の間に入るものでした。
あまりいい話でなく、敵側のある人物の紹介になっている。
主人公側から視点が離れ、時代がちょっと過去。今から入れても冗漫となる。
なので、掲載を見送ったものです。
お話の最後の文が、17話の冒頭の台詞に繋がる感じです。
第一部、完のおまけ話と捉えてください。
(……死んだのか……)
男はそう思った。いや思ったというよりは見ていた。
男は青い霊体となって浮かんでいた。
肉体から魂が抜け出て、霊体みたいなものになって、男はその事故現場を上空より眺めていた。
――救急車。
その横で、腹を破裂させた自分の肉体が無様と転がっている。救急隊員もことの事態に最初は呆然と立ち尽くしていたが、すぐさま応急処置を開始する。
最悪な出来事であった。
最低な出来事であった。
男は道を急いでいた救急車に轢かれ死んでしまったのだ。
(くだらない人生だったな。死んでよかったか)
男は苦々しさを心の中に充満させ、自分の人生を思い出す。
コミュニケーション能力皆無の引きこもり。親から疎まれ、職もなし。することとすれば、ネットだけ。アホみたいに煽り、批判し、他人を馬鹿にする書き込みを一日中続けるだけの怠惰な人生。ちょっと煙草をきらし、外出した時に死んでしまった。
――戻りなさい。今ならやりなおせる。
唐突に、女性の声が響き渡った。
「誰だ? 戻れって何に?」
――体に! 体に戻りなさい! その人生を続けるのです!
男は謎の声に激しい反発心を覚えた。
「ふざけるな! 腹、ぐちゃぐちゃじゃないか! あんなのに戻れるか! もういいんだ! どうせ、戻ったっていいことない!」
男は今までの苛立ちを発散するかのように叫び、肉体に戻ることを拒否した。
その拒否が霊体にも連動した。一刻も離れたいという思いが霊体に浮遊力を与える。
男の霊体は肉体から離れ、空へと上昇していった。ビルや家が小さくなり、住んでいた街の全景を俯瞰し、雲の層を行き過ぎ、日本の大陸全土すら竜の形と見えるようになり、大気圏を越え、どんどん上がっていく。
――戻りな……さ……
女性の声は薄れ、周囲が黒くなった。
(すげー! 俺、宇宙にいる!)
男の霊体は宇宙にまで上昇してしまった。青い地球が見える。その地球からも離れてゆく。地球は小さくなり止まることなく男は飛んでいく。
(ど、どこまでいくんだ……)
ついには地球すら見えなくなって、星々が流れるだけとなった。さらに移動する速度があがった。とまらない。周囲の星々が流線のように流れていくだけで、もはや風景がなにか判別できない。
(どうしよう……)
さすがに男が少し焦ったときであった。
弾けるような音が響いた。
何かにぶつかったのか、なにかを裂いてしまったのか。
周囲の風景が変わっていた。
赤と青の線がうねる気味悪い空間。男の魂はその亜空間に飛び込んでしまったのだ。
《おやおや。なにかと波長が合ったと思えば……炭素物に宿る魂魄か》
シルクハットを被った影の男が立っていた。
「なんだ、お前!」
男は目も鼻もなく、三日月型の赤い口だけを飾る影男の、異様な姿に驚いた。
《我らは神々なり! ジグラットの名を冠する神々。世界を救済する神々よ》
「救済する神々? 神様なのか!」
救済するという言葉と先程、謎の女性が語りかけてきたある言葉が男に天恵を与えてしまった。
神が死んだ人間に何故か貴重で巨大な能力を与え転生させ、、第二の人生に謳歌させるというお話。それを知っていたがために男は、その判断をしてしまった。
「やりなおせるって言っていた! やったー! 転生か!」
影男は喜ぶ男をにまりと眺めると、愉快げに語った。
《ほう。これはそういう趣向か。よいだろう、炭素物。転生させてやろう! その魂魄を我々に委ねるか?》
「だめだめ! きちんと特典をつけてくれないと! もてもてのハレームで、英雄の力があるとか、チートなスパースターとか、そういうの転生させてくれないと駄目だよ。あと、今もっている記憶もそのまま受け継いで転生ね!」
男は得意げにいった。変なものに転生されてはたまらない。狡賢く思惑を巡らせて男は言うのだ。
《ほう。なんと安い要望ではないか。ハレームで英雄。チートなスパースター。今の記憶は失わずだな。いいだろう。その安い切望、我らが叶えてやろうぞ》
「あんた、ほんと気前のいい神様だ! 嬉しいぜ!」
《そうであろう。我らこそ世界を救済する神々であるからな》
影男は愉悦と嗤い、宣言するのだ。
《炭素物よ。お前の魂魄を我らに委ねるか? 我らにその魂魄を委ねる契約をするか》
「委ねる! 契約する!」
男は渾身をこめ叫んだ。これほど嬉しい条件はない。
《……受諾した。波長の全てが、思念の全てが、その魂魄が我らの手元に。契約通り、転生させよう!》
影男は愉悦と頷き、指をパチンと鳴らした。
男の視界が暗転した。
暗闇の中で少しばかり時間が経過したかもしれない。
男の魂はなにか場所と空間を流転し、そこにたどり着いたのだ。
(やったー!)
気づいたとき、男は心の中で叫んだ。
眼鏡をかけた美女が男の視界に見えたから。
これほどの美女がしげしげと覗き込んでいて、男はすぐさま感づいた。俺は賢いし、この場面がなにかすぐわかったと満足していた。
俺は赤ちゃんで、この眼鏡の美女は母親なのだと。
(定番のおっぱい吸いイベントがくるのか! こんな美人ママのおっぱい吸えるなんて、サイコーすぎる! ちゅうちゅうしちゃうぜ! 神様ありがと!)
男は歓喜したが、眼鏡の美女は奇妙なことを発言しだした。
「成功したのかしらん。んん、あ! いきそう!」
(成功? なんだ? エロいこと?)
男は状況が理解できず手間取った。
(ぎゃあああ! いて――――! 尻が!)
いきなり男の尻に激痛が走った。
男は咄嗟に振り返って、目玉が抜けそうなほどの衝撃と生理的悪寒を覚えた。蠅がいた。薄黄色の蠅が男の背に張り付こうとしていたのだ。
(ぎゃあ!)
迫ってくる蠅の大きさがおかしい。自分と同じ大きさではないか。気持ち悪すぎる。怪物か。赤い複眼を宿した蠅独特の産毛のある頭部が近寄る恐怖と嫌悪感に、男は蠅を反射的に両手で突き飛ばした。男は後ずさりし、気づいた。
自分の両手が細い。ひょろっと節みたいなもので毛だらけだ。体もつきも異様だ。
(うそ! うそ! 俺も、もしかして――)
男は見回した。いた。赤い複眼をした薄黄色をした蠅がうじゃうじゃといたのである。
(これってショウジョウバエ? 俺、ショウジョウバエに転生したのか)
「おい! まいこー。なに、やっているんだ?」
別の声が聞こえてきた。
「実験よ! 完成したの! フルートレス遺伝子を破壊する薬が!」
「フルートレス? なんじゃい、そりゃ!」
「フルートレスとは性の切り替え遺伝子と言われるものよ。これを破壊されたオスは、オスに交尾するようになるの~。ほら、見て。見事なオスハーレム!」
男もそれを見た。なんともおぞましい光景であったか。
(うそ、うそだろう!)
蠅の後ろに蠅がいる。
そのまた蠅の後ろに蠅がいる。
蠅蠅蠅蠅蠅蠅蠅……という列が出来ていたのである。
(これって……全部、オス同士なのか。ホモなんか……! オスで交尾しているのか!)
マッドな眼鏡科学者女の得意げな説明は続く。
「もちろん、人間の応用には難しいからさらなる研究と開発が必要だけどね。将来的にはイケメンにこそっと飲まして、夢のBL世界を!」
「な、なちゅうものをつくってんじゃい! 全部、燃やせ燃やせ!」
「いやーやめてー!」
物々しい音が聞こえてきたが、男はそれどころなかった。なにせ蠅に転生しまった。なにせ、それもオスの群れの中で、お尻を狙われている。
(なんかスキルとかあるんだろう! ないのか? おきまりのステータス画面は? ぴこんとか! でないでない! なんもない!)
そんなご都合主義なものはなかった。現実は冷酷であった。
大混乱している男の背後に、発情したオスの蠅が迫り――
ばしゃっと、頭上から透明の液体が降りかかった。
それから火のついたマッチ棒が投げ込まれる。
(ぎゃあああああああああああ!)
ハエ男は身もだえし、一気に焼け死んだ。
蠅も薬も資料も全て燃やされ、悪の科学者の夢は潰えたのである。
◇
「ふざんけな! なんで、蠅なんかに転生させやがった! 焼け死んだぞ!」
気づけば男の魂は、あの影男の前にいて叫んでいた。
《おやおや。ハレームとスパースターという要望に答えではないか》
影男は涼しい顔。とはいっても三日月口しかないのだが。
「蠅のどこがスパースターだ!」
《なんと教養のない炭素物よ。お前達はあの蠅を研究し、様々な新発見やらをしてきたのだろう。遺伝学とやらではあの蠅はスパースター的扱いだと我々の知識にあるぞ》
複眼が白目になった突然変異体のキイロショウジョウバエより伴性遺伝の発見。
ショウジョウバエにX線照射する研究実験より細胞の寿命を決めるテロメアなどの新発見がされてきた。
よってショウジョウバエは遺伝学の実験モデルとしてスーパースター的な扱いを受けている。
「えええ……」
男は言いよどんだ。相手が何をいったか理解でできなかった。男は怒りがあり、それを理解する前に感情が追いつかずしゃべりだす。
「うるさい! 屁理屈だ。あんな目にあわせて! 人間に転生させてくれ! きちんと転生させてくれ!」
《……わからぬのう。あのような肉の塊に戻りたいとは。契約にはないが、転生させてやろうぞ。我々は混沌を産むものには寛容なのだ》
影男が尊大にいい指を鳴らすと、男の視野が暗転した。
すぐさま意識が覚醒した。なにか別の意思と、男の意思が切り替わったみたいであった。
暗い部屋である。
(なんだ……今度は、きちんと転生したんだろうな)
目が次第に慣れてきて、飛び込んできたのは拳であった。
拳、拳、拳、拳!
「やめろ! いてぇ! なにするんだ!」
執拗に殴られる。逃げようとしたが、体が動かない。椅子の上で両手脚が縛られている。
「おやおや。先までの威勢はどうした?」
「なにいってるんだ……俺が何をしたんだ? 俺は誰だ?」
「貴様!」
激昂する叫びがあって、また男は殴られた。
「お前はボスの娘を、皮を剥いで殺しやがった! それだけじゃねぇ。もう何百人もの女を殺してきた殺人鬼野郎だろうが!」
「え? え? え? 俺が殺人鬼?」
「神の生け贄にするために殺してきたなどとほざいた、この狂信者野郎が! あん。なんだ。こうやって拷問することも、お前の喜びになちまうだっけか。ボスには生まれたことを後悔するまで拷問しろと言われているんだが……困ったな」
「拷問! やめてくれ! 警察を呼んでくれ!」
「ははん! 警察だと! 質の悪いジョークだぜ。俺らマフィアだぜ。あいつらなんかに引き渡すかよ。まあ、一通り拷問はしておくか」
男は爪の間に釘串をつき入れられた。
「ひぃ! ぎゃあ」
そこから一気に生爪を剥がされる。赤い噴出があって強烈な痛みが男を襲う。
「やめて! いたい。転生したばかりなんだ。俺は違うんだ。やめて……やめて……!」
「なにいってんだ? ちょっと爪剥がしたぐらいで泣き言か。化けの皮が剥がれたな。痛みを受けるほど、勇者になるといってなかったか? ほら、次の爪いくぜ!」
「ぎゃあああ! やめて、違う! 俺は別人だ! 殺人鬼じゃない!」
男の魂と殺人鬼の魂は、この最悪な場面で入れ替わっていたのだろう。
男は両手両爪を剥がされ、髪を全て引き抜かれ、焼きゴテを背中に押され、目つぶしをされと、拷問を散々と受けた。
「俺は……悪いことなんてしてないのに、なんで!」
男が絶命するときの、断末魔はその一言であったという。
◇
「さ、殺人鬼なんて……違う……英雄とまるで逆じゃない……か……」
解放された男の魂は再び、影男の前にあった。
男の心は拷問生活で衰弱していた。
《なにをいうか! 世界に混沌を撒くものこそ英雄! あらゆる命を踏みつぶし、破壊し、何万何千何百もの命を奪い、残酷で陰惨な世界へ導くものこそ我らの望むもの!》
「な、なにをいっている……?」
男は白濁しそうな意識で悟りだした。
影男の価値観はなにか違うのではないか、と。
《あの殺人鬼は我らと波長があったものでな。淫乱な女どもの皮を剥ぎ粛清せよと思念を送ってやったのよ。あやつが殺人をするたびに囁いてやったぞ。レベルがあがったぞ! 体力があがったぞ! 筋力があがったぞ! 速度があがったぞ! 魔力があがったぞ! 短剣技能があがったぞ! 皮削ぎスキルを得たぞ! 世界への貢献度があがったぞ!とな》
精神体は思念、波長、波動を送り、下位世界にいるものに夢見、予知、悪夢、魔が差した衝動で語りかけるのだ。高位精神体が欲する感情を、世界に生み出すために。
《この魂は拷問の試練を受けて、死を介し、勇者になる試練の最中であった。お前にその瞬間を奪われて、この狂人の魂は絶望しているぞ!》
影男は掌を翻した。その上には、黒く毒々しい人魂が揺れている。
影男は赤い三日月口を開くと、黒い人魂をぺろりと飲み込んだ。
《この濃密な絶望! なんという美味よ!》
影男は全身を歓喜で震わせた。
「魂を食べて……お前……悪魔なのか……」
影男は男の魂を見て嗤った。
《そのような下等なものと一緒にするな。さて契約通り、再び転生させてやろう!》
「や、やめろ。また騙して変なものに転生させるのだろう? もうやめてくれ……!」
《もう泣き言を吐くか。我らは解っていたぞ。お前の魂は、その程度しか使い道がないことをな。決意も行動力もない怠惰な魂よ。そのような魂が千人や万の命を殺戮する存在まで成長できまい。だからこそ、我らはハレーム、英雄、スパースターと複雑な条件を満たして転生させてやっているのだ》
「……契約破棄だ! やめてくれ!」
《では、今まで転生させた分の対価をもらおう! 案ずるな。対価はお前が苦しみ、絶望し、嘆くことだけだ。感謝するがよい!》
「え!」
男はやっと悟った。この影男は悪魔だ。邪悪なものだ。悪魔と契約してしまったのか。
《さあ! 我らの贄よ! 我らを満たすため、永遠と転生し続けるがよい!》
「そんな……そんな……!」
魂というものは強力な力の源泉であり、容易に渡せるものでない。しかしながら、心の屈服や心からの約束、契約などで簡単に渡せてしまう面もあるのだ。
男の魂は転生する。
男の魂は影男によって弄ばれる。
「やめろー! やめてくれー!」
男は魂の底から絶叫し、影男は愉悦に嗤った。
こうして、男の魂は永遠と転生を繰り返す。
美女ハレームで遊び尽くしたあとの、梅毒で死んでいく抜け殻みたいな歌手の男。
何万匹のガーターヘビがうねうねと群がる黒々とした気持ち悪い地面。そのコンバットという繁殖シーズンの、乱交するヘビのときもあった。
薬中毒で己を英雄と妄想していた男。
一夫多妻制のプレーリードッグのときもあった。男は侵入してきた雄と執拗な戦いをしたが闘争心がないゆえに、あっさりと負け、生き埋めにされた。
(プレーリードッグは敵の雄を生き埋めにするのか……酷い。苦しい、助けて、嫌だ……)
男は苦痛と絶望の転生を繰り返す。
(……神様……! 助けて……!)
そんなとき、ふと希望にすがるように思うのだ。
あの女性の声。
死んだとき、最初にきいた女性の声に従えば、人生をやりなおせたのだろうか。
(……あのとき聞こえた女の声は、体に戻れば、やりなおせるといっていた。どうしようもない手詰まりな俺の人生で、あんなぐちゃぐちゃの体に戻れる訳がない。いや、違う。……そうなのか? 試練?)
悪神は甘い言葉で、善神は試練を与え、人の心に関与してくる。
(あれほどの苦境でも、俺に戻れる強さと勇気があったなら、ということだったのか?)
男の心はゆるやかに壊れていく。
(俺がその強さをあそこで発揮すれば……やりなおせただろうな……でも俺はできなかった……)
あれは善神が与える試練であり、贈り物だったのだ。
心の強さは誰もいじれない。その強さをもつ機会に巡り合わせるこそ、善神の優しさ。しかし人はそれを欲のために踏みにじる。
古来より、その手の精神体は甘言を要して、人の魂を奪いにくるものなのだ。
メフィストフェレスよろしく、猿の手などで語られるように。
人は夢をみるものだ。
今の生活から逃げたいために。
もっと楽で、自分の夢を簡単に手に入れられる世界を欲するために。
彼ら彼女らはそれを狙ってくる。
「少女だけがいるハレームの天国へいけるよう、この現世で、異教徒殺しなさい」
そうやって、生きている人間同士でもそれを使うのだから、男が影男の誘惑から逃れられなかったのは仕方がないことであろう。
気をつけたまえ。
貴方の夢を楽に実現させようとする輩にあったときは。
特に、その名前を持つものにであったときは。
その名は――




