春融ける
諏訪の春は、黄色いお花から始まる。
そう母に教わってから、もういくとせ経つだろう。
帝都では白い梅が綻んで来る頃、私はひさかたぶりに諏訪の地を踏んでいた。懐かしいふるさとの山は淡い黄色の蝋梅が咲いていて、「ああ、春なのね」と、つい微笑んでしまう。
「菊乃さん、お足下は大丈夫ですか」
帝都の停車場からここまでついてきて下さった野宮中尉が、肩越しに振り返ってお尋ねになった。とたん、みっともなくこめかみを伝った汗を、わたしは手巾で押さえる。軍人さんらしく、襟高のカーキ色の軍服と軍帽をお召しなのに、野宮中尉は汗など少しもかいていらっしゃらない。汗みずくのわたしが不心得なようで、とても気恥ずかしかった。
「ええ、大丈夫です」
そうお答えしたのは良いのだけれど、淡い黄色に欧羅巴に咲いているのだという紫色のアネモネというお花を描いた銘仙の下で、わたしの足はもう随分悲鳴を上げている。ふるさとの山なんて小さいころははね回ったものだけれど、帝都暮らしが長くなると、こうもなまってしまうものなのか。
「ご無理をなさってはいけませんよ」
細面に目の大きな、優しげなお顔立ちの野宮中尉が眉尻を下げると、一層悪いことをしているような気持ちになってしまう。「はい」とお答えしたは良いのだけれど、野宮中尉は歩かれる速さをぐっと落としてくださった。
「お優しい旦那さまですなぁ」
声を掛けてくださった男の人は、諏訪の停車場からここまで荷運びを手伝ってくださっている土地の人だ。のんびりした諏訪訛りが、わたしにはとても懐かしい。
「いえ、私はこの女性のお供に過ぎません。この女性はね、もうすぐ三国一の男の奥方になられるんです」
「そいつは豪気だ! 羨ましい話だね」
からかわれたわたしは、曖昧に笑う。
ほかに、どうすることが出来ただろう。
わたしが諏訪から帝都に上ったのは、確か六つの年だった。
貧しい村の、その中でも決して裕福な家とは言えないところに生まれた以上、それは定めというものだろう。
ふるさとの山や、清い水の流れがとても好きだったわたしは「ごはんがたくさん食べられるよ」と聞いても「綺麗な着物もとっかえひっかえだよ」と聞いても、切なくなるばかりだった。
けれど他の、家族が食べていくために売られた村の娘たちとは違い、わたしが売られたのは帝都は新橋にある置屋さんだ。わたしは大人になってもわたし自身を売ることはなく、わたしの芸を売れば良い。周りから見ればずいぶん恵まれた娘に見えたことだろう。売られたその日は、わたしと他の娘達の差などわたし自身には解らなかったのだけれど。
それもこれも、両親がわたしに幼い頃から三味線を習わせて、いずれ芸妓として売る準備をしておいてくれたからだ。気は小さいけれど器用な父も、いつも弟妹の世話に追われていた母も、とても優しかったのだ、と、大きくなってから思い知った。
娘を売らなければやっていけない家で三味線を習いに行かせることが、簡単であるはずなどなかったのに……。
両親の必死の努力のおかげで、わたしは伝統ある新橋で芸妓となった。そうして女将さんから頂戴した名前が「菊乃」だ。
新橋芸者とはいえ、わたしは踊りは上手い方ではない。結局、三味線での演奏を専門とする地方になった。立方の華やかさに憧れる妓もたくさんいたが、わたしは地方になったことを嬉しく思いこそすれ、嫌だと思ったことは一度もない。
ただ困ったことがあるとすれば、地方になったことでますますわたしには「華」というものがなくなってしまったことだろう。
わたしは際立って美人という訳ではないし、外連味のある演奏をするのも苦手だった。その日の舞い手と覇を競うような音を奏でるよりも、指先の繊細や目線の艶を活かす音が奏でられればそれが一番良いと思っていたからだ。
女将さんには随分「せめて押し出しが強い性格ででもあればねぇ」と溜息を吐かれた。
というのも、これだけ背景に沈んでしまう芸と顔、それに性質では、遊びにお見えになる旦那衆の、どなたの目にも止まれない。どなたからもお座敷に指名されない芸妓では、そう稼ぐことなど出来ないからだ。
ぱっとしない芸妓であったわたしの生活が一変したのは、一昨年の春のお座敷からだった。
その日わたしは、朝から高い熱を出していた。お休みを頂戴すべきだったのだろうが、その日に限ってお座敷に出るよう指名があったのだ。
といっても、お見えになる旦那からではなく、特に決まったお馴染みもいないわたしのことを心配して下さった姉様芸妓からのご指名ではあったのだけれど。
けれど、わたしが身体を壊して出ないなどとなったら、新橋でも名妓と謳われる姉様の名に傷が付くと思った。
ましてこのお座敷は、野宮経正中尉と三好統一郎中尉のお二方のお座敷だったのだ。
野宮中尉と三好中尉は、まだお若いのに上質の遊びを好まれる方々だ、と、新橋では評判のお二方だった。いつも差し向かいに飲んでおられるお二方のお座敷に呼ばれるということは、それすなわち立派な芸を持っていると保障されることでもある──とまで言われていたのだ。
そんなお二方のお座敷に穴を空ける無様などする訳にはいかない。
わたしはいつもよりもお化粧を厚く塗って頬の赤味を誤魔化し、姉様芸妓と一緒にお座敷に出た。
そうして、撥を構えたところまでは覚えている。
次の記憶は、三好中尉の凄まじいまでの大声だった。
「水を持って来い──!!」
後から聞いた話によれば、三好中尉のお声で割烹料亭中の障子がびりびりと鳴ったのだということだ。
目を開けたわたしが見たものは、普段はにこにこなさっている目の大きな幼顔の眉根を寄せ「大丈夫ですか」と尋ねて下さった野宮中尉のお顔だった。
今はお二方のお座敷に出ていたのだということ、芸妓のくせにお客様に助けられてしまったということ──現実に気付いたわたしは、申し訳なさと恥ずかしさで必死に頷いた。
どかどかいう音と共に、三好中尉が水を持ってきて下さったのはその時だ。豪快を絵に描いたような方だったから、きっと待っていられなかったのだろう。
水の入ったお猪口は、三好中尉から野宮中尉の手を経て私の手の中にやってきた。
「飲めますか、ゆっくりで良いですからね。良く頑張られました」
「申し訳ありません、こんな……」
「構いませんから、ごゆっくり」
器を持つ私の手に、野宮中尉の指の長いお手が重なる。冷たいそのお手が恥ずかしくて、水を飲んで気持ちが良かったことも、三味線を弾けもせずに倒れてしまった申し訳なさや口惜しさも、全部忘れてしまいそうになったことを覚えている。
「まあまあ、菊乃ちゃんなんてこと!」
三好中尉が呼んで来られた、その割烹の女将さんが飛び込んでいらっしゃったのは、少し後の事だ。
その時には、私はお座布団を枕に部屋の片隅に横たえられて、野宮中尉と三好中尉に看病されていた。姉様芸妓やほかの芸妓仲間は、まずはお座敷が台無しなのでわたしを下がらせようとして下さったのだが、野宮中尉と三好中尉は「今動かすのは可哀想だ」とお二方でわあわあ看護して下さったのだ。
後でお二方とも「看護訓練の成果を確かめたくて」などと、照れていらっしゃったっけ。
「まあ、本当に不調法致しまして、申し訳もありません。今すぐ下がらせて別の妓を」
「いやいや、女将、何を言う! 美事なものではないか」
これもまた、熱のあるわたしでも良く聞き取れる大きなお声だった。三好中尉が、ぱん、と御自身の膝を叩かれて女将さんにおっしゃったのだ。
「菊乃さんは誠に天晴れな芸妓だ。自らの職責を果たすため、倒れるまで三味線を弾き続けるなど、そうそう出来る事ではない。不調法とはとんでもないことだぞ、女将。まるでいにしえの武士のようではないか。いまどき、軍人でもこんなに立派な者はそういないというのに」
三好中尉は直情的な方で、お声だけではなくて身振りも手振りも大きな方だった。女将さんが気を飲まれて、首振り人形のようにこくこく頷いていらっしゃったのを、わたしは申し訳なくお見上げしていた。
その間に野宮中尉は、私の額に濡れた手拭いを置いて下さりながら、そっと囁いて下さったのだ。
「私も、三好に同感です。倒れるその時まで三味線を手放そうとはなさらなかったあなたは、全く美事だったと思います。ですから菊乃さん、どうかこのことを失態などとは思わないで下さいね」
本当ですよ、と、優しく付け加えて下さった方に、わたしは何と申し上げるべきだったのだろう。
芸妓仲間の中でもお耳の肥えた方々だと評判の野宮中尉と三好中尉が認めて下さったことが嬉しくて、とうとうわたしは何も申し上げられなかったのだ。
お二方が私を庇って下さったおかげだろう。わたしは誰にも叱られずに済んだ。
それどころか、この日以降、わたしはお二方のお座敷には必ず呼ばれるようになった。お二方とも見目が良く、しかも陸軍では出世頭でいらっしゃるために随分やっかまれたものだ。立場が違えば、わたしだってそう思っただろう。
野宮中尉は商家のご三男ながらとても優秀で、軍学校の座学ではどれでも一番、今もなんでも出来る方で──そういうことを、水でも飲むようにお酒を飲みつつ、とても嬉しそうに語られるのは、三好中尉の方だった。
野宮中尉は「お前にそれを言われてもね」と苦笑なさりながら、静かにお酒を傾けるのが常だ。
三好中尉はお声と同じように作りの大きなお顔を綻ばせては、大法螺のような、それでいて「もしかしたら」と思わせるお話をなさり、わたしと野宮中尉が笑いながら伺う。いつもそういうお座敷だった。
万事控えめな野宮中尉が染めや刺繍も美しい手巾を下さったのは、秋の頃だった。
三好中尉が中座された際に「内緒ですよ」とお渡し下さったのです。
真っ白な柔らかい布に、菊花がいくつも縫い取られた綺麗な手巾だった。
「あの……頂戴する訳には、こんな上等な」
「菊の刺繍を見たときに、どうしてもあなたにお贈りしたくなったのです。ああ、もちろん、あなたの贔屓筋に対して申し訳が立たないというのならば、断って下さって良いのですからね」
「いいえ、とんでもない! ありがとうございます、野宮中尉。大切に致します」
「嬉しい事をおっしゃいますね。でも菊乃さん、仕舞いっぱなしにするのはなしですよ。折角差し上げたものですから、どうぞ存分にお使い下さい」
この方は御存知なのかしら、と、思った。
わたしがわたしの心の為に、この手巾を仕舞い込んでおこうと思ったことを──。
贈り主の仰せなのだから、わたしはその日から大切にこの手巾を使い始めた。もちろん、野宮中尉がいらっしゃるお座敷には忘れたことなど一度もない。
野宮中尉はたいそう喜んで下さって、素晴らしい手巾を幾つも下さった。
それをいいことに、わたしは最初に頂戴した菊花の手巾を、芸事の中で一番好きな箏を弾くための琴爪を包む「特別」の手巾にしたのだ。いつでも肌身離さず懐の中に入れて、汚さず持ち歩くことが出来るように。
わたしがわたしの中に、叶うはずのない望みを見付けたのは、その頃だっただろうか。
わたしは諏訪の貧しい芸妓、あの方は裕福な帝都の軍人さん。奇跡など起こるはずもない。
わたしの道が更に変転したのは、冬のことだった。
諏訪にある実家が、村ごと地滑りでなくなってしまったのだ。わたしが帝都に上ってきた理由である両親も、弟妹も、もういない。
村の惨事とはいえ、わたしは年季まで勤めるべき新橋芸者だ。諏訪に帰るほどのお休みなど頂戴できる訳もない。それでも「一日ゆっくり睡っても良いから」と言って下さった女将さんのお言葉に甘えて、わたしは一日だけお休みを頂戴して部屋の中に引きこもった。
不思議と、涙は出なかった。
そうして翌日からお座敷に出ていたのだが、わたしの撥はどうしてもいつもの鮮やかな音を立ててはくれない。悲しいのか、寂しいのか、自分でも自分の気持ちがまるで解らなかった。
そうして二週間も過ぎただろうか。夜のお座敷に備えて朝の遅いわたしたちの置屋にどかどかいう激しい足音が響いた。
まさか、と、思う間もなくわたしの部屋の襖の前に、どすんと座る音がした。
「菊乃さん、聞こえているか!」
「……はい」
三好中尉のお声だ。こんなときでも豪快で、けれどどこか神妙なお声だな、と、わたしは思った。
「こんなときに何だと思うだろう。だが、菊乃さん。私の妻になってくれないか」
え、と、わたしの口からみっともない声が漏れたのを覚えている。それを聞いていらっしゃったのかどうか、三好中尉はなおもお続けになった。
「金で縛る気はないから、君の年季が明けるまでは言うまいと思っていた。だが、君のご家族のことを聞いた。私に、君を護らせて欲しい。生涯、私は全力で君を護ると誓う。
無論、私の立場をもって君を縛る気もない。君の好きにして良いんだ」
三好中尉からみれば、それは真実だったに違いない。
けれど、三好中尉は陸軍の出世頭だ。ご好意を得る事が出来れば、この先陸軍の宴席にこの置屋から芸妓をたくさん呼んでいただけるかも知れない。それに、三好中尉の細君が出た置屋となれば、他の方の評判にもなる。
そういう事情を考えれば、わたしよりも周りがこの縁談に乗り気になるのは、解っていた。三好中尉ご本人のご意向がどうあれ、わたしには選択肢など一つしかなかったのだ。
「……喜んで、お受けいたします」
がらりと音を立てて襖が外から開いたのは、そのときだった。
「本当か! 本当だな!?」
顔中で笑まれるとは、ああいうことを言うのだろう。大きな犬がじゃれかかって来るような、そんな印象を受けた。
心が痛んだ。わたしなどが結婚の申し出を受けたことを、そんなにも喜んで下さったのかと思うと……。
「けれど、一つだけお願いがございます」
「おう、なんでも言ってくれ!」
「お嫁入りの前に一度だけ、郷里の諏訪に帰りたく存じます」
諏訪のうつくしい水の中に、わたしの想いを捨てに行かねばならない。せめてそうしなければ、この方に申し訳が立たないと想ったのだ。
「うんわかった! 一人旅は危ないし、私も行く。君の故郷を見てみたいしな」
低く良く響くお声でそうおっしゃったので、私は「ありがとうございます」とだけ申し上げた。
わたしはそれからすぐに、三好中尉のおかげで置屋から落籍せて戴いた。
田舎出のわたしには行儀作法など、覚えなければならないことや、とある中将閣下の養女となって体裁を調える必要がある。わたしは馴染んだ置屋から、中将閣下のお屋敷に引き取られた。
そのため祝言は初夏になり、諏訪に戻るのは春までずれ込んだ。
野宮中尉にお会いすることはなかった。わたしはもう芸妓ではなく、三好中尉の許嫁だ。三好中尉が伴ってきて下さらぬ限り、野宮中尉にお会いすることはない。そして一度もおいでにならなかったことに、わたしはほっと胸を撫で下ろしていた。
あの懐かしい諏訪の流れの中にこの気持ちを融かすより早く、胸を張って野宮中尉にお会いすることなど決して出来ないと、解っていたからだ。
そうしてずっと待っていた諏訪への戻りの朝、三好中尉と待ち合わせをした東京停車場にいらっしゃったのは、野宮中尉だった。
息を飲んで黙り込んだ私に、野宮中尉は軍帽を取られ、柔らかな声で挨拶をして下さったのだ。
「三好の奴に急な仕事が入りましてね。あいつに『私の許嫁を託せるのはお前しかいない』と言われたので、諏訪までの往復のお供をすることになりました。急な事で連絡も出来ずに申し訳ありません」
「いえ……」
神仏がみそなわすのならば、何とお意地の悪いことだろう。
そうしてわたしは、黄色い花の咲き乱れる諏訪の春を、野宮中尉と一緒に歩いている。村のあった場所を歩き、遠い親戚が面倒を見てくれている先祖の墓所に参り──きらきら流れる水の流れに涙が滲みそうだった。
わたしはここに、わたしのなかのたからものをとかしていく。そのあてをとなりにつれて。
夕の汽車で帝都に戻れるのが、せめてもの救いであっただろう。
どこか甘い薫りのする蝋梅の林を抜け、ようやく停車場まで戻ったときには、わたしはくたくたになっていた。いっそ、今までのことが全て夢であったなら良かったのに。
ところが停車場の改札で待っていたのは、汽車が一時間遅れているという報せだったのだ。
「ちょっとお待ち下さいね、菊乃さん」
野宮中尉はそれを駅員さんから聞くなり停車場を飛び出していかれ、戻ってこられた時には停車場前の旅館の一室を借り上げてこられていた。汽車が来るまで、お茶でも飲んで待っていることが出来るとのことである。
「済みません、狭いところに二人など」
「いいえ。とんでもありません」
きっと具合が悪そうだったわたしを気遣って下さってのことだろう。そういう御方だから……。
古い木の匂いがする、大きな旅館だった。硝子障子も綺麗な二階の角部屋で、野宮中尉は窓を思い切り開け放たれた。疚しいことなど何もない、と、おっしゃりたかったのだろう。
「急なことで、最近では貸していない部屋しかなかったそうですが、我慢して下さいね。菊乃さん」
「いいえ、そんな……」
わたしは部屋の下座に座り、ふと、隅に立てかけられている箏を見付けた。
どきん、と、心臓が跳ねた。右手で胸元を押さえると、懐に収めてある手巾と中の琴爪との感触がある。すべてを捨てると言いながら、わたしはそれを持ち歩いていることにすら気付かなかったのだ。
「あの、済みません」
お茶を運んできて下さった仲居さんに、思い切って声を掛ける。わたしはあまり人様に声を掛けることがないので、野宮中尉はもちろん、わたし自身さえも驚いていた。
けれどもきっとこれが、最初で最後の機会なのだ。
「あの箏、少し弾いてもよろしいですか?」
「え……ああ、ええ、大丈夫だと思いますが」
戸惑っているらしい仲居さんに「ありがとうございます」と手早く礼を述べると、わたしは箏に触れた。薄く埃は被っているが、決して悪い箏ではない。琴柱を仕舞った筺も、すぐ傍にあった。
「野宮中尉。ここまで来て下さったお礼に、わたしの箏を聞いては頂けませんか?」
「喜んで」
いつも通り穏やかなお声にわたしは微笑み返し、箏の準備をした。琴柱をたてながら、知る限りの曲を思い返す。
選んだのは、早春を描いた曲だった。
懐から出したあの菊花の手巾を広げ、琴爪を嵌める。
そうしてわたしは、箏を奏でた。平調子の七の音から始まるその曲は、箏曲らしく小さな音を連ねて出来ている。きらきら輝くような音は、冬の奥底から萌え出づる黄色い花に似ていた。
優しく、穏やかなその音は──わたしのなかの想いであり、わたしの中の野宮中尉そのものだった。
連なる音は優しく、水滴が水面に円を描くようにゆらめいて広がる。
わたしはそれを、いつまでもみていたかった。
雪が融け、さらさら流れ始める。温い東風の中には、甘い薫りも混ざるだろう。すべてがやさしく目覚めるように、あなたがどうかこの春に抱かれていますように。
箏の弦を左手でそっと押さえ、わたしは頭を下げた。
「お粗末さまでした」
「素晴らしい演奏でした」
「お笑い下さい。酷い演奏でしたのに」
わたしは箏の音が一等好きだったのだけれど、わたしには箏の才はない。お師匠さんたちが「三味線は弾けるのに、箏はどうしてこうかしら」と首を傾げるほどだ。わたしが野宮中尉の前で箏を弾いたと知ったら、新橋芸者の恥さらしだと真っ青になられたことだろう。
「いいえ、素晴らしい演奏でした。心底、そう思います」
いつもは穏やかに微笑むばかりの野宮中尉が、見たことがないほど真剣な顔をしていらした。
ああ、伝わったのだ──。
暫く黙っていらした野宮中尉は、窓の外を御覧になり、やがてゆっくりと語り出された。
「……多分ご存じないでしょうから、お話しておきましょう。
菊乃さん。三好はね、あなたとの結婚を親類縁者全てに猛反対されました。あいつの家はご維新で揺らぎこそしましたが、元は旗本の家柄ですからね。しかしあいつは頑として引かず『伝統なんぞにとらわれているから、それこそ江戸は昔になったのだ。私は護り甲斐のある者しか妻にはしない』と凄い剣幕で親族を片端から言い負かし、あるいは縁を切ったのだとか」
「まあ……」
知らなかった。
三好中尉は、そんなご苦労をなさったなどと、ただの一度もおっしゃらなかったのに。
「あいつはあなたを幸福にします。きっと三国一の花嫁になられますよ、あなたは」
眉尻を下げて微笑まれたあの方の前で、わたしは元のように琴爪を手巾に包み「そうかも知れませんわ」とだけお答えした。
一時間遅れた汽車に乗り、わたしたちは夜の東京停車場へと戻った。
赤煉瓦の駅舎には、もう諏訪の春の薫りはどこにもない。解ってはいたのだけれど、それがとても寂しかった。
「菊乃、野宮!」
「ああ、来たのか」
停車場の改札には、三好中尉が待っていらしたのだ。
「済まなかったな、遠くまで」
「お前たちのためだ。何でもない」
もういつもの穏やかな微笑みに戻っていらした野宮中尉に、わたしは「ご足労お掛けいたしました」と頭を下げる。
「いいえ。では」
野宮中尉はきりと軍帽を被りなおされ、そのまま早足でわたしたちのところから離れて行かれた。
「加穂」
低い声で語りかけられたのはそのときだ。
一瞬なんのことか解らず、それから慌てて「はい」とお返事をする。随分長いこと「菊乃」として生きてきたわたしは、本名である「加穂」という名を忘れかけていたのだ。
「戻ってきた君たちに、私は謝るつもりはない」
声もなく見上げた私に、三好中尉は視線だけをじっと寄越された。
そうして、間の抜けたことにわたしは漸く悟る。
この方は、すべてを御存知だったのだ、と。
「だが、誓いは守る。私は全力で君を護り、君をしあわせにしてみせる。絶対だ」
「……はい。
でももうひとつ、我儘を申し上げてもよろしいですか」
「聞こう」
「どうぞわたしのことは、今後『菊乃』と呼ばないで下さいまし」
せめて最後の芸と共に、「菊乃」はあの方のもとへ。
わたしの意図など、きっと見透していらっしゃっただろう。それなのに三好中尉は「解った」とだけお答えになって、深くをお尋ねにならなかった。
わたしはきっと幸せになれるのだろう。それこそ、三国一の花嫁になれるに違いない。
けれど、きっともう二度と箏を弾くことはない。
停車場に、汽車の汽笛が響く。
懐に仕舞ったままの手巾と琴爪を、わたしはこの停車場のごみばこに捨てていくのだろう。
黄色い花を描いた着物の女の子が、あの方の後を追って走っていったような気がした。