三章 女神の想いと再会
――貴方に会えなくなってから、どのくらい年月が過ぎたのだろう。
「早く会いたいなぁ……」
何もかもが白い部屋で、ぽつりと彼女は呟いた。
その声は、小さな鈴を転がしたような、澄んでいてとても綺麗だ。
何もなく、部屋の中央に人の顔より一回り程大きな水晶玉が土台と共にあるだけだ。
その水晶玉は彼女の意思で外の世界を映すことが出来る。
閉じ込められた彼女にとって、その水晶玉が外の世界と繋がっている唯一の物だ。だが、その水晶玉でも彼女が一番見たいものを映すことは出来ない。
そのように彼女の父が作ったからだ。
そして、彼女をこの部屋に閉じ込めたのも父と兄と姉達だ。
彼女は小さく息を洩らした。
「ねぇ、貴方は私のことを覚えている……?」
この部屋に閉じ込められてから、何度も何度も問い掛けた言葉だ。
その問い掛けの答えは長い年月を過ぎても、彼女の中で消化しきれずにいる。
「……人は、忘れやすいわ。だから、貴方も忘れているのかしら」
そう考えてしまい、彼女の胸が小さく痛んだ。
眉を寄せ、目尻に涙が溢れそうになる。
「……でも、貴方が無事なら私は……」
――それでもいい。
そう言おうとしたが、彼女は口を噤んだ。
首を緩く振る。振る度に長い白に近い緑色の髪が揺れる。
「それでもいい、だなんて言えない。私、貴方に会いたい……」
涙が溢れそうになり、彼女は抱えていた膝に顔を埋める。
ひどい別れ方をしてしまった。
意識のない彼が目覚めるまで、傍にいたかった。
なのに、父と兄と姉達が彼女を彼から無理矢理引き離し、この何もない白い部屋に閉じ込めた。
その状況を見ていた彼の部下がきっと説明をしてくれていると思う。
けれど、彼女から彼にどうして傍にいれなかったのかを伝えていない。
「……ちゃんと伝えたいな。会いたいな……」
長い年月の間、何度も何度も繰り返し呟いた言葉を今日も呟く。
昔、彼からもらった名も無き透き通った水色の小さな石の首飾りを白魚のような綺麗な手で彼女は大切に握る。
彼女は辺りを見渡した。
何もかもが白すぎて、部屋の出入口が同化していて分からない。
部屋から逃げ出そうにも、彼女は逃げ出せずにいた。
自分の持つ力も父達に封じられ、使えない。
「……何のための女神の力よ……」
自分の力の無さに、彼女は唇を噛んだ。
強く噛んでしまったのか、整った綺麗な唇から血が流れる。
「――折角の綺麗な唇なのですから、噛まないで下さい」
不意に自分以外の声が聞こえ、彼女は驚いて声の方向に顔を向けた。
見覚えのある顔に、彼女は目を見開いた。
「トーイ……?」
掠れた声で彼女は見覚えのある人物の愛称を呼ぶ。
「どうか、自分を傷めないで下さい。カエティスが悲しみますよ、ネレヴェーユ様」
柔らかく微笑する人物に呼ばれ、自分の名前がその名前だったことを彼女――ネレヴェーユは思い出す。
人の名前は覚えているのに、自分の名前を忘れていたことに少し驚く。
そんなことより、閉じ込められている部屋に何故、よく知っている人物がいるのか疑問に思った。
その疑問が自然に血が滲んだ唇から紡がれる。
「トーイ。貴方、どうしてここにいるのですか……?」
ネレヴェーユの問いに、彼女の目の前に立つ金色の髪、優しげな緑色の目をした青年は苦笑した。
「呼ばれたのですよ、貴女のお父上に」
「え、お父様に……?」
「貴女のお父上は卑怯ですよね……。ご自分が閉じ込めたのに、今は関係のない、もう別の生を受けている私を魂の奥から呼び起こして、私に貴女をこの部屋から解放するように言ってくるのですから」
眉を寄せ、腕を組んで小さく溜め息を吐いて青年は答えた。
「え……?」
青年の説明に、ネレヴェーユの思考が止まる。
「……私、この部屋から出られるのですか……?」
聞き間違えたのではないかと思い、ネレヴェーユは青年に聞く。
その問い掛けに青年は大きく頷き、爽やかに微笑んだ。
「ええ、そうです。ここから出られます」
「……本当に……本当ですか……?」
青年の言葉が信じきれず、ネレヴェーユは立ち上がり、何度も確認する。
「本当ですよ。良かったですね」
「……はい。本当に嬉しい……。これで、彼に会えます」
目から涙が溢れ、ネレヴェーユは両手を顔にあてる。
その様子を青年は穏やかな笑みを浮かべ、見守った。
「……さて。私はこの辺で、お暇させて頂きます。そろそろ戻らないと朝になりますし」
「えっ? あ、はい。ありがとうございます、トーイ。貴方のおかげで、彼に会いに行けます」
花のように微笑み、ネレヴェーユは青年に礼を言った。
「いえ。私もネレヴェーユ様とカエティスのことが、別の生を受けてからもずっと気になっていたので、ちょうど良かったですよ」
青年もネレヴェーユに微笑みを返し、部屋の中央に置いてある水晶玉を見た。
水晶玉にはクウェール王国の様子が常に映し出されている。
クウェール王国を守護する女神、ネレヴェーユの意志によって、国内のあちらこちらの様子を映すことが出来る。
ただ、唯一、映すことが出来ないのはネレヴェーユの想い人、カエティスが住む場所。
――それが、ネレヴェーユの父である、この世界の神が下した彼女への罰だ。
何故、罰を与えたのか理由を知っている青年は彼女に同情した。
そこであることをふと思い出した。
「あ。そういえば、カエティスは今、カイと名乗ってますから、くれぐれもカエティスと人前で呼ばないで下さいね。呼んでしまうと、彼が怒りますよ」
何かを思い出したのか、青年は渋い顔をして言った。
「はい。分かりました」
ネレヴェーユは小さく笑って頷いた。
頷いた拍子に長い白に近い緑色の髪が揺れる。
「ところで、今は生まれ変わってると仰ってましたが、そうなのですか?」
「はい、そうですよ。前世でもある私の記憶もしっかり覚えてますよ」
普通は覚えていないのですが、と付け加えて青年は答えた。
「そうですか。トーイ、また会えますか……?」
「もちろん。カエティスに会いに行くつもりですから。その時にまたお会いしましょう、ネレヴェーユ様」
爽やかに微笑み、青年は言って、部屋の隅を指差した。
「あちらからこの部屋を出ることが出来ます。さぁ、どうぞ」
部屋の隅へとネレヴェーユと共に、青年は歩く。
歩きながら、青年は隣で目を輝かせているクウェール王国を守護する女神を見る。会いたいと長い間、思い続けた人とこれから会えるのだから、逸る気持ちを抑え切れないのだろう。
人間の女の子のような女神を青年は穏やかに目を細めた。
何もかもが白い部屋の隅に着き、青年は壁に触れた。
「今から封印を解きますね」
「え、解きますって、お父様が封印したのですから、解呪は神の言葉ですよ? トーイ、大丈夫なのですか?」
不安げにネレヴェーユは青年を見上げた。
「大丈夫ですよ。私に不可能はありません。元クウェール王国の五代目国王トイウォースですよ? カエティスに出来て、私に出来ないだなんて、子孫が失望してしまいます」
その自信は何処から来るのか、青年――トイウォースは自信に満ちた顔で告げる。
「……そういえば、トーイはカエティスといつも何かを競い合ってましたよね。引き分けばかりでしたが」
お互い親友と呼び合いながらも、様々なことを競い合い、引き分けるカエティスとトイウォースを思い出し、ネレヴェーユは口元を綻ばせる。
「ええ。実を言いますと、今の生でもカエティスと競いたいと思っているのですよ」
爽やかに笑い、トイウォースは言った。
昔はともかく、伝説の守護騎士と呼ばれるようになってしまったカエティスと、別の生を受けながらも前世の記憶を持っているトイウォースが競い合いたいと思うのは無理もない。
カエティスには会えなかったが、五百年間、この部屋でクウェール王国を見守り続けたネレヴェーユは苦笑した。
「競い合うのもいいですが、お互い怪我をしないようにして下さい」
「はい、分かっております。では、ネレヴェーユ様。今から封印を解きます」
トイウォースは女神を閉じ込めた張本人のネレヴェーユの父である神に教えられた通りに壁に手を当て、言葉を紡ぐ。
人間では発音が難しいとされる神の言葉を、トイウォースは間違えずすらすらと紡ぐ。
ネレヴェーユは驚いて青年を見る。
……本当に発音が出来ている。
金髪で整った綺麗な顔の青年は集中していて、ネレヴェーユが見ていることに気付かずに言葉を紡いでいる。
彼が紡いでいる神の言葉は、封印された扉の開放と、封印されたネレヴェーユの力の解放だ。
神の言葉をただ紡いでいるわけではなく、しっかり力――魔力も加えている。
人間の中でも持つことが稀と言われている魔力をトイウォースは持っている。
だから、父は彼を呼んだのだろう。
ネレヴェーユはじっとトイウォースを心配そうに見た。
うっすらとだが、トイウォースの額に汗が浮かんでいる。
たくさんの魔力を使っているからだろう。
ネレヴェーユは申し訳なさでいっぱいになった。
その彼のおかげで、徐々に封じられていた女神の力が戻り、身体中に行き渡るのをネレヴェーユは感じた。
トイウォースが触れている白い壁から、隠されていた扉も現れ、ゆっくりと開いていく。
扉が完全に開き、トイウォースはネレヴェーユを見た。
「――出来ました」
にこやかに言い、トイウォースは扉に手を向ける。
「ネレヴェーユ様。さぁ、どうぞ」
綺麗な整った顔に笑みを浮かべ、トイウォースはネレヴェーユを導く。まるで、貴婦人を案内する紳士のようだ。
「ありがとうございます、トーイ」
花のように微笑み、ネレヴェーユはトイウォースに導かれるまま、閉じ込められていた部屋から出る。
一歩、また一歩と踏み締めて、ネレヴェーユは歩く。
神殿の廊下をトイウォースと共に歩き、ネレヴェーユは近くの窓を開けた。
ちょうど夜明けだった。
夜明けの空気を吸う。
ネレヴェーユは外の空気を五百年ぶりに吸ってみると懐かしく感じた。
こんなにも長い時間、閉じ込められていたのかと実感する。
「これから後のことは大丈夫ですよね? ネレヴェーユ様」
「はい、本当にありがとうございます。トーイ、貴方のおかげです」
華やかな笑みを浮かべ、ネレヴェーユは頭を下げた。久し振りの外の世界に嬉しさのあまり、目尻に涙が浮かぶ。
「いえ。私は貴女のお父上に頼まれただけですから」
小さく笑って、トイウォースは言った。
その笑みを見て、ネレヴェーユも顔を綻ばせる。
「それでは私はこの辺で帰りますね、ネレヴェーユ様」
トイウォースが挨拶をして、一礼するとゆっくりと身体が透けていった。
彼の今の生がある場所へ戻ろうとしているのだろう。
「はい。気を付けて。本当にありがとうございます、トーイ」
ネレヴェーユが微笑むと、トイウォースも笑みを返した。
そして、彼の姿はこの場から消えた。
「――私もカエティスに会いに行かなくては」
トイウォースを見送ったネレヴェーユは両手でそれぞれ拳を作り、意気込んだ。
カエティスに会う、自由になった彼女の最初の目的を達成するため、ネレヴェーユは準備に取り掛かった。
女神、ネレヴェーユの心を表すかのように夜明けの空は希望に満ちた色をしていた。
女神ネレヴェーユが閉じ込められていた部屋で、トイウォースと再会した頃。
カイは墓地の中央にある大きな記念碑のような形のカエティスの墓に腰掛けていた。
日中であれば、墓参りに来た都の人々に見つかって怒られるかもしれないが、今は夜だ。
夜に墓参りに来る者はまずいないので、誰にも見つからないし、怒られることはない。
「何せ、座っているのが墓で眠っているはずの本人だしなぁ」
墓に縋り、カイはのんびりと呟く。
「その本人が生きているのを知ったら、この墓を作った者は腰を抜かすだろうな」
カイの呟きを聞いていたビアンが横から口を挟んだ。
「あぁ、それがさ、墓守りとしてなら会ったことがあるんだよね、俺」
「…………はぁ」
明るい声で笑って後ろ頭を掻くカイに、ビアンはわざとらしく大きく溜め息を吐いた。
普通、生きているとはいえ自分の墓を見たらショックくらいは受けるだろうに、どうしてこの男はショックを受けるどころか、明るく話すのかビアンは不思議で堪らない。
「何だよ、ビアン。そのわざとらしい溜め息は」
「お前が変な奴すぎて、常識ある俺が呆れている意味の溜め息だよ」
再び、ビアンは溜め息を吐き、答えた。
「いやいや、俺は変な奴じゃないって。俺が変な奴だったらビアンもだろ?」
勢い良く首を左右に振り、カイが即座に否定した。
「何故、俺が変なんだ?!」
「ビアンが人の姿になれるのに狼の姿だから」
「その理由はさっき話したし、お前と初めて会った時にも話しただろ!」
夜であることを忘れて、ビアンは声を上げた。
心外だ、と言いたげな顔だ。
「――とにかく。俺は変な奴じゃない」
「いや、お前が変な奴で、常識があるのは俺だ」
「違うって。常識があるのは俺だって」
「――どちらも同じだと思いますよ、俺としては」
カイとビアンはお互いがお互いを否定し合っていると、更に横から誰かが口を挟んだ。
言い合っていたカイとビアンは、弾けるように立ち上がり、声の方を向いた。
カイはカエティスの墓に立て掛けてあったシャベルが、いつでも構えられるように手をかける。
ビアンもいつでも相手の喉を咬みきれるように牙を剥く。
「あ、驚かせちゃいましたか? すみません」
カイとビアンの反応に驚いて、声の主は恐縮そうに謝った。
月の光でカイは相手が誰なのか、ようやく分かった。
「あれ? 昼頃に来た、えーっと、確か……イスト君、だっけ?」
「はい。そうです、イストです。こんばんは、カエティス隊長」
にこやかにイストは笑みを浮かべる。
夜風で彼の肩のところで緩く結んでいる灰褐色の髪が揺れる。
「……あのさ、昼頃から俺のことカエティス隊長って呼んでるけど、何で俺をカエティス隊長と呼ぶのかな?」
「だって、貴方はカエティス隊長でしょ? 前世の俺の尊敬する上司の」
「……へ?」
イストの言葉にカイは目を丸くした。
彼は今、何と言ったのか、頭の中で反芻しながらカイは目を何度も瞬かせる。
横で不審に思ったのか、ビアンが相棒を見上げる。
「……前世……前世で俺が上司って今、言ったよね? イスト君」
茫然とした様子で、カイは少し掠れた声で尋ねた。
「ええ。言いましたよ?」
カイの問いを不思議に思いながら、イストは頷いた。
「……もしかして、イスト君の前世は、ミシェイル……なのかい?」
戸惑った様子で、カイは口を開いた。
口の中が渇いて、声が掠れ、震えた。
「はい、そうです。前世は貴方の部下のミシェイルでした。今はイストって名前ですけど。カエティス隊長、お久し振りです」
大きく頷き、イストは嬉しそうに微笑んだ。月の光が当たって、イストの笑顔が輝いてカイには見えた。
「……どうして、俺のことを覚えて……」
少しだけ、悲しげな顔をしてカイは呟くように尋ねた。
「うーん、話せば長くなるんですが、物心付いた時に、ある物語を母から聞いて違和感を覚えたのがきっかけです」
「違和感……?」
「はい。俺の記憶と、物語の内容が大分違っていたので子供ながらに調べました。その後、縁があってトーイ様のご子孫のウェル様にお会いして、あの方の家臣に弟と共になることが出来て、ウェル様と弟と一緒に貴方のことを調べましたがよく分からなくて……。俺が持っている記憶が前世だったと七年前にやっと分かったのです」
イストはカイに嬉しそうに笑って言った。
「七年前、ウェル様と一緒にカエティスの墓を訪れた時に、貴方を見かけて」
イストの言葉に、カイは息を飲んだ。
「貴方の姿が、五百年前から変わってなくて。俺の記憶の通りにここで墓守りをしている貴方がいて、嬉しかった」
本当に嬉しそうにイストはカイに説明した。
説明されたカイは何も言わず、イストをただ見つめた。
静かに聞いていたビアンが不審げにカイを見上げる。
「……そっか」
少し間を置いて、絞り出すようにカイは呟いた。
「俺を覚えていてくれて、ありがとう。イスト君」
そう言って、カイは小さく笑みを浮かべる。
その笑みを懐かしく感じ、イストは更に嬉しくなった。
「――ところで、前世でミシェイルだったことを話すために、イスト君はわざわざここに来たのかな?」
いつも通りの声の調子に戻り、カイは尋ねた。
「はい。兄弟のいなかったミシェイルにとって、貴方は兄のような存在ですから。それもあるんですが……ちょっと困ったことを耳にしまして」
「困ったこと?」
「ウチのウェル様がカエティス隊長に憧れているのはご存知ですよね?」
イストの問い掛けに、カイは頷いた。
それを確認して、イストは真剣な顔で口を開いた。
「ウェル様からお聞きしたと思いますが、ウェル様の従兄のトイウォース様がいらっしゃるのですが……」
「うん、それはウェル君に聞いたね」
「そのトイウォース様ですが、あの方も貴方のことを探しているようなのです」
イストは真剣な面持ちでカイに告げた。
「ウェル君にも言ったことなんだけど、どうして話がいきなり飛躍するかなぁ……」
困ったようにカイは頬を掻いた。
「それほど、貴方の影響が強いのですよ。実際の出来事が物語の内容と違っても」
少し苦笑しながら、イストは返した。
「影響って、俺はここで墓守りをしているだけなんだけど……なぁ、ビアン」
ちらりとビアンを見て、カイは呟いた。
「いきなり俺に振るな。初めて会った時にも言ったが、俺はお前目当てでここに来たぞ」
「それはビアンがお腹を空かせて、たまたま居た俺を食べに来たんだろ?」
「……カエティス。お前、どれだけ前向きな考えをしているんだよ」
がっくりと項垂れ、ビアンは大きく息を吐いた。
「あはは、相変わらずですねー。カエティス隊長」
懐かしそうに目を細めて、イストは笑った。
「とにかく。ウェル様はともかく、目的は分かりませんが、トイウォース様も貴方を探していることを忘れないで下さいね。ここにもやって来るかもしれませんから」
「やって来ても相手はどうしようもないと思うけど、気を付けておくよ。ありがとう、イスト君」
穏やかに微笑み、カイは頷いた。
そして、カエティスの墓から離れ、イストに近付く。
きょとんとした表情をイストは浮かべ、カイを見た。
「もう遅いし、門まで送るよ、イスト君」
そう言って、カイはイストの肩を軽く叩いた。
「え? あ、はい。ありがとうございます」
頭を小さく下げ、イストは礼を言った。
頭を下げた時、カイが持つシャベルがイストは目に入った。
「カエティス隊長」
舗道を歩こうとしていたカイに後ろからイストは声を掛ける。
「ん? どうしたの?」
呼ばれて振り返り、カイは首を傾げた。
「……剣はどうしたのですか?」
「剣? 剣なら今は封じてるよ」
爽やかに笑い、明るい声でカイは答えた。
「どうしてですか?!」
夜だということを忘れて、イストは声を上げた。
「いや、どうしてと言われても……今はただの墓守りだしねぇ……」
イストの声に気圧され、カイは頬を掻いた。
「剣なしでここをどうやって守ってるんですか!?」
「だから、シャベルで。ね、ビアン」
同意を求めるようにカイはビアンを見た。
求められたビアンも少し間を置いて頷く。
それを見たイストは何も言えず、口をパクパクと動かすだけだった。
突っ込みたいのに、突っ込む言葉が出てこない。
そんな状態のイストを見て、ビアンは彼に近付いた。
「……お前の気持ちは分かるぞ、小僧。いつも俺も思っていることだからな」
前足をイストの足にポンと当てて、ビアンは慰めた。
「いざという時はどうするつもりなんですか」
「どうするって、その時はその時で考えるよ」
「それじゃあ、対処が遅くなるでしょう……」
呆れたような声を洩らし、イストは息を吐いた。額に手を当て、首を左右に振った。
「そう言うけどね、ただの墓守りが剣を持ってたらおかしいでしょ? だからシャベルなんだよ」
シャベルを持ち、自分の前に立ててカイは返した。
「……確かに墓守りが持っているとおかしいですけど、貴方はただの墓守りではなくて、本業は騎士でしょう? だから、持っていていいんです。剣は騎士の命なんですよ?」
イストは負けじとカイに言い返した。ここで言いくるめられたら、目の前の尊敬する彼の部下で、前世で騎士だった自分――ミシェイルが泣く。
「本業って、いつの話だい? 五百年近く経った今では俺はただの墓守りだよ。この都の人々は俺を墓守りだと思ってるしね」
「この都の人々がそう思っていても、貴方には剣を持っていて欲しいんです」
のらりくらりと躱そうとするカイに、イストは強く言った。水のように透き通った水色の右目、意志の強い鋼のような銀色の左目。それぞれ色が違うカイの目とぶつかる。
困ったように頭を左手で掻き、右手を腰に手を当てて、カイは空を見上げる。
空はまだ暗く、辺りは虫さえも寝静まっている。
「――分かった。考えておくよ。はい、この話は終わり。さぁ、本当に遅いし、帰ってしっかり寝ようね、イスト君」
そう言って、カイはイストの背中を押した。
「えっ、ちょっ、カエティス隊長?!」
「あ、イスト君。ビアンの前ならいいけど、他の人の前では俺のことをカエティスじゃなくて、カイって呼ぶようにね。色々、説明が難しかったりするからね。もちろん、隊長もなしね」
ぐいぐいイストの背中を押しながら、カイは忠告した。
「それは分かりますが、もう少し居させて下さいよ。久々にお会いしたのですし、たくさん話しましょうよ」
自分の背中を押すカイに、顔を後ろに向けてイストは言ってみた。
「駄目だよ。これから招かれざるお客さんが団体で来ちゃうから」
それに対応しないといけないから、と答え、カイは断った。
「招かれざるお客さんって、もしかして亡者ですか?」
「そうだよ。既に眠りについている人の身体を勝手に使うなんて、許せないよな」
眉間に皺を作り、カイは辺りを見る。
「……そうですね。近くに誰か、術者がいるのですか?」
「この墓場にはいないよ。亡者達の気配はするけど」
イストの背中を押すのをやめ、カイは彼の問い掛けに答えた。
自分達以外の音は周囲から聞こえないが、亡者達の気配は感じる。
五百年間、墓場にいるせいか、亡者達の気配に敏感になってしまったカイは小さく息を吐いた。
「毎晩、亡者達が来ているのですか?」
「最近はよく来るなぁ。それまでは三日に一回くらいだったんだけどね」
「そうですか。では、俺も手伝います」
嬉しそうに晴れやかな笑顔を浮かべてイストは言い、腰に引っ掛けてある剣の柄を握る。
「いいよ。そんなに多くもないし。それに、明日はウェル君、大事な会議があるんでしょ? なら、君も早く帰って寝なきゃ」
「そんな、カエティス隊長。俺なら大丈夫ですから、一緒に戦いましょうよ、久々に」
しゅん、と眉を八の字にしてイストはカイを見つめた。
「うっ……」
拾ってくれと言いたげな子犬のような目をするイストにカイは小さく呻いた。
カイの横で、静かに見ていたビアンが小さく息を吐いた。
「……お前、本当に女の子と小さい子に弱いな。カエティス」
「あの、俺は小さい子じゃありませんけど」
ビアンに「小さい子」呼ばわりされたイストは頬を膨らませて呟いた。
「カエティスにとっては、年下は皆、小さい子なんだよ」
「いやいや、その解釈は違うからね、ビアン。とにかく、イスト君はこのまま帰ること。いいね?」
「えー」
「えーじゃないよ。はい、大人しく帰ろうね」
もう一度、ぐいぐい背中を押して、カイはイストを門の方へと連れて行った。
もう空は白み始めていた。
「――カイさん。今日は何だかお疲れですね。大丈夫ですか?」
ぐったりと切株に伏せているカイに、リフィーアは心配そうに声を掛けた。
「あはは。ちょっとお客さんがたくさん来てね……。相手をするのに疲れちゃって」
伏せたまま、カイはひらひらと手を振った。
あれから、結局、イストはカイと亡者達を浄化させ、朝までしっかり居座った。
おかげで、カイは眠れずじまいで朝を迎えた。その頃、ビアンはちゃっかり寝床のある小屋で眠っていたのは言うまでもない。
「お客さんって……もしかして、あの怖い人達ですか?」
「怖いかどうかは知らないけど、うん。亡者達だよ」
「やっぱり……。あの、怪我はしてないですよね? カイさん」
口に手を当て、リフィーアはカイに尋ねた。怖いものが苦手なのか、顔が少し青い。
「大丈夫、怪我はしてないよ。疲れたけど」
伏せていた顔を上げ、カイは苦笑いをした。
「良かった……。カイさんがあの怖い人達の仲間入りしちゃったらどうしようかと思いました」
胸を撫で下ろし、リフィーアは安堵の息を洩らした。
「いやいや、それはないから」
カイと、近くを歩いていたビアンが声を揃えて言った。
「まぁ、あったとしても、足手まといの亡者だな」
ぼそりと呟き、ビアンはカイを見て鼻で笑った。
「いつもここぞという時に逃げるビアンに言われたくないね」
カイも同じように鼻で笑い返し、そっぽを向いた。
「逃げてるんじゃない。他にいないかの確認だ。そういうお前もいつもカラスに負けているじゃないか」
カイの言葉にムッとして、ビアンは言い返した。
「負けてるんじゃなくて……ん?」
ビアンに言い返そうとした時、上から木の枝が豪快に折れる音がした。
不審に思い、カイは自分の真上を見た。
見覚えのある姿にカイは目を見開いた。
「えぇっ?!」
「カイっ!」
声と共に頭上から白いものがカイに向かって落ちてきた。
そのままカイの首に白いものがしがみついた。
しがみつかれたカイは地面に俯せの状態で倒れた。
「ぶっ」
地面に口づけをしたカイは俯せのまま、動かなくなった。
「カ、カイさんっ!」
一瞬の出来事に呆気に取られていたリフィーアが我に返り、声を上げた。
カイの首にしがみついている白いものに、リフィーアは驚いた。
白に近い緑色の髪をした美しい女性が、嬉しそうにカイの首にしがみついている。
「カイっ! 会いたかった……!」
今にも泣きそうな声で、落ちてきた女性が更にカイにしがみついた。
が、カイは何も言わず、地面に伏せたままだ。
「カイ! どうして、何も言ってくれないの?」
何も言ってくれないカイに痺れを切らし、女性が唇を尖らせた。
「……あの、カイさんの首、絞まってますよ? ついでに言うと、乗ってますよ、カイさんに……」
どう言っていいのか戸惑ったが、リフィーアは女性に声を掛けてみた。
「え……?」
リフィーアに言われた女性は目を何度も瞬かせて、しがみついているカイをゆっくりと見る。
しっかりとしがみついてしまったようで、カイはぐったりと倒れている。
更に、女性はカイの上に乗っていることもあって、彼は身動きが出来ずにいる。
意識があるかどうか、女性の角度からではよく分からないが……。
茫然とカイを見つめている女性の顔がだんだん青くなっていく。
「きゃあっ! カイ、ごめんなさい!」
ぱっとカイの首から離れ、女性は謝った。
ようやく首が自由になり、カイは何度も呼吸をした。
「ねぇ、カイ、大丈夫……?」
恐る恐る女性はカイに声を掛けてみた。
「……うん、大丈夫。ただ、俺から降りてくれないかな? 君は軽いから乗っててもいいんだけどさ、流石に体勢が辛いんだよね……」
手をひらひらと振り、カイが俯せたまま言った。
「ごめんなさい!」
言われてハッとして、女性は慌てて自分が乗っているカイの背中から降りた。
身体がやっと自由になったカイは起き上がり、地面に胡座をかいた。
「……いやぁ、危うくあちらの世界にいる知り合いの先生と話し込むところだったよ」
首を左右に振りながら、カイは苦笑した。首を振ると、こきこきと渇いた音が鳴った。
「本当にごめんなさい、カイ。怪我……ない?」
しゅんと俯いて、女性は謝った。
「大丈夫だよ、頑丈だから」
小さく笑みを浮かべ、カイは頷いた。
「良かった……」
安堵の息を洩らし、女性は胸を撫で下ろした。
「あの、カイさん。こちらの方はお知り合いですか?」
一旦、話が終わったと感じたリフィーアは、カイに尋ねた。
「知り合いというか……それ以上だね」
リフィーアの問いに笑顔で答えたカイの言葉に、みるみる内に女性の顔が赤くなった。
「そ、それ以上って、どのくらいですか?!」
興味津々にリフィーアはカイににじり寄った。
更に女性の顔が赤くなった。
「どのくらいって……恋人、かな?」
にじり寄るリフィーアに、困ったようにカイは頬を掻く。
カイの言葉に、もっと女性の顔が赤くなった。
「恋人?! 恋人って、この前、お話ししていた遠くにいるって言ってた時の……?」
目を輝かせて、リフィーアは更にカイににじり寄った。カイの横で女性の顔がこれ以上はないくらいに赤くなった。まるで、林檎のようだ。
「そ、そうだね……」
照れくさそうに頬を掻きながら、カイはちらりと女性を見た。
女性は顔を真っ赤にして両手で自分の頬に触れていた。彼女の顔はとても嬉しそうだ。
そんな彼女を見て、カイは口元に穏やかな笑みを浮かべる。
一度、目を閉じる。
目を開けて、カイは爽やかに笑い、リフィーアと女性を交互に見た。
「そういえば紹介してなかったね。リフィーアちゃん、彼女の名前はネリーっていうんだ。ネリー、この子はリフィーアちゃんっていうんだ」
「あっ、初めまして、リフィーアさん。ネリーです」
カイに紹介された女性は慌てて居住まいを整え、リフィーアに挨拶をした。まだ少し顔が赤いが、花のように微笑んだ。
「こ、こちらこそ初めまして、ネリーさん。リフィーアといいます」
女性に挨拶され、リフィーアも慌てて挨拶をした。
その二人の様子をカイはにこやかに見守り、一人で何度も頷いた。
「……彼女が、女神ネレヴェーユか?」
小声でビアンは問い掛けながら、カイの横に座った。
「――うん。そうだよ」
穏やかな声で、カイは頷いた。
「恋人だったんだな、本当に」
「えっ、ちょっと、ビアン。俺の話を信じてなかったのか?」
「まぁ、半分?」
「ひどいなぁー」
息を吐き、カイは嘆いてみせるが、顔は笑顔だ。
「それより、いいのか?」
「何が?」
「お前の女神が、お前の昔話をしてるぞ」
「え?」
ビアンの言葉に驚いて、カイは素早い動きで女性――ネレヴェーユとリフィーアの会話に耳を向けた。
「あの、ネリーさん。カイさんとの出会いはどんな感じだったんですか?」
目を輝かせて、リフィーアはネレヴェーユに尋ねた。
「カイとの出会い、ですか? そうですね、空ふ……」
「はいはーい! ちょっとそこまでー!」
ネレヴェーユの言葉に覆い被さるようにカイが慌てて止めた。
「カイさん、止めないで下さいよー。良いところだったのに」
頬を膨らませて、リフィーアは眉を寄せた。
「いや、そこは止めておかないとマズイでしょ、リフィーアちゃん。ネリーもそこは話さずに『秘密』とか何とか言おうよ」
「あら、私は話すの平気よ? むしろ、たくさん話したいわ」
にっこりと華やかに微笑み、ネレヴェーユは言った。
「……ネリー……」
ネレヴェーユの言葉に、カイはがっくりと項垂れた。
「リフィーアさん、カイの昔話はまた今度、お話ししますね。カイったら、恥ずかしいみたいだから」
穏やかに笑って、ネレヴェーユは言った。
その言葉にカイは拗ねるようにそっぽを向く。
「はい! よろしくお願いします」
目を輝かせて頷き、リフィーアはカイを見た。
カイはばつが悪そうにビアンの尻尾を指で突いている。突かれているビアンは鬱陶しそうに、カイの指を前足で叩いている。
「あの、今日は私、帰りますね」
そんなカイに苦笑しながら、リフィーアは告げた。
「え? さっき来たばかりなのに?」
驚いた顔でカイはリフィーアに問う。
「はい。だって、カイさんとネリーさんは久し振りに会ったんですよね? それなら、たくさんお話ししないと」
にこにこと笑って、リフィーアは頷いた。
「で、その詳しい内容は今度、教えて下さいね。ネリーさん」
「はい、もちろん。リフィーアさん!」
リフィーアの手をぎゅっと握り、ネレヴェーユも笑顔で頷いた。
「え……ちょっと二人共、いつの間に仲良くなってたの?!」
「さっきに決まってるじゃないですか、カイさん」
「さっきって、もう?!」
「はい。なので、楽しみにしてます、ネリーさん!」
にこやかに微笑み、リフィーアはカイ達を見回した。
「それでは、私はこれで! また来ますね、カイさん」
「え? あ、うん。またおいで、リフィーアちゃん」
笑顔でぺこりとお辞儀をして、リフィーアは門へと歩いて行った。
カイは穏やかな笑みを浮かべ、姿が見えなくなるまで彼女を見送った。
そのカイをネレヴェーユはじっと見つめている。
穴が空くくらい見つめるネレヴェーユに気付き、カイは彼女に顔を向けた。
突然、顔を向けられたネレヴェーユはびっくりして、動きを止めた。目を丸くする。
「ネリー、どうしたんだい? 驚いた顔をして」
穏やかに目を細めて、カイはネレヴェーユに声を掛ける。
「こちらにまだ顔を向けるとは思わなかったから、びっくりしただけよ」
顔を赤くして、ネレヴェーユは笑った。
「久し振りね、カエティス」
今にも泣きそうな顔でネレヴェーユはもう一度笑う。
「うん、久し振り。ネレヴェーユ」
普段から呼んでいる彼女の愛称ではなく名前で呼び、カイは微笑する。
「貴方が無事で良かった……」
そう言いながら、ネレヴェーユはカイの胸を手でそっと触れる。
今は穴もなく、何より温かい。
あの時のように冷たくはなく、手からしっかりと鼓動を感じる。
ネレヴェーユは様々な思いが溢れ、涙を流した。
「君のおかげでね。ありがとう、ネリー」
ネレヴェーユの白に近い水色の目から流れる涙を親指でそっと拭い、カイは穏やかな笑みを浮かべる。
「カエティス……ごめんなさい」
いきなり謝るネレヴェーユに、カイは目を丸くした。
「何で謝るんだい? 君は悪いことをしてないのに」
首を傾げて言いながら、カイはネレヴェーユを切株に座らせる。そして、自分は対面になる位置の地面に胡座をかく。
「だって、私、貴方が死にかけていた時に傍にいなかったし、それに長い時間を生きられるようにしてしまったから……」
ネレヴェーユは震える声で呟くように言った。
俯き、白に近い緑色の長い髪が肩から一房流れる。
「俺が死にかけていた時のことはミシェイルから聞いたし、長い時間を生きられるようになったのもネリーのせいじゃないよ」
小さく自嘲するような笑みを口元に浮かべる。
「むしろ、こんな状況を招いたのは俺の方だよ」
隣にいたビアンが立ち上がる気配を感じ、カイは彼に目を向ける。
ビアンは何も言わず、すたすたと何処かへ歩いて行った。
気を遣って離れてくれたのだろう。
そんな相棒に心の中で感謝をしながら、カイはネレヴェーユにもう一度目を向けた。
「本当に気にしなくていいんだよ、ネリー」
「でも、私のせいで貴方はこの墓地にずっと……」
「それがさぁ、ここの墓地、昔から広いから忙しかったんだよね。お客さんもたくさん来たし」
明るい声でカイが言うと、ネレヴェーユは眉を寄せた。
カイの「お客さん」という言葉が気になったのだ。
「……お客さんって、女の人?」
「へ?」
間の抜けた声で、カイはネレヴェーユを見た。その彼の顔はきょとんとしていて、本当に驚いている。
「お客さんで女の子って、滅多に来ないよ、ネリー。まぁ、生前は女の子だったかもしれないけど」
「え……? 生前って……もしかして……」
「うん、ずっと前に亡くなった人達。結構、来るんだよね。彼ら」
「……そう。びっくりした」
カイのその言葉を聞いたネレヴェーユは不謹慎なのは分かっているが、心底安心した表情を見せた。
「私、勘違いしてたわ……」
「え? 勘違いって、何を勘違いしてたんだい?」
「なっ、何でもないわっ! 気にしないで、カエティス」
ネレヴェーユは両手を振りながら、慌てて言った。
「そう? 分かった。気にしないでおくよ。ところで、ネリー。聞きたかったんだけど、どうして木の上にいたんだい?」
カイの言葉に、今度はネレヴェーユがきょとんとする番だった。
「え?」
カイの言葉の意味をようやく理解したネレヴェーユは顔を赤くして俯いた。
「あ、あのね……カエティスを驚かせたかったの。久々に会うから、変わった再会もいいかなぁ……って」
本当は抱き着きたかっただけなのだが、そのことを言うのは恥ずかしいと思ったネレヴェーユは言わないでおいた。
「……まぁ、確かに、変わった再会の仕方だったね……。危うくあちらの世界にいる先生に会いそうだったよ。会ったら、怒られるだろうな」
片膝を立て、カイは苦笑いを浮かべる。
その苦笑いを穏やかな笑みに変えて、カイは切株に座るネレヴェーユを見上げた。
「そのことは置いといて。ここまでよく来てくれたね。お父さんに怒られなかった?」
「それが、そのお父様が私を部屋から出すようにトーイに頼んだの」
ネレヴェーユの言葉にカイは目を丸くした。
「えっ、トーイに? 君のお父さんが?」
ネレヴェーユがこくりと頷くのを見て、カイは眉を寄せる。
「……あいつ、よく了承したな」
ぼそりと小さく呟き、カイは腕を組む。
「え? なぁに?」
聞こえなかったのか、ネレヴェーユは聞き返した。
「何でもないよ。とにかく、君がここに来れたことに関して、トーイにお礼を言わないとね」
「そうね。カエティスにまた会いに行くって言ってたから、その時にもう一度言うわ」
大きく頷いて、ネレヴェーユは微笑んだ。
そして、ふと疑問に思ったことを尋ねてみた。
「ねぇ、カエティス。トーイの生まれ変わりの人にはもう会ったの?」
「えっ?」
少し上擦った声でカイは目を瞬かせ、首を傾げたままのネレヴェーユをじっと見る。
「えーっと、うん、まぁ、何年か前に、ね……」
歯切れの悪い言い方でカイは小さく頭を上下させる。
「どんな人だった? やっぱりトーイっぽい人だったの?」
興味津々にネレヴェーユは身を乗り出した。
綺麗な整った顔、金色の髪、国王らしい意志の強い緑色の目の青年、トイウォースしか知らないネレヴェーユにとって、彼の生まれ変わりもきっと彼らしい姿に違いない。
輝く白に近い水色の目を間近にしたカイは説明に窮した。
少しの間、沈黙が降りる。
カイとネレヴェーユの間をそよ風がふわりと吹き、それぞれの髪を優しく撫でた。
「……そ、それは、会ってからのお楽しみ、がいいと思うよ、ネリー。俺の口からはとてもじゃないけど説明が出来ないよ……」
困ったように眉を下げて、カイは呟くように告げた。
「そう。分かったわ。楽しみにしておくわ!」
カイを困らせたくないのか、ネレヴェーユはあっさりと身を引いて頷いた。
身を引いてくれたネレヴェーユに安堵の息を洩らし、カイは綻んだ。
「あ、そうだわ! リフィーアさんのことだけど、彼女は一体、いつからここに来ているの?」
「最近だよ」
「リフィーアさん、カエティスの昔の知り合いにいなかった?」
何かが気になるのか、少し眉を寄せてネレヴェーユは問い掛けた。
「知り合いというか、彼女はウィンベルク公爵家の子だよ」
あっさりとした声音でカイは答えた。
あっさり過ぎるカイの言葉にネレヴェーユの思考が少しだけ固まる。
「えっ……じゃ、じゃあ……」
それだけを言って、ネレヴェーユは言おうとした続きの言葉が出て来ず、口元に手を当てた。
「言おうとしていることは大体分かるよ、ネリー」
苦笑いを浮かべ、カイは頷く。
「カエティス……貴方は大丈夫なの? リフィーアさんも……」
切株から離れて、ネレヴェーユはカイの前に座り、彼の手にそっと触れる。
また泣きそうな表情でカイを見上げる。
「俺は大丈夫。リフィーアちゃんもしっかり守るよ。彼女の両親とも約束したしね」
安心させるように穏やかな笑みを浮かべ、カイはネレヴェーユを抱き上げ、切株に座らせる。
「貴方とリフィーアさんの関係のこと、彼女は知っているの……?」
「いや、多分、知らないと思うよ。彼女の周りで知っているのは今の公爵だけだと思う」
「リフィーアさんには話すの?」
「話すつもりは今のところないよ。何事もないかもしれないし」
胡座を掻いたまま、カイは膝の上に頬杖を突く。
「……そうね。でも、何かが起こってからじゃ遅いわ」
「それでも、リフィーアちゃんには穏やかな人生を送って欲しいからね」
穏やかに目を細めて、カイは頬杖を解く。
「だから、極力言わないでおきたいんだ」
そう接いで、カイは水色と銀色の珍しい目をネレヴェーユに向けた。
「ネリー、これから君はどうするんだい? 神殿に帰るのかい?」
「え? そうね。そのつもりよ。でも、今までとは違って自由に出入りが出来るから、またここに行くわね」
切株から立ち上がり、ネレヴェーユは微笑した。
「いつでもおいで。俺はここにいるから」
カイも立ち上がり、ネレヴェーユに小さく笑みを返す。
その笑みが、出会ってから時折見せる少し切なげな笑みで、ネレヴェーユは小さく胸に痛みを感じた。
「――カエティスっ」
少しだけ声を上げて、ネレヴェーユはカイに抱き着いた。
驚いたカイは慌てて彼女を抱き留める。
「ネ、ネリー……?」
「大丈夫だから……私はいつでも貴方の傍にいるから……」
そっとカイの首に腕を回し、ネレヴェーユは彼の耳元で告げる。
「え……」
しばらく、ネレヴェーユが何のことを言っているのか理解出来ず、カイは目を瞬かせた。
やっと理解出来たカイは嬉しそうに笑って、ネレヴェーユの耳元にそっと囁いた。
「ありがとう、ネリー」
ネレヴェーユの背中に腕を回し、カイは彼女の頬に優しく口を触れた。
驚いたネレヴェーユは勢い良くカイの首から離れ、何度も目を瞬かせて彼を見る。
「こちらこそ、ありがとう。カエティス」
顔を真っ赤にしてネレヴェーユはカイが触れた頬にそっと手を当て、嬉しそうに微笑んだ。
そして、ネレヴェーユもカイの頬に優しく口を触れる。
「それじゃあ、私、帰るわね。また行くわ」
「うん、待ってるよ」
穏やかに笑って、カイは頷いた。
ネレヴェーユも花のように笑い返し、ゆっくりと消えた。
ネレヴェーユがいた場所を穏やかに見つめ、カイは静かに息を吐いた。
「……やっぱり、ネリーに弱いし、敵わないなぁ」
柔らかい風が、カイの所どころ金の色が混じっている赤い髪を弄ぶ。
「……熱い話は終わったか? カエティス」
背後から低い少し不機嫌な声が聞こえ、カイは振り返った。
「熱いかは知らないけど、話は終わったよ、ビアン」
ビアンの言葉に苦笑しながら、カイは墓地の奥を見遣った。
木々に止まる鳥達がざわめいている。
眉を寄せて、カイは困ったように頭を掻いた。
「……気付いているか? この気配に」
墓地の奥、一点を見つめているカイにビアンは尋ねた。
「気付かなかったら、墓守り失格だよ」
「……動き出すのかもな」
「うわぁ、嫌だなぁー、それは」
中腰で座り込み、カイは嘆息する。
「永遠に動き出さないで欲しいな」
率直な感想を述べ、カイは顔を顰める。
「噂にしか聞いたことがないから分からないが、動き出さないで欲しいのは確かだな」
ビアンも大きく頷き、カイが見つめている方向――墓地の奥を見遣る。
墓地の奥と同じ方向の空は徐々に夕暮れに近付いている。
その夕暮れに近付く空が、カイとビアンの不安を現しているかのように、橙色と青色を混ぜたような色をしていた。