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忘却の行方

作者: 紺野美子
掲載日:2026/05/24

数ある作品の中から選んでいただき、ありがとうございます。

初めて世に小説を提出します。



 

 無理にでも一緒にいることを選ぶべきだった。感情がすべて液体であれば、一気に飲み干して見せるのに。


 まただ。私の何がいけなかったんだろうと、何度も思考を巡らせて考える。高校生の頃から仲の良い親友の塔子は、二十歳で結婚し、二十三歳で盛大な結婚式を開いた。

 その一年後に幼い子供と旦那を家に残し閉鎖病棟に入院した。知らせが届いたのは、入院から約一ヶ月後だった。


 高校卒業後は頻繁に会っていたが、私の大学とバイトが忙しくなってきたタイミングで塔子が妊娠と出産をし、お互いに生活スタイルが変化したことから結婚式に参加して以降塔子と会うことは極端に減っていった。連絡手段はメールのみで、やり取りのスピードは月に六通ほどだった。


 それでも昔のように他愛もないやり取りを続けていた。きっと昔も今も、お互いに「親友」という認識がすれ違ったことはないと、そう感じている。


 ラインなどの便利な連絡アプリを使おうよ、と勧めても塔子はいつも「ああいうの苦手なんだよね」と言うだけで一度も試そうとしなかった。塔子は高校時代から大の機械音痴だった。


『みどりちゃん!明けましておめでとう。今年もよろしくね!』

『塔子、明けましておめでとう。今年こそは会いたいね!お互い健康に過ごそうね』


 そうして年始の挨拶メールから始まり、そこから毎月何通かやり取りをする。塔子は私のことを学生時代から変わらず「みどりちゃん」と呼ぶ。


 高校二年で同じクラスになり、席順が 坂本 翠 と 佐野 塔子 で前後なことから塔子から話しかけてくれてよく話すようになった。友達と呼べるまでの関係に発展したお昼休みのある時、塔子が「みーりん」と呼んできたことがあった。二人で校庭を眺めながら、変なあだ名だねえ、なんて笑いながら理由を聞くとなかなか塔子らしい返事が返ってきたことを思い出す。


「あたしさ、舌足らずなのか分からないけど、ちょっと「ど」の音が発音しにくいんだよね。だから、「ど」を抜いてみーりん!みどりちゃんって呼ぶのも可愛いけどあだ名で呼ぶ方があたしのものって感じがして好きなんだけど、気に入らなかった?」

 お気に入りのぬいぐるみを慣れた手つきで可愛がるように、私の腕を雑に揉みしだきながら言う。仲良くなり始めた頃から感じていたことだが、塔子は好きなものに対して距離感がとても近い。


「あたしね、みーりんの肌が大好き。あんまり多くはないお肉たち(脂肪という意味だろう)が、皮膚と骨に必死に張り付いている感じ。一生懸命に生きているんだなって感じる。あと、みーりんの肌の匂いも大好き。日によって温度が違うところも好き。昨日なに食べたのかなとか、今どんな風にみーりんの体内は生きるために巡っているのかなとか、あたしが触ったとこの皮膚だけピンク色に可愛く染ったりしないかなとか、そんなことを考えるだけで言葉にならない愛おしい気持ちが溢れるの!」

「はあ…また変なこと言ってる…。くすぐったいんだけどー!触るのはいいけどつねったり擦ったりはしないでよ〜」


 その一日だけ「みーりん」と呼んで、翌日からはいつも通り「みどりちゃん」呼びに戻っていた。私はそのことになんの疑問も持たず、よくある気まぐれな遊びだろうと思っていた。



 塔子には、母親や父親と呼べる存在の人間がもう既にこの世にいないことを知ったのは、知り合って一年後、高校の卒業式前日だった。


「卒業式、呼ぶ人いない」

「そうなの?うちは母親が来るみたい」

「あたし生まれた時から母親と父親いないんだよね、顔も知らなくて。あたしのことすぐ捨てたらしい」

「そうだったんだ…。じゃあ、おばあちゃんとかは?」

「もう80歳だから来れないかな、施設入ってるし」

「そっか…。知らなかった、話してくれてありがとうね」

「みどりちゃんには言っておかないとね!だからあたしね、絶対幸せになってやるんだー。子供も産むし、素敵な家に住む!」

「塔子は可愛いから大丈夫だよ、その通りになるはず。」

「ふふ、ありがとうみどりちゃん♡みどりちゃんがあたしの母親だったら良かったなー」

「何それ。けど確かに私は塔子の母親になれる素質があるかもね、へへ」

「でしょ?大好き、みどりちゃん」

「私も大好きだよ。塔子」

「さ、日も暮れてきたことだし帰ろっか」

「そうだね、また明日ね、塔子」

「うん、また明日ね!みどりちゃん」



 塔子、何してるかな。最後にメールの返信が届いたのは一ヶ月前の四月だった。浪人時代にバイト先で知り合ったらしい、現在は金融会社で勤める年上の堅実な男と結婚して、大学受験を諦めて子供を産み育て、勤めていた広告会社を退職して専業主婦をしていると聞いていた。


 塔子とのメール履歴を開くと、当時の困惑が蘇る。

『みーりん、結婚は墓場ってほんとみたい。旦那も子供も愛おしくて可愛いのにあたしが欲しいものはここにはないって体の中が静かに泣いてる』


 なんとも塔子らしい内容だった。何故か急に「みーりん」呼びが復活していたからか、開いた数秒は少し戸惑った。過去に一度だけ呼んでくれたあだ名を塔子は覚えていて、私は忘れていた。一日だけ使ったあだ名を高校卒業から六年経ってまた使う意味を考えたけど、分からなかった。いつも塔子は予測不能だった。

 これまでも何度か家庭内のことが書かれたメールが送られてきていた。


『あたしって家事が下手みたい。マヨネーズとサラダ油を三つもストックしちゃってる』

『旦那がね、あたしの靴が汚いって。磨くか新しいの買いなよって言われちゃった』

『息子がね、幼稚園行きたくないって…いつも遊具で遊んでる時に身長の高い同い年の女の子が先生にバレないように砂を投げてきて嫌なんだって言うの。先生に相談したらね、ちゃんと注意して見ておきますねって。息子はその先生のことも嫌いだって言うの』



 塔子は、私には見えない世界を生きていて、それがどんなに苦しく悲しくて孤独なのか、当時の私には到底想像がつかなかった。それが私の人生最大の過ちだった。

 


 もしかすると塔子は旦那からDVや言葉の暴力を受けているのかもしれない、と想像し心を傷ませ、居ても立っても居られなくなり、塔子からのメールに二分という早さで返信をしたことがあった。

『塔子、大丈夫?私で良ければどんな話でも聞くから電話しておいでよ。私は塔子の味方だよ』


 塔子からの返信はなかった。


『旦那言い方ひどいね〜。靴なんて気に入ったもの履けばいいんだよ。気分転換に今度一緒にコスメでも見に行かない?気になってるアイシャドウがあるんだよね』


 何度かこちらから心配だよ、会おう、電話しよう、と誘いのメールも送った。理由は分からないが、これまで一度も誘いのメールに言及した返信はなかった。そしてまた数日経って、別の話題か、家庭内の話題でメールが届く。


 塔子からメールが届かなくなって一ヶ月半が経った。仕事が忙しかったせいもあり、私は特に気にしていなかった。今でさえ、どれだけ無神経に過ごしていたか後悔ばかり募る。


 四月のある日、塔子のアドレスから「お世話になっております」という件名で未読ボックスにメールが入っていたことに気が付く。時間帯を見ると、昨晩の二十二時に届いたものだった。



『お世話になっております。塔子の夫の幸介です。結婚式ぶりのご連絡がこのような形になってしまい、申し訳ございません。塔子が、先月閉鎖病棟に入院しました。面会の際に塔子から、翠さんにメールを送ってほしいと頼まれたので、お伝えします。家族以外の面会は許可されていないので、退院しましたら塔子の方からまたご連絡差し上げます。入院先は高良病院です。失礼します。』



 たまたまその日は社外の人達と会食があり、次期に組む案件先のクライアントと連絡先を交換したタイミングでメールを開いてしまい、塔子の旦那から届いたメールを読んだ。

 その場で持っていたワイングラスの中の透明がかった液体を、薄い呼吸のまま見つめ、その場で手足が固まる。目眩がしてきたタイミングでハッと正気を取り戻し、社交辞令の会話が繰り広げられる空間の中人々を掻き分けるようにトイレに逃げ込む。鏡を見ると涙が目に溢れていた。涙を拭い、充血改善用のクール目薬を瞳に垂らす。スーッと視界が冷たくなる。体だけが火照って、頭と瞳と手はひんやりしている…早くここから抜け出さないと死んでしまう、心がそう叫んだ。



 塔子に何が起きたのだろう。どれだけ思考を巡らせても、記憶を蘇らせても、今の私には分からなかった。悔しい。塔子からのSOSを取りこぼしてしまった自分に腹が立つ。あのメールたちはすべて「今すぐ助けて」という緊急連絡だったのだと解る。メールが届く度に走って会いに行くべきだった。きっと塔子は何度も私を呼んでくれていた。私が更に塔子を傷付けたことに変わりはない。



 どうにか会食を切り抜けたあと、鞄に押し込んでいたペラペラのサンダルを袋から取り出し、ヒールから履き替える。つま先が広がって、歩くことが苦じゃなくなった快感なんてすぐに忘れて早足で帰路を進み、家の近くの公園にあるベンチに腰掛ける。スマートフォンを取り出し、もう一度メールを読み返す。



 検索エンジンを開き「高良病院」と打ち込み、いくつか出てきた中の一番上にある病院のホームページを開く。ずっと心の中がざわつく。さほど綺麗とは言えない外観の病院の玄関写真が添えられているホームページ。数年間編集していないであろう写真の画質、病院の概要、古くて読みにくいフォント。「当院について」「受診案内」「アクセス」「お問い合わせ」…数々の院内写真と共に並べられた文字たち。



 塔子はどうして入院したのだろう。よりによって閉鎖病棟なんて。その分野の情報に疎い自分に苛立ちながら、再度検索エンジンで「閉鎖病棟 入院理由」と検索する。

 **自傷・自殺の恐れがある方:自身の生命に危険が及ぶ可能性がある状態。他害行為のおそれがある方:他の患者や周囲の人に危害を加える恐れがある場合。急性期で興奮状態にある方:強い混乱や幻覚・妄想により、日常生活や治療が困難な状態。病識の欠如や治療中断の恐れがある方:治療が必要であるという認識がなく、病院から抜け出してしまう可能性がある場合。**

 …どれも塔子に当てはまる気がしない。私が知らないだけで、この約二年の間に塔子に何が起きたのだろう。どの瞬間も、忘れてゆきそうなものを取りこぼさないように、大切に生きるべきだった。





ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

お時間ありましたら、ご感想やリアクションをお送りいただけますと励みになります。

どんなご意見にも、真摯に向き合いたいです。



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