子猫と少年 其の二
影は、一真達が近づいてくるのに気づくと慌てて反対方向へ逃げ出した。
「こら、まて」
二人は走り出した。
影はしかし、角を2つ3つ曲がったところであえなく着物の襟首を捕まれる。
「なんだ、子供じゃないか」
拍子抜けした声で安次郎がいった。
坊主頭の子供はもがいて逃げようとするが、一真はそのまま体を持ち上げ子供の足は空を走った。
「はなせっ。はなせっ」
「どうして沙代をつけまわしているのか訳をいえ」
一真が静かな声で尋ねる。
「おいら、しらねえ。つけまわしなんてしてねえ」
「嘘つけ」
安次郎が鼻をつまんだ。
「ほんとだってば。あの女の人は確かにおれの恩人だけど」
一真は子供をおろした。
「沙代が何かお前にしたのか」
子供はうなずいた。
「おいら三太っていうんだ。そこにある丸鐘屋で奉公してる」
丸鐘屋は主人一人でやっている小さな薬種屋である。
薬の調合がとても巧く隠れた名店だが、これまで奉公人を取ることはなかった。
しかし歳を取って、いつまでも一人でやっていくわけには行かなくなり、遠い親戚から跡継ぎをかねた奉公人をとることにしたのだ。
そこでつれてこられたのが三太である。
4人兄弟の三太は、最初のうちこそ辛抱強く奉公をしていたが、親や兄弟のことが恋しくてたまらない。
主人は、親同然に優しく接してくれるが恋しさは募るばかりだ。
そんな三太は、ある日4匹の子猫が捨てられているのを見つけた。
兄弟のことが重なってみえて、つい連れて帰ってしまう。
優しい主人のことだから許してくれるだろうとも思ったのだ。
ところが、主人は猫を見るなり他の飼い主を探すように命じたのだった。
三太は悲しくなり、家族恋しさもあいまって我慢してきたものがついに破裂した。
今まで弱音の一つも吐かなかった三太がぽろぽろと大粒の涙をこぼす。
そんな三太を見かねて主人が頭をやさしくなでた。
「わしらが作っているものは薬だ。余計なものが入ってしまえば、薬は毒にもなるんだよ。もし作っている薬に猫の毛が入ってしまって、それを猫でかぶれてしまう人が飲んだらそれこそ毒だ。たとえ、かぶれない人が飲むものだって余計なもんが混ざってしまえばわしはそれを薬とは呼べない。それはものづくりの基本だ」
主人は続ける。
「わしらの仕事はまっつぐなものをつくらないといけない。人の命を預かるものだからな。それにはよがんだものは作ってはいけないんだよ」
三太は「まっつぐ?」と聞き返した。
「まっすぐってことだよ。ゆがんだものをつくっちゃならない。昔、仲の良かった櫛師のくちぐせだったんだ。さあ、わしも手伝ってあげるから」
主人が微笑んで、猫好きの常連客の名前を書き付け始めた。
三太は主人の書き付けを頼りに常連の客のところをいくつも訪ねた。
その甲斐もあり何とか三匹の引き取り手はついた。
しかし、残り一匹の引き取り手がどうしても見つからない。
困り果てて、辻で一休みしていると懐に入れていた子猫がいないことに気づいた。
慌てて、元来た道を引き返し、探してまわるが見つけ出せない。
そのうちにひどい雨が降り出したのだ。
ずぶぬれになりながら探してまわるっていると、先ほど休憩していた辻の真ん中に子猫が鳴いているのを見つけた。
「いた」
三太は駆け寄ろうとしたが、辻の横手の道から勢いをつけた大八車が来るのが見えた。
場合によっては、子供を引くこともある大八車は全く止まる気配がない。
このままでは猫が引かれる、そうは思っても足がすくみ動けない。
三太は物陰にしゃがみこんで耳をふさぎ、念仏を唱えた。
その時、沙代が飛び出したのだ。
大八車は沙代と猫の手前ぎりぎりで止まり、悪態をつくとすぐに去っていった。
泥だらけになった沙代は、優しく子猫を抱いて連れて行く。
三太は沙代に神様を見た気がした。
手を合わせて有り余るほどの感謝の気持ちをのせて沙代に拝む。
沙代の去った後には、きれいな朱色の櫛が落ちていた。
「きっとあの女の人が落としたんだ」
そう考えた三太はそっと懐に入れると、そのまま大事に持って帰ったのだ。
「おいらは、その櫛を返そうとしてあの人を追っていただけだよ。お侍さんたちがいて怖いから、返しづらくて思わずついてきちゃっただけだよ」
三太は朱の色の美しい彫の入った櫛を取り出した。
「ここのところお店が忙しくて、外に出る暇がなかったんだ。だから今日になっちまったんだけどこのまま持ってるわけにも行かないし」
櫛の歯をいじりながら三太がいった。
その櫛を一真が取り上げる。
「沙代のものじゃないな」
高価そうな彫を見た一真は一目見るなりそういった。
そんなに裕福ではない御家人では立派な櫛はもてない。
そもそも櫛自体いくつももっていない。
「この餓鬼、適当なこと言って」
安次郎が頭を小突く。
驚いたのは三太だ。
「そんなはずない。だって、他に誰もいなかったし泥も傷も付いていなくて、落としたばかりだったよ、あれは」
安次郎が一真に向き直った。
「親戚のあやめ様からいただいた下がり物でもないのか」
「あの人はこんな派手な朱は好まないからな」
一真は櫛を三太に返す。
「すれ違った大八車から落ちたのかもしれない」
三太はがっかりしている。
大事そうに持っていた様子からしても、沙代のものと信じていたことはわかる。
それにしても高そうな櫛だ。
普通の人間なら大騒ぎして探すことだろう。
落とした持ち主は番所に届けを出したり、見たものはいないか尋ね歩いたりもするはずだ。
そうなれば近所である三太の耳にも入ると思うのだが、三太の様子ではそんなこともなさそうだ。
表立って探せない理由でもあるのか?
そもそもこの子供はつけまわし犯ではなかった。
つまりは、なにも解決していないのだ。
嫌な予感がした。
「もし、もしもだ。この櫛を落としたのは大八車のほうで、この櫛を探しているとしたら。櫛を拾ったのが沙代だと思い込んでるとしたら。そしてそれが、表立って探せないようなまずい理由があったとしたら」
一真がつぶやく。
安次郎が声を上げた。
「そうか、沙代ちゃんをつけまわして隙をついて櫛を取り戻そうとしているのかもしれない」
つけまわしは数日前から始まり、昨日は追いかけられたといっていた。
数日の間に沙代の行動が先読みできるようになり、ついに襲いかかったのではないか。
昨日は一寸のところで逃げきった。
だとすれば、今日もまた襲ってくるのではないか。
それも、昨日よりももっと確実なところから狙って。
「安次郎、急ぐぞ」
二人は三太を残し、沙代たちの後を追いかけた。