第一幕 佐倉一真の受難 其の一
同心、佐倉一真は布団の前で腕組みをしていた。
朝起きて顔を洗い、歯を磨いて、それから布団を上げるのが一真の習慣である。
その顔を洗うほんの少しの間に一真にちょっとした災難が起きていた。
まだ一真のぬくもりの残る白い布団に、これまた一段と白い小さな猫がとぐろを巻いてすやすやと寝ている。
「どうしたらこの一瞬で眠れるのか」
災難の元に対して無表情で一真は言う。
無表情だがこれは一真の猫に対する最大の嫌味だ。
この男は能面の男という異名を持つほど表情をくずさない。
数日前にこの家に来た猫はもう一真を家臣とみなしているようだった。
一真は数日前のことを思い出していた。
数日前、家に帰るとすぐに父である佐倉時宗に呼ばれた。
時宗は神妙な顔をしている。
何か恐ろしい秘密を今にも話し出しそうな雰囲気だ。
齢43の佐倉時宗は去年の春、妻の死をきっかけに隠居した。
真面目な性格と完璧な公務ぶりからその引退を誰もが惜しんだ。
隠居後は敷地内に作ってある道場で子どもに剣道を教えたり、出張で旗本や大名の剣術指南もしている。
歳は取っているが刀を握る姿は雄雄しく、ご婦人方に人気が高い。
「実は、我が家に家族が増えることになった」
一真は身構えた。
再婚か?
母が死んで、公務もできないほどに落ち込んだくせに一年過ぎればもう心変わりか。
そう思った矢先、てててっと白い子猫が躍り出た。
一真の前で立ち止まったかと思うと腹を出してゴロンと仰向けになった。
「この子だ」
「はあ」
人間ではなかったので気の抜ける思いがした。
「先ほど沙代がきてな、この猫を拾ったと連れてきおった。男二人暮らしだと何かとむさくるしいし、癒しとして飼うことにした」
相変わらず笑いも怒りもせず神妙な面持ちで答える。
この男はこの顔が普通なのだ。
「癒しも何も。私は」
一真が反対するのをさえぎって時宗は言い切った。
「もう決まったことだ。なあ。みいちゃん」
神妙な面持ちは崩さずじゃれる猫をなでる。
「みい、ちゃん」
一真が聞き返す。
「みいちゃん、だ。良い名であろう」
時宗は深くうなずいた。
「叔父さん。あら、一真さん帰っていらしたのね」
沙代が佐倉家の戸を開けて中に入ってきた。
沙代は時宗の妹、佳代の娘であり一真にとっては一つ下の従姉妹だ。
一真の家とは向かいにあるため、頻繁に行き来がある。
「あの猫、どうしたんだ」
一真が静かに尋ねた。
「さっきの雨の中、大八車に引かれそうになってるところを助けたの。見たところ飼い主もいなさそうだし、つれて帰ってきちゃった」
「お前の家では飼えないのか?」
「叔父さんがいらないって言えばうちで引き取るつもりだったのよ。でも、気に入っていただけたみたい。よかった」
沙代は満足そうに言った。
なんてことをしてくれるんだ、と一真は心の中で悪態をついた。
以上が、数日前の出来事である。
沙代が作った赤い首輪をつけてご機嫌な子猫は、時宗や来客に愛想がよく受けがいい。
しかし、一真にとっては頭の痛い問題だった。
「一真、いるかぁ?」
なおも布団の前で思案をしていると外で一真を呼ぶものがいた。
表へ出てみると、背の高い小奇麗な侍と、小柄で丸い狸のような侍が門の前に立っていた。
友人の清島安次郎と大堀兵庫だ。
兵庫は今にも笑い出しそうなのをこらえて丸い顔がさらに丸くなっている。
「お前、猫を飼い始めたんだってな」
ニヤニヤと笑いながら安次郎がきれいな顔で意地悪そうにいった。
一真は無表情で目をつぶりながらいった。
「今も困っている」
一真は猫が大の苦手であったのだ。
二人が上がりこむと猫はまだとぐろを巻いたままだった。
「かわいいなあ」
兵庫がつぶやいた。
来客に猫が気づいて布団から下りた。
安次郎と兵庫の前に、ててっと走りよるとごろんと仰向けになり歓迎のしるしをみせた。
「お前と違って愛想がいいな。名前は?」
安次郎が聞いた。
「みいちゃん」
再び陣取られないように急いで布団を畳みながら一真は答えた。
「ちゃん、までつけるかよ」
無表情親子の時宗と一真がみいちゃんと呼ぶ姿を想像して二人は腹を抱えて笑った。