まっつぐなもの 其の二
もう一人の男、伊造は与作のように素直ではなかった。
事件のことは何もしゃべろうとしない。
特に櫛については与作も知らないことなので、埒が明かない。
「そういえば、櫛は今どこにあるんだ」
ふと一真は三太のことを思い出した。
あの時、返してしまった覚えがある。
一真は三太に櫛を持ってくるように使いを出した。
大番屋に呼ばれた三太は櫛を手に不安げにやってきた。
「三太、こっちだ」
一真が奥へよんだ。
「お侍さん、この櫛、おいら、師匠に見せたんだ」
三太の言う師匠は丸鐘屋の主人だ。
「そしたら、この櫛を作った人は友達だったって懐かしそうに見ていたよ。それで師匠からことづけを預かったんだ。この持ち主の人に合わせてよ」
三太は言った。
牢の格子の向こうにいた伊造は三太を一瞥すると無愛想に言った。
「餓鬼がなんでこんなところにいるんだよ。どっか連れて行け、目ざわりだ」
ぎんと三太を睨みつける。
三太は怖気づく様子もなく格子に手を突っ込んで朱色の櫛を渡した。
「これ・・・。お前が持ってたのか」
自分の勘違いに気付いた伊造から乾いた笑いが起きた。
「よがんじゃいけねえ」
三太は伊造に言った。
伊造は目を見張った。
「お前がよがんでしまったらがんばったってまっつぐなもんがつくれるもんか」
三太がまた言った。
「お前、その言葉どこから」
伊造は声も出ないほどに驚いている。
「おいらの師匠が、伊造さんに伝えろって」
伊造は名前を呼ばれ、ますます驚く。
「この子は丸鐘屋の奉公人だ」
一真が三太のことを付け加えた。
「丸鐘屋。そうか。師匠の飲み仲間の丸鐘屋か」
やっと合点がいった顔をした。
「よがんじゃいけねえ。忘れていたよ。何でだろうな。大事な言葉だったはずなのに、いつから思い出さなくなったんだろうか」
伊造はじっと櫛を見ていた。
「坊主、主人はいい人かい?」
伊造は三太に向き合った。
三太は「うん」とうなずいた。
「言うこと聞いてちゃんと奉公するんだぞ」
格子の向こうから手を伸ばし、三太の頭をぐりぐりなでた。
そしてこの一件から伊造は素直に聴取に応じるようになった。
伊造の師匠は腕の良い櫛師だった。
弟子は取らない主義だったが、素直で熱心な伊造のことが気に入り唯一弟子にしたのだ。
しかし、修行の道半ばで伊造の師匠は病気にかかる。
助からないと宣告された死の間際、伊造は師匠の枕元に寄り添った。
師匠は最期の教えを伊造にといた。
「お前がもしよがんだら俺がまっつぐになおしてやる。そんで、お天道様に言えねえようなよがんだとこは全部俺がひきうけてやろう。あの世で俺が閻魔様に叱られてやるよ。伊造よ、まっつぐ生きろよ」
そういって頭をなでてくれた。
その翌日、息を引き取ったのだ。
その後の伊造は、別の櫛師のもとへ奉公に出るが、折り合いが悪かったり、師匠の腕と比べてしまったりで奉公先を転々として、次第にまっすぐな道から外れ始めたのである。
そこまで話すと伊造は櫛を見つめた。
「この櫛は、師匠の一世一代の彫りだったんです。師匠は誰にも売らずに、おいらに形見として分けてくれた。どんなに貧乏してもあの櫛だけは手放さずにいたんです。それなのに」
ある日、借金取りに伊造の家を訪れた女は、勝手に伊造の家財を漁り、その櫛を見つけてしまった。
「堪忍してください」
伊造は取りすがったが、女は櫛が気に入り返そうとしない。
「あんたが、借金するねえからいけないのさ。それにこんなきれいな櫛じゃないか。使ってやらないと勿体無い。悔しけりゃ借りた金、足を揃えて返しやがれってんだ」
そういいながら、女は自分の頭に櫛をさす。
満足げに帰っていく女の後姿を見ながら、伊造は唇をかんだ。
「あの女の頭につけられた櫛を見たとき、改めて憎たらしく思ったんです。師匠が懇親の力をこめて作ったものを、真っ当ではない女に真っ当ではない理由で使われる。本当なら大名や旗本の姫様が使うほどの櫛です。俺は師匠の最後の仕事に泥を塗られたと思ってしまいました。馬鹿です。師匠に泥を塗ったのは道を外れた俺だったのに」
その怒りも手伝って、櫛を取り返すために盗みに入ったのだ。
しかし、事の顛末はその櫛のせいで全て狂ってしまった。
「この櫛が落ちたのは、師匠がよがんだ俺をまっつぐになおすためだったのかもな。あのまま、逃げていたら俺は死ぬまで腐った人間でいた」
堪えていたものがみるみるうちにあふれてくる。
「どうして、師匠の言ったとおりまっすぐ生きなかったんだ。何で博打なんか、何で借金なんか。何で、何で人殺しなんか!」
伊造は声を殺して泣いた。
「畜生、畜生!なんでだよ」
まるで戻らない時間を打ち据えるように拳で床を何度も打った。
後日、二人に沙汰が降りた。
二人は佐渡に送られる。
窃盗殺人は大きな罪だが、女にも賭博の容疑がかかっており清廉潔白ではない。
女の罪も考慮されて二人は死罪だけは免れた。
「師匠、俺の罪を少し被ってくれたのかもなあ」
裁決が下りた時、伊造は天を仰いでそういったという。