第三話 レインの家族
次の日。
レインは乗ってきた馬車を屋敷の前に待たせ、自宅の門をくぐった。
実家を出て五年。
思わず屋敷を見上げたが、レインの胸には何の感慨も湧かなかった。
「……旦那様がお待ちです」
エントランスでレインを出迎えた執事が無表情でそう告げると、早足で彼女を執務室まで先導した。
途中すれ違う使用人たちは、ちらちらとレインの方を見ながら何かを囁きあっている。
「婚約を破棄されたそうだな」
執務室に入ると、義父ライルが開口一番レインに向かって吐き捨てるように言った。
やはりその話か。
レインは心の中で溜息を吐いた。
ライルは冷たい瞳でレインを睨んでいる。
明るい金髪と灰色の瞳は、どこか爬虫類を思わせる冷たさを帯びていた。
「破棄ではなく、白紙になったと聞きましたが……」
「ふんっ、同じことだ。今朝正式な書状が家に届いた」
放り投げられた書状が床に落ちる。
そこには、王家と神殿の印が並んでいた。
「お前は捨てられたのだ」
ライルは侮蔑するように鼻で笑った。
「……そうですか」
「すぐに騎士団を辞めろ」
「お断りします」
その一言で、ライルの表情が歪んだ。
鞭が振り上げられるが、レインは軽く身を引き、それを難なく避ける。
——次の瞬間、拳が飛んできた。
頬に衝撃が走り、視界が揺れる。
気づけば床に倒れていた。
まさか拳で殴られるとは思っていなかったレインは、しばらく何が起こったのか理解できなかった。
「情けをかけてやったのに! お前など、とっとと西で野垂れ死んでしまえ!!」
ライルは壁際の使用人を睨むと、大声で怒鳴った。
「こいつを廊下に放り出せ!」
使用人たちは頷くと、すぐさま二人がかりで床に倒れたレインを廊下へと放り出した。
『西で野垂れ死ね』とは一体どういう意味なのか。
レインは廊下で転がったまま、ライルの言葉を反芻していた。
普段騎士団で鍛えているレインにとって、素人の拳など大したダメージにはならない。
「拳で顔を殴られるとは思わなかったけれど……」
頬がじんじんと熱を帯び、口の中に血の味が広がる。
「相変わらずだよね」
レインがまだ屋敷に住んでいた頃、幾度となく彼から暴力を受けていた。
「やっぱり人間は、そう簡単に変わらない……か」
レインはふふふと笑った。
「邪魔なのでどいていただけませんでしょうか」
不意に声を掛けられて視線を上げると、使用人の一人がモップを持ってレインを見下ろしていた。
「とっととどいてください。掃除の邪魔です」
「使用人も相変わらず……」
レインは苦笑した。
「何でしょうか」
使用人はムッとした顔で言った。
「べつに。相変わらずすごい態度だな、と思っただけ」
「は?」
「私が家族に虐げられているからといって、使用人も同じことして許されると思ってるなんて凄いなって」
レインは立ち上がると、使用人の顔を覗き込んだ。
「平民が貴族相手に、そんな態度を取って平気だと思う? ——本当に、誰かが助けてくれると?」
「……っ」
使用人の顔が白くなっていく。
「ふふ。な~んてね」
レインは顔色をなくして俯いた使用人の横を通り抜け、エントランスに向けて歩きだした。
門を出る手前。視線を感じて振り返ると、母マリアが覗いている姿が見えた。
しかしレインと目が合った瞬間、あからさまに視線を逸らし去っていった。
「……大丈夫、私は大丈夫」
レインは胸に手を当てて何度も呟いた。
家を出よう。
明確にそう思ったのは、六年前父が死んだときだった。
今から十二年前、王都周辺の領地で突如発生したスタンピード。
王都のすぐ側まで押し寄せていた魔獣の群れを、第三騎士団が一掃したのは有名な話だ。
それ以来、第三騎士団団長イヴァンは『英雄』と呼ばれるようになった。
だが本人は、その呼び名を嫌っていた。
「私は勇者ではない」
それが父の口癖だった。
ある日、父は城で倒れ、そのまま帰らなかった。
理由は知らされていない。
——あまりにも早すぎる死だった。
しばらくして、マリアは幼い娘二人には父親が必要だろうと、すぐにライルを屋敷に呼び寄せて結婚した。
レインは初めてライルを見た時、爬虫類のような目つきをした神経質そうな男だと思った。
そして案の定性格は陰湿で、気に入らないことがあるとすぐにレインを殴った。
しかし、何故かアネモネには優しかった。
そんな家族が住む屋敷に、レインの場所などあるはずもなく。
母は昔からレインに興味がなく、妹には無視され、義父からは暴力を受ける。
レインは騎士団に入団できる十二歳になるまでの間、じっと息をひそめてこの家の中で生きてきたのだった。
門の外に出ると、待たせていたはずの馬車がなかった。
嫌がらせだろう。
「ふふ、ああおかしい」
額に手をやると、掌にべっとりと血がついた。
打ちどころが悪かったのだろう。
「大丈夫。まだ信じられる」
レインは、自分の胸に手を当てて繰り返した。
貴族街にある自宅から、第三騎士団の拠点までは遠い。
大通りを抜けて、街中を歩いていく。
すれ違う人は、皆活気にあふれている。
通り過ぎた市場は今日も騒がしく、人々は自分の明日のことで精一杯だ。
その裏に、いくつもの物語があることなど、きっと誰も知らないままなのだろう。
レインはゆっくりと地面を踏みしめながら、自分の戻るべき場所へと、迷いなく歩いた。




