最終話 ここから始めよう
「お疲れさん」
声に呼ばれて目を開けるとそこにイヴァンが立っていた。
いつものように、少し困った笑顔で。
「お父様!」
名を呼ぶより先に、身体が動いていた。
抱き寄せられ、頭に触れる手の感触が懐かしくて、胸の奥にじんわりと温もりが広がる。
「これで……良かったのかな」
不安がぽろりと零れた。
イヴァンは答えず、ただ静かに頷く。
「よくやった。誇りに思う」
それだけで、十分だった。
「こんな役目を背負わせてしまって……ごめんなさいね」
振り返ると、光の中に女神が立っていた。
責めるでも、慰めるでもない、優しい笑みを浮かべている。
「……女神様」
「声だけの方が、よく会っていたかしら」
女神が微笑むと、イヴァンは自然に彼女の肩を抱いた。
それを見て、レインは少し安心する。
「……お父様、幸せそうだね」
「ああ」
短い答えに、嘘はなかった。
「……ねえ」
レインは足元を見下ろした。
遠く、遠くに、人の世界が見える気がした。
胸の奥で、小さく何かが揺れた。
「私……戻れる、かな?」
言葉にすると、未練が生まれる。
——戻りたい、なんて思ってしまって、いいのだろうか。
自分はもう、願ってはいけない存在だと思っていたから。
イヴァンは一瞬だけ目を細めた。
「帰りたいと思えばな。お前は、俺と違ってまだ生きている」
その言葉が、胸に落ちる。
「戻れば、また争いがあるかもしれないわ」
女神が静かに言った。
「でも、それは彼らが選ぶこと」
「お前が背負う必要は、もうないんだよ」
イヴァンは笑った。
レインは、思い浮かべる。
西の砦。
仲間たち。
そして——セラの顔。
「あ~、セラは——」
イヴァンが、少しだけ笑った。
「エルフは長命種だ。待つことには慣れているはずだが……きっと、拗らせる」
「え?」
「今のうちに、顔を見せてやれ」
イヴァンは、レインの頭にぽんと手を置いた。
「なにそれ」
レインは、思わず吹き出した。
「いや、笑いごとじゃないんだがな……」
イヴァンは苦笑する。
女神は何も言わず、ただ祝福するように、その光景を見つめていた。
その後、第三騎士団には特に大きな変化もなく、西の砦で魔獣を狩り、遠征をこなし、日々は淡々と過ぎていった。
季節が巡る。
雪が溶け、春が訪れ、夏の気配が漂い始める。
しかし砦は、火が消えたあとのように、静かだった。
休憩所のソファに、セラは一人、深く腰を下ろしていた。
味のしない食事と、眠れない夜を重ねるうち、自分が生きているのか死んでいるのかさえ、分からなくなっていた。
初夏の光が、瞼を温かく撫でる。
そのときだった。
空いていた窓から、突風が吹きこんだ。
鳥のさえずりが途切れ、葉擦れの音が消え、世界が音を失った。
——代わりに。
胸の奥で、心臓の音だけが鳴っていた。
どく、どく、と。
やけに大きく。
セラは、ゆっくりと身体を起こした。
辺りを見回すが、異変はない。
——だが。
不意に、膝の上に重みを感じた。
呼吸の仕方すら、思い出せなくなった。
懐かしい、忘れられるはずのない重さ。
身体が、硬直する。
動けない。
視線も、落とせない。
勘違いかもしれない。
夢かもしれない。
名前を呼んでしまえば、すべてが終わる気がして。
セラは、震える腕をそっと伸ばした。
——あたたかい。
その感触だけで、喉が詰まる。
涙が、音もなく零れ落ちた。
ようやく視線を落とすと、胸に身体を預けて小さく眠る、愛しい人がそこにいた。
「……セラ……」
寝息に紛れるような、か細い声。
その一音で、世界が戻ってきた。
セラは、はくはくと唇を動かしながら、そっと、その頬に触れる。
確かめるように。
失わないように。
指先に伝わる、確かな温度。
「ふふ」
小さな笑い声が聞こえた。
覗き込むと、寝ぼけた瞳が、ゆっくりと開いた。
「セラってば、変な顔」
その瞬間。
セラは、力の限りレインを抱き締めた。
嗚咽が、首元に落ちる。
腕が、震える。
レインは何も言わず、セラの背を、ぽん、ぽん、と叩いた。
——大丈夫。
——ここにいるよ。
そう言うみたいに。
しばらくして、レインが囁く。
「……ここから、始めよ?」
セラは、答えられなかった。
代わりに、震える声で、ただ一言。
「……おかえり」
レインは、少しだけ驚いた顔をしてから、ゆっくりと微笑んだ。
「うん」
そして、いつもの調子で。
「ただいま」




