第十五話 王都陥落
王都。
神殿の最奥。
女神の涙と呼ばれる巨大な結晶は、もはや透明ではなかった。
赤黒い血が、結晶の表面をなぞるように伝い、床へと落ちていく。
傍らには積み上げられた獣人奴隷の死体。
その光景を前に、大神官と国王の口元がわずかに歪んだ。
「デッドラインが、かなり広がっていると報告がありました」
「うむ。引き続き、高貴なる作業に勤しんでくれ」
「はい」
国王と大神官が、女神の涙が安置されている部屋を出て行く。
扉がぱたりと閉まると、積み上げられた死体の山から、少年がひょこりと顔を出した。
殺される直前、母親に抱き込まれて一命をとりとめた少年は辺りを見回した。
大切に台座へ収められている女神の涙を見つけ、少年は体当たりを試みた。
「こいつのせいだ……」
ごとり、と台座が音を立てて動き始める。
「これが、あったから……」
部屋に誰もいないことをいいことに、何度も何度も体当たりを繰り返した。
衝撃を受けた女神の涙は、信じられないほどあっけなく、台座から転がり落ちた。
ガシャンッ!
女神の涙は真っ二つに割れた。
「ざまあみろ!」
少年は、すぐさまその場を逃げ出した。
途中、降り返って母親の姿を確かめると、少年は神殿から逃げ出した。
音を聞きつけ、神官たちが部屋へと駆け込んできた。
割れた女神の涙を見つけた瞬間、悲鳴を上げ、大神官を呼びに走る。
駆け付けた大神官は、驚愕の表情のまま、その場に固まった。
「こ、これは……まずい」
「大神官様?」
「結界が、結界が壊れる!」
大神官が絶叫したその瞬間だった。
国を覆っていた結界が、跡形もなく消え去った。
王城、玉座の間。
急ぎ集められた王族と高位貴族が、理由も分からぬまま、玉座の間に沈黙して立ち尽くしていた。
「女神の涙が割れて、デッドラインが、消えました」
「は?」
国王の口から漏れた声は、あまりにも間の抜けたものだった。
誰一人、すぐには言葉を続けられなかった。
「デッドラインが消えただと?」
「はい。女神の涙は、何者かによって破壊されました」
玉座の間に集まった人々も、理解が追い付いていないのか、ぽかんと口を開けて放心している。
「魔族が、人族領へ侵入を始めるのは……もはや、避けられません」
そう告げた、大神官の声は震えていた。
「何を怯えている。境界は守られていた。今までも、これからもだ」
エリックは朗々と答える。
国王と大神官は、グッと口を噤んだ。
「もし、彼らが攻撃をしかけてきても、話し合えば良いのだ。こちらには、聖女もいるしな」
エリックの隣には、アネモネが立っていた。
案の定、市民の間に広まりすぎた噂を否定できず、アネモネは『聖女』として祭り上げられた。
そして、そんな聖女の婚約者であるエリックも『勇者』の称号を授けられたのだった。
「何かあっても、我々がなんとかするさ」
エリックは、誰の顔色を窺うこともなく、アネモネの肩を抱きながら堂々と言い切った。
アネモネは、話の切れ目を待って、無難な微笑みを浮かべた。
そのとき、玉座の間に一人の騎士が駆け込んできた。
「なにごとか!」
「し、漆黒の森から、魔族の軍が——」
言い終える前に、轟音が王城を揺るがした。
「きゃあ!」
「うわっ!! なにごとだ!」
王城の壁が内側から吹き飛び、石と塵が嵐のように舞い上がる。
悲鳴と咳き込みが交錯し、やがて視界が晴れた。
そこに立っていたのは、人ではなかった。
頭に大きな角を持ち、浅黒い肌をした男。
その背後には、無言で佇む幾人もの配下と魔獣たち。
「……魔族……?」
男は、玉座を見上げることもなく、静かに口を開いた。
「初めまして、人族の王よ」
腹の奥に響く低い声が、空気そのものを震わせた。
「――我は、魔族の王だ」
「ま、魔王⁈」
「いかにも」
第一騎士団が、すぐに魔族の前に立ちふさがった。
だが、魔王配下の一人が一歩踏み出した、その瞬間。
第一騎士団は、声を上げることもなく、まるで糸を切られた人形のように、命ごと崩れ落ちた。
「なっ!」
「デッドラインが消えた今、お前たちは、我々に蹂躙される側だ」
「たかが人族が、我々に敵うわけがないだろうに」
指を軽く曲げるだけで、騎士たちが宙に浮く。
辛うじて動ける騎士が、剣で魔族を攻撃する。
だが刃が当たろうとも、弾かれて後ろに飛ばされるだけだった。
「魔力も力も、足元にも及ばないというのに。随分好き勝手してくれたものだ」
魔王が国王をジロリと睨む。
「な、何故我々を攻撃するのだ! 女神の盟約を破る気なのか!」
エリックの声は、怒りよりも、どこか縋るような色を帯びていた。
「破る?」
魔王は、初めて小さく笑った。
「――あれは、守られている間の約束だ。そして——先に破ったのは、お前たちだ」
「どういうことだ?」
魔王の言葉に、エリックは首を傾げた。
「見たところ、国王の子のようだが、何も知らないのか?」
「は?」
「侵略したのは――そちらが先だ」
魔王が静かに告げると、王都の至る所で爆発が起こる。
「なっ⁉」
「我らは、奪われたものを取り戻しに来ただけだ」
爆発と共に、王都全域に、連鎖するように悲鳴が響き渡った。
王都は戦場となった。
そして、それを止められる者は、もう誰もいなかった。
「やめろ! やめてくれ!」
エリックが叫びながら前に出る。
「こ、こっちには……勇者と聖女がいるのだぞ!」
その言葉に、魔王はおやっと眉を上げた。
「……どこに?」
「ここにいるではないか!」
エリックが、誇示するようにアネモネの肩を抱いた。
対してアネモネは、恐怖に顔色を失っていた。
魔族を見るのは初めてだった。
彼らが何者なのかも分からない。
ただ、その背後に控える魔獣の存在だけが恐ろしく、今にも、その場に崩れ落ちそうだった。
「あいつは、何を言っているのだ?」
「さあ?」
魔族たちは顔を見合わせ、揃って首を傾げる。
「私と彼女が、勇者と聖女だと言っている!」
エリックは再び言い切った。
一瞬の沈黙のあと、魔族の中から、くつくつと笑い声が漏れた。
やがて、それは抑えきれない爆笑へと変わっていった。
「ここまで愚かだったとは……」
大神官がこめかみを押さえている。
「女神の加護すらないお前たちが、勇者と聖女だと?」
魔王は、吐き捨てるように続けた。
「笑わせるのもほどほどにしろ。——その称号は、最初からお前たちのものではない」
そう言うと、魔王が右手を払う。
圧縮された魔力が叩きつけられ、二人の身体は、抵抗する間もなく宙を舞った。
絶望が落ちる玉座の間。
不意に——世界から、完全に音が消えた。
爆音と悲鳴に満ちているはずの王都とは違い、玉座の間だけが、嘘のように静まり返っていた。
風も、叫びも、魔力のざわめきさえも、気づけば、すべてが消えていた。
「い~けないんだ。いけないんだ」
静まり返った玉座の間に、あまりにも不似合いな無邪気な声が、転がるように響いた。




