第十三話 傾く天秤
前日から降り続いた雨は止まず、空いっぱいにどす黒い雲が覆っている。
夜半になり、横殴りの雨が降っていた。
奴隷たちの世話係の時間になったレインは、地下室で彼らの世話をしていた。
今日の昼に到着した馬車にも何人かの奴隷が乗っており、すでに総勢百人は超えていた。
「おい、お前言えよ」
「……いや、お前が」
奥の牢で、誰かが小声で言い合っている。
こんな時間にどうしたのだろう。
レインはランタンを持って、彼らの牢に近づいた。
「何かあったのですか?」
「ああ、あんたか」
昼間話を聞いた男が、鉄格子まで歩み出てきた。
「少し前に騎士がやって来て、子どもを連れ出したんだが……」
その言葉に、レインの動きが止まった。
ランタンの火が、かすかに揺れた。
「こんな時間に?」
「ああ。だが帰ってこないんだ。どうしたものかと……」
レインの脳裏に、昨晩の食堂での出来事がよぎった。
「何をさせるとか、言ってた?」
レインが恐る恐る尋ねる。
「探し物をさせる、ようなことを言っていたな。森で……」
男の視線は、レインではなく、背後の闇を恐れるように泳いでいた。
「森で?!」
レインは驚いた。
魔獣は昼よりも夜の方が活発に活動する。
「ちょっと見てくる!」
レインは急いで駆けだした。
「……すまない。我々には、こうするしか……」
その背中を見て、男は跪いて祈るように謝った。
横殴りの雨の中、レインは一人、森へ踏み込んだ。
気配を探りながら、足を止めることなく奥へと進んでいく。
こんな時間に、奴隷の子に何を探させる気だったのか。
レインは焦った。
だが、それと同時に、胸の奥で、小さな警鐘が鳴っていた。
――おかしい。
それでも、足は止まらなかった。
デッドライン付近に近づいたとき、察知魔法が反応した。
視界が悪い中、目を凝らすと、獣人の少年が、結界のそばで座り込み、震えている。
「君、大丈夫?」
レインはほっとして声を掛けるが、少年は顔を上げない。
「風邪ひくよ。ほら、帰ろう」
レインは膝をつき、少年の顔を覗き込んだ、その瞬間。
ドスッ。
「え?」
腹部に衝撃。
遅れて、焼けるような痛みが追いついた。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
レインは反射的に、腹に突き立てられたナイフの柄に手を掛けた、そのとき――
「何をやっている」
背後に、ガルガが立っていた。
「ひっ!」
少年が蹲る。
ガルガはレインの腹に視線を落とし、鼻で笑った。
「ふん……奴隷に刺されるとは、つくづく愚かな女だ」
そう言うと、手当てでもするかのようにナイフの柄を握り、ぐり、とねじるように押し込んだ。
「がはっ」
「ああ、すまない、すまない」
悪びれもせず、ガルガは笑う。
「痛かったな? だが安心しろ。そのうち、痛みも消える」
「……?」
視界が揺れる。
身体に力が入らない。
「まさか……毒?」
「正解だ。レイン・スプリング」
ガルガは愉しげに言った。
「お前は、ここで死ぬ」
そう言って、ガルガはレインの腹を蹴り上げた。
身体が宙に浮き、次の瞬間、地面に叩きつけられる。
「お前はセラの弱点だからな。囮にして、ヤツを誘き出す」
「……なぜ……」
「陛下のご意向だ。混血で汚らわしい王子など、この国には不要だ。第三騎士団も――ここで終わりだ」
レインの腹から、血が止めどなく溢れ落ちる。
「もったいないなあ」
ガルガは愉しげに言った。
「ああそうだ! わざわざ奴隷を神殿に運ばなくても、このままデッドラインに撒けばいんじゃないか?」
そう言って、レインの身体を引き摺り、結界の上に放り投げた。
瞬間、血に反応するように、デッドラインが赤黒く脈動し始める。
「おお……これは発見だ」
ガルガは腕を組み、満足そうに頷いた。
「見ろ。境界が――広がっていく」
レインは必死に首を動かす。
揺れる視界の端に、セラが置いた小石の列が映った。
——膨らんでいる。
それは、錯覚ではなかった。
「驚いたか?」
ガルガは下卑た笑いを浮かべる。
「血は魔力を大量に含む。結晶石も同じだ。……知らなかったか? 女神の涙に捧げれば、こうやって結界を広げられるのさ」
「な、なんてこと、なんてこと……」
「そのうち、魔族領全土を覆ってやるさ。人族以外は、この世に必要ない。――皆殺しだ」
ガルガはそう言うと、座り込んでいる少年の首を容赦なく切り落とした。
「き、貴様……」
「さあさあ、話は終わりだ。このまま放っておくのもいいが、少し遊んでやろうか? 死にかけでもそれなりに」
倒れたレインの側に座りこむと、彼女の顎をくいっと上げた。
「綺麗な顔しているしな」
「ひっ」
「お~お~怖いか。毒で身体が動かないだろう。そのまま大人しくしてるんだ」
ガルガがレインに手を伸ばした、そのときだった。
彼女の姿が、ふっと掻き消えた。
振り返ると、少し離れたところにレインを抱きかかえたセラが立っていた。
「レイン! 大丈夫ですか? すぐに助けてあげますからね」
そう言うと、セラはレインの腹に突き立てられていたナイフを引き抜き、すぐさま治癒魔法を施した。
「ちっ、エルフが」
セラの必死の治療のお陰で、レインの顔色はみるみる良くなっていく。
だが、なぜかその目には光がなかった。
「レイン、レインどうしたのですか?」
セラがレインの身体を優しく揺らすも、ぼうっと空を見つめている。
「毒っ? 貴様!」
セラが声を荒げる。
流石のセラも、毒を癒す魔法は持っていなかった。
怒りと共に、セラは抜刀する。
その本気の威圧に、ガルガは思わず息を呑んだ。
普段とは明らかに違う威圧感。
肌を焼くような魔力が、ゆらゆらと怒りの炎のように揺れている。
白銀の髪が淡く光を帯び、風もないのに静かに宙へと浮き上がっていた。
それだけで、背筋が冷えた。
——まずい。ここまでとは。
一対一では勝ち目がない。
おびき出したはずの獲物が、完全に自分を殺しに来ている。
ガルガは瞬時に悟り、言葉を選ぶ暇すらなく口を開いた。
「俺じゃない」
かすれた声で言う。
「ほら……そこにいる獣人のガキがやったんだ」
セラが視線を向けると、首を切られた子どもが、地面に転がっていた。
「俺が、敵を取ってやったんだよ!」
「……」
セラは、何も言わなかった。
その沈黙が、何よりも重い。
ガルガは信用できない。
——だが、今は。
決定的瞬間を見ていない。
状況が揃っていない。
セラは深く息を吐き、剣を鞘に収めた。
「……覚えておきなさい」
低く告げると、レインを抱えたまま、振り返りもせず砦へと駆け出した。




