第十一話 デッドライン
暴力シーンがあります。ご注意ください。
漆黒の森は昼間でも薄暗く、獣の遠吠えがそこかしこに満ちていた。
レインは、襲ってくる魔獣を淡々と屠りながら、森の奥へと進んでいく。
その後ろを、付かず離れずセラが続いた。
「そろそろ着きます」
セラの言う通り、目の前に光の壁が見え始めた。
「デッドライン」
レインは小さく呟く。
漆黒の森の奥で、唐突に視界が途切れる。
そこから先だけ、世界の色が違って見えた。
空気がひんやりと張り詰めている。
近づくほどに、皮膚の奥がじわりと痺れ始めた。
――呼吸が、少しだけ重くなる。
「神殿の結界、ですね」
セラが静かに言う。
「久しぶりに見た」
「ええ。ですが……」
セラはそう言いながら、デッドラインに近づいた。
「以前よりも、光が弱いように思います」
「え?」
レインはデッドラインにそっと触れてみる。
指先に違和感を覚えて手を引いた。
「確かに、どこか……おかしい気がする、かも」
レインは、光に触れた指先を擦ると、手近に落ちていた枝を拾い上げ、デッドラインをなぞるように線を引いた。
「何をしているのですか?」
「うん。念のため」
そう言って、目に見える範囲に、丁寧に線を描いていく。
「それでは、すぐに消えてしまいますよ」
セラは笑いながら、レインが描いた線の上に、目印になるよう小石を並べた。
光の向こう側は魔族領だが、そこにも変わらず、暗い森が続いているだけだった。
「周囲に怪しい気配はありません。今日は戻りましょう」
セラの言葉に、レインは一瞬だけ光の壁を振り返り、それから踵を返して砦へ戻った。
カツン。
廊下を歩く足音に、セラは読んでいた本から顔を上げた。
時刻は深夜を少し回ったところ。
西の砦は漆黒の森に近いこともあり、夏場でも暖炉は必要で、夜はランタンを灯してもどこか薄暗かった。
セラはガウンを羽織って廊下に出る。
すると、薄暗い廊下にレインが佇んでいた。
「レイン?」
セラの声に気づき、レインはすぐさまセラに駆け寄る。
「……ランタンの油、切れそうで」
言葉の途中で、声が掠れた。
「ああ、それは大変です。どうぞ」
セラはすぐさま自室にレインを招き入れ、部屋を明るくするため、消していたランタンに、次々と明かりを灯した。
「……うん、大丈夫」
ほっと息を吐いたレインを、セラは自分のベッドに座らせ、髪を優しく撫でた。
「ありがと。今日、ここで寝ていい?」
「仕方ないですね。明日にはきちんと油の補充をしてくださいよ」
「うん。うっかりしてたから」
レインは申し訳なさそうに俯く。
「いいのですよ。さあ、もう遅いです。明日に備えて眠りましょう」
セラはレインをベッドに横たわらせると、そのすぐ隣に身体を横たえた。
「えへへ、なんか昔に戻ったみたい」
そう言って、レインはセラに抱き着いた。
「あったかい」
暗闇が苦手なレインは、騎士団の宿舎に住み始めたころも、こうして泣きながらセラのベッドに潜り込んできた。
「本当。いつまでたっても子供なんですから」
「セラと一緒にいられるなら、ずっと子供でもいい……」
よほど眠かったのか。
すぐに隣で、規則正しい寝息が聞こえ始めた。
セラはレインを抱き締める。
西の砦にきて、レインは感情をはっきり出すようになった。
「王都を離れて正解でしたね」
セラは、あどけない顔で眠るレインの頬に触れる。
願わくば、彼女の夢が平穏でありますように。
——そう祈らずにはいられなかった。
外では、森の奥から、聞き慣れない獣の声が低く響いていた。
その日は、朝から雨だった。
空一面を覆う分厚い雲が、今にも落ちてきそうに低く垂れ込めている。
「今夜あたり、荒れそう」
休憩室の窓辺で、マロンが空を見上げて呟いた。
「……変」
同じく空を眺めていたレインが、ぽつりと言う。
「変、って?」
「空を包む魔力が……濁っている感じ」
胸の奥が、ざらりとする。
窓を叩く雨粒の音が一段強くなった。
「デッドライン?」
「……多分」
レインは歯切れ悪く頷いた。
なんとなく、胸騒ぎがするのだ。
理由は分からない。でも、胸がざわついて落ち着かなかった。
「気になるなら、見に行く?」
「いいの?」
レインがぱっと振り返る。
「雨で訓練もないし。あっても、砦の中を走るくらいでしょ」
二人が雨具を手に廊下へ出た、そのときだった。
「最悪」
低く唸るような声に振り向くと、鬼の形相をしたサーシャが立っていた。
「第二騎士団が来てる」
「……は?」
「奴隷狩りの遠征帰りらしい。天候が崩れたから、休ませろだってさ」
「勝手すぎない?」
「ここ、元は自分たちの拠点だって顔してやがんだよ」
サーシャは苛立ちを隠しもせず、床を踏み鳴らした。
食堂を覗くと、案の定だった。
第二騎士団の連中が、まるで我が物顔で席を占領している。
「料理が貧相だな」
「もっとマシな肉はないのか」
「酒を出せ、酒を」
料理当番たちは、顔を引きつらせながら皿を運んでいた。
「うわ、最悪」
マロンが扉の陰から覗き、思わず舌を出す。
レインはその光景から視線を逸らし、マロンと共に足早で団長室へ向かった。
――案の定。
室内では、第二騎士団団長ガルガが、ソファに大股を広げて深く腰を下ろしていた。
「二、三日、世話になる。奴隷は九十六人いる――一人も減らすな」
ガルガは、ソファに深く腰を沈めたまま言った。
命令口調ですらないが、最初から従わせる前提の声音だった。
「他に用意するものはありますか?」
セラが静かに問う。
「出発までに、食料、塩、水を人数分だ」
「分かりました」
それだけ告げると、セラは一礼もせず、背を向けた。
「……言い返さなくて、よかったの?」
扉の外で待っていたレインが、そっと袖を引いた。
「早々に出て行ってもらうには、あれでいいのですよ」
セラが微笑む。
「まあ、確かに……」
隣で聞いていたマロンは、不満そうに頬を膨らませた。
「それよりも」
セラの声が、わずかに低くなる。
「彼は以前、この一帯を『狩り尽くした』と言っていました。だから、この砦を手放したのだと」
「言ってたな」
マロンは頷く。
「それなのに、九十六人もの奴隷です。一体どこから攫ってきたのでしょうか」
「え……」
言葉が、続かなかった。
重い沈黙が落ちる。
嫌な予感がした三人は、足早に地下牢へ向かった。
「はい。我々は……魔族領に住んでいました」
地下牢。
捕らえられた者の中で、年長者と思わしき男が低く答えた。
いくつかの牢に分けて入れられている彼らは、ざっと見ただけでも獣人だけではなかった。
明らかに魔族と思わしき外見をしていた者たちもいる。
彼らの額には、皆魔法封じの紋が施されていた。
「……マジかよ」
マロンが、思わず頭を抱える。
「魔族領から、住民を攫ってきたってこと……?」
「ええ。我々は、デッドラインの向こうから来ました」
部屋の空気が一段重くなる。
「追われても……魔族は結界を超えられない」
セラが続けて呟く。
「つまり、安全圏からの略奪ですね」
「……下手すれば、戦争になるって! 何やってんだよ!」
マロンが怒鳴ったそのとき、牢の奥から赤子の鳴き声が聞こえる。
慌てて口を噤んだ。
赤子を抱く獣人の女が、必死にあやしている。
その傍らでは、腰の曲がった老人たちが、冷たい床に座り込んでいた。
「あんな……」
レインの声が、かすれる。
男は視線を伏せたまま、ぽつりと言った。
「力のあるものは、働かされるそうです」
「……では、ない者は?」
セラが静かに問い返した。
「……生贄、だそうです」
「生贄?」
セラの眉がぴくりと動く。
だが男は、ゆっくりと首を横に振った。
「詳しいことは……分かりません」
そのとき、怒号が地下に響いた。
「ちょっと!」
サーシャだった。
「掃除してたら、これが馬車に大量に積まれてた!」
慌てて地下に降りて来た彼女が突き出したのは、鈍く光る結晶の塊だった。
「……結晶石? しかも大量なんて……?」
レインが息を呑む。
「墓を……掘り返して」
先ほどの男が答える。
「墓……?!」
三人の声が裏返る。
魔族や獣人は、死後、その魔力が結晶となって地に還る。
それは土地を潤し、命を巡らせるものだ。
「……なぜ、そんなものを?」
セラはなおも問う。
「命令でした」
「誰の?」
「我々を捕らえた者たちの」
それ以上、言葉は続かなかった。
ただ、嫌な沈黙だけが牢に沈んでいくだけだった。
レインは、胸の奥で何かが静かに壊れていく音を聞いた気がした。
夜半。
砦はすでに消灯の時刻を過ぎていた。
窓の外には、雨の中でも激しく燃える松明の光だけが見える。
普段通り、部屋を明るくしてベッドに入ったレインは、いつまでたっても眠れずにいた。
胸の奥に、昼間から続くざわめきがずっと残っている。
そっと毛布を抜け出し、廊下へ出る。
石造りの床は冷たく、足音がやけに響く気がして、無意識に歩調を落とした。
——笑い声。
下の階から、耳障りなほど陽気な声が聞こえてくる。
酒瓶がぶつかる乾いた音。
誰かが机を叩き、どっと笑いが広がった。
第二騎士団だ。
レインは、壁際に身を寄せながら、階段の影からそっと盗み見る。
灯りの漏れる食堂では、彼らが酒を囲み、大声で騒いでいた。
「今日はついてたな」
「おい、もっと注げ」
「魔族の女ってさ、泣き声だけは一丁前なんだよな」
その言葉の意味を考えるより先に、
——ひっ、と、短い声が聞こえた。
一瞬だった。
壁越しに、か細い泣き声が漏れたかと思うと、すぐに途切れる。
レインの喉が、ひくりと鳴る。
食堂の奥から、二人の騎士が現れた。
その間に、引きずられるようにして歩く小さな影がある。
子どもだ。
痩せ細った腕。汚れた髪。
裸足の足が、石床に擦れている。
「遅ぇんだよ」
「汚ねえな、触んな」
次の瞬間、鈍い音が響いた。
拳が、子どもの頬にめり込む音だった。
子どもは声も上げられず、その場に崩れ落ちる。
「……おい、死なれたら困るだろ」
「平気だ。どうせ明日には——」
言葉の先は、笑い声にかき消された。
レインは、無意識に一歩踏み出しかけて、止まった。
隣に、気配がある。
いつの間に来たのか、セラが立っていた。
その表情は、恐ろしいほど静かだった。
レインは、セラの袖をぎゅっと掴む。
力を込めたつもりはなかったのに、指が震えていた。
セラは何も言わない。
ただ、レインの手をそっと包み込み、動かなかった。
やがて、別の騎士が肩をすくめて言った。
「昼に着いたガキどもは、もう駄目だな」
「ああ。数人、死にそうだ」
「じゃあ追加か。馬車は?」
「明日の朝には来る。デッドラインの外からだろ」
「おいおい、死体も有効活用できるだろうが」
「ちがいない!」
その言葉が、冷たい石のように、胸の奥に沈んでいった。
——昼間、馬車が来た。
——奴隷が、増えていた。
足りないから、補う。
死体も、資源だ。
「……帰りましょう」
セラの低い声が、耳元で落ちる。
レインは、もう一度だけその光景を見つめた。
殴られた子どもは、床に伏せたまま動かない。
誰も気に留めない。
それでも、世界は何事もないように回っている。
レインは何も言わず、セラに引かれるまま踵を返した。
背後でまた、笑い声が上がり始めた。
その夜。
レインは、最後まで眠ることができなかった。
窓の外の物音に、レインはのろのろとベッドから起き上がる。
カーテンの隙間から覗くと、白み始めた空の下、砦の外に、第二騎士団の紋章のついた一台の馬車が止まっていた。
すぐに、命令と怒号が入り混じった声が飛び交い始める。
レインはすぐに窓際から離れた。
胸の奥が、急激に冷え始める。
視界の色が、また少し落ちた。
口元が弧を描いたのを、レイン自身、気づくことはなかった。




