第十話 届かなかった手紙
西の砦に、招かざる客が訪れていた。
「だ~か~ら! レインは勤務明けで、寝てるって言ってんだろうが?」
エントランスでは、同じやり取りが何度も繰り返されていた。
「これは第二王子エリック殿下より、レイン・スプリング嬢宛てのお手紙です。ご本人に直接お渡しするまで、帰るわけにはいきません」
「だからさあ……」
サーシャは、うんざりしたように頭を掻いた。
「ふん、平民風情が」
従者の小さな呟きに、サーシャの目の色が変わる。
「……てめえ、死にてえのか」
「なんと無礼な! 私に手を出せば、ただでは済みませんぞ!」
従者の背後には、護衛騎士たちが控えていた。
「——なんの騒ぎですか?」
静かな声と共に、セラがエントランスへ姿を現した。
「これはこれは、第一王子セラ様」
従者は恭しく頭を下げるが、その声音には、隠そうともしない侮蔑が滲んでいた。
「エリック殿下から、レイン様へのお手紙をお預かりしております。この平民が、レイン様を呼ぼうともせず――一向に話が進まないのですよ」
やれやれと首を振る従者に、サーシャは背中の武器に手を掛けた。
「サーシャ」
セラが一言だけ告げると、サーシャは舌打ちしつつも手を下ろした。
「レインは、明け方まで漆黒の森の巡回をしていました。今は休ませています」
「……」
「その手紙は、私が預かりましょう」
「え……?」
「私では不満ですか?」
セラは一歩踏み出し、従者の手から封筒を抜き取った。
「私が責任を持って渡します。これで任務は完了です。――お引き取りください」
返答を待たず、扉は閉められた。
「……混ざり者がっ」
従者は吐き捨てるように言い、憤慨しながら砦を後にした。
「エリックの周辺には、ろくな人間がいませんね」
セラは静かに笑い、手紙の封を切った。
――――
西の砦での生活はどうだろうか。
元気にしているだろうか。
今日、神殿で聖女認定の検査があった。
そのことで、どうしても話したいことがある。
君もきっと、事情は理解してくれると思っている。
王都に戻ってこないか。
いや――
戻れなくてもいい。
ただ、一度でいい。
君に会いたい。
今でも夢に見る。
もし、あのとき違う選択をしていたら、と。
エリック
――――
セラは、ほんの一瞬だけ手紙に目を落とし、それから何の躊躇もなく、暖炉へ放り込んだ。
「あ……。レインに渡さないのか?」
「必要ありません」
その声は、驚くほど感情がなかった。
恐らく聖女認定はうまくいかなかったのだろう。
手紙の内容から、そうした顛末は容易に想像がついた。
王族が聖女を求めるのは、信仰心からではない。
聖女がいなければ、勇者の血を引くという誇りは、ただの過去になる。
彼らは女神を信じているのではない。
信じている“ふり”をして、民の王族に対する信仰心を失うことを、恐れているだけだ。
たとえアネモネが聖女でなくても、今さらエリックは、彼女を手放すことはできないだろう。
——だが、人の心は、そう都合よくはできていない。
きっとエリックは、レインのことを——。
セラは、あっという間に燃えていく手紙から視線を逸らし、砦を出ていった。
「……ご愁傷さま」
サーシャは暖炉に向かって手を合わせる。
カラン、と薪が音を立てた。
そこには、灰になった紙屑だけが残っていた。
「なんと無礼な」
従者は吐き捨てるように言い、肩を怒らせながら馬車へ戻った。
従者が馬車に乗り込む前、ふと、漆黒の森を振り返った。
——あそこは、夜が早い場所だ。
タラップに足を掛けた瞬間、森がこちらを見返しているかのように感じられた。
従者の背中に、ぞくりとしたものが這い上がる。
「……ちっ」
従者はその感覚を振り払うように、声を荒げた。
「さっさと扉を開けぬか!」
「はっ!」
御者が慌てて馬車の扉に手を掛ける。
だが、引いても、押しても、扉は微動だにしなかった。
「……何をしている」
「申し訳ございません。何かが、引っ掛かっておりまして……」
護衛騎士が加わり、二人がかりで力を込める。
しかし、扉はまるで“拒む”かのように、びくともしなかった。
そのとき、森の奥――いや、すぐ近くから、魔獣の遠吠えが聞こえた。
低く、腹の奥を揺らすような魔獣の声が、遅れて辺り一帯から響いてきた。
従者の喉が、ひくりと鳴る。
砦へ戻り、夜を明かすべきか。
一瞬、その考えが脳裏をよぎる。
だが、先ほどの屈辱を思い出し、従者はその考えを頭から排除した。
——混ざり者に、背を向けるなど。
「……続けろ!」
騎士たちは歯を食いしばり、再び扉を引いた。
それでも、開かない。
「お困りですか?」
背後から、静かな声が落ちた。
そこにいたのは、セラだった。
白銀の髪を揺らし、夕暮れの森を背に、ただ立っている。
「こ、これは殿下……。いや、その……馬車の扉が……」
「そうですか」
セラは穏やかに頷いた。
「それは、大変ですね」
口ではそう言いながら、一歩も動かない。
ただ、静かに佇んでいるだけだった。
「……な、何か? 手伝っていただけるのでしょうか?」
「いいえ?」
セラは、静かに首を振る。
そして、言葉を切った。
「ただ——」
彼は、ゆっくりと指を伸ばし、漆黒の森を示した。
「……?」
従者たちの視線が、無意識にそちらへ向く。
「魔獣に、狙われているようです」
囁きは、耳元で落とされた。
「なっ——!」
従者は反射的に距離を取る。
間近で見た彼の顔は、忌むべき混血であるはずなのに、思わず見惚れてしまうほど整っていた。
「……ふむ」
セラはその様子を見下ろし、淡々と告げる。
「気持ち悪いですね」
「な、貴様——!」
言い返そうとした瞬間だった。
茂みを押し分ける、生々しい音が鳴り響く。
低い唸り声が、呼応するようにすぐ側まで近づき、闇の中から魔獣が姿を現した。
「ああ。危ないですよ」
セラは、まるで世間話のように言った。
「う、うわあああ! 助けてくれ!」
「近づくな!」
護衛騎士たちが、必死に剣を振るう。
だが、抵抗は長くは続かなかった。
「た、たすけ……」
セラに助けを求めるも、彼は静かに見ているだけだった。
悲鳴が、森に吸い込まれていく。
従者が最後に見たのは——動かない馬車と、静かに佇む白銀の男の姿だけだった。
「……だから、言ったのに。ここは、そういう場所ですよ」
セラは小さく息を吐き、森へと引きずり込まれていく彼らに手を振る。
そして、踵を返し、砦へと戻っていった。
その後、懲りずに何通もの手紙がレイン宛に届いたが、彼女の手に渡ることは、ついになかった。
そして——それを運んできた従者が、エリックの元へ戻ることも、二度となかった。




