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第一話 婚約の白紙

 天秤が傾く。

 それが救いか、罰か——

 人は、結果を知ることしかできない。


 私は、世界を救う気はない。

 ——ただ、壊れる瞬間を見届けたいだけだ。




「君との婚約は白紙に戻された」

 王城の一室で、第二王子エリックは前置きもなくそう告げた。


 呼び出されてから、ずいぶん待たされたあとだった。


「はぁ……」

 レインは曖昧に頷いた。


 〝婚約の白紙〟

 その言葉の持つ重さは、頭では理解している。

 それでも、胸の奥はひどく静かだった。


 窓から吹き込む風がカーテンを揺らし、午後の陽気が思考を溶かしていく。

 このまま、眠ってしまいそうだ。

 レインは抗うように、ゆっくりとまばたきを繰り返した。


 一方エリックは肘をつき、ソファへ深く腰を沈めたまま、対面のレインをどこか切なげに見つめていた。

 その背後には、側近のカインが無表情で控えていた。



「君ではなく、アネモネ嬢との婚約が決まった。これは王命だ」


 アネモネ。

 レインの三歳年下の妹の名である。

 伯爵令嬢レイン・スプリングと、第二王子エリックの婚約が結ばれたのは十二年前。

 二人がまだ六歳の頃、同じく王命によって決められたものだった。


 レイン自身、この婚約に特別な感情を抱いていたわけではない。

 この話を聞いた率直な感想は、「ふうん」程度だ。

 だが、王族という存在の身勝手さには、内心舌打ちしたい気分だった。



「君も知っているだろう。アネモネ嬢が癒しの魔法に目覚めたことを」

「あっ、なるほど」

 レインは軽く膝を叩く。


 茶会の席で、アネモネが突然癒しの魔法を披露した。

 それを境に、「聖女の生まれ変わりではないか」と囁かれるようになった。



「癒しの魔法は女神の力であり、聖女特有のものだ。神殿での検査を経て、近いうちに『聖女』として正式に発表されるだろう」

 エリックは一人で話を続けた。


「聖女と結ばれることは、王族の悲願であり、国の慶事だ。申し訳ないが、聞き分けてくれ。君が尽くしてくれた十二年という歳月を、私は決して忘れない」

「……そうですか」


 レインとしては、尽くした覚えは一切ない。

 だが彼は随分盛り上がっているようなので、口を挟むのはやめておいた。

 それよりも今は、睡魔に負けないよう膝をつねることの方が切実だった。


「だが……」

 エリックが、ふと声を落とす。


「君が騎士団さえ辞めてくれれば、父上を——陛下を説得できたかもしれないのに……」

 その言葉に、レインはパチリと目を開けた。


 視線を上げると、彼の瞳は責めるような鋭さを帯びている。

 レインは伯爵令嬢でありながら、第三騎士団に所属している。


「エリック殿下」

 レインは静かに言った。


「私は騎士団を辞めることはできません。父の遺志です」




 今は亡きレインの父、イヴァン・スプリング。


 第三騎士団の団長であり、かつて王都を魔獣の大群から救った『英雄』である。

 そんな彼が生前、レインに示した道はただ一つ。第三騎士団所属という選択だった。


「……わかっている」

 エリックは、心の底を吐き出すように続ける。


「わかっているよ。だが、いつまで亡霊に縛られているつもりだ!」

「亡霊……?」


 レインの眉が、わずかに動いた。

 否定も肯定もせず、その言葉を口の中でゆっくり転がす。



「君の父は、この国を救った英雄だった。だが、なぜ自分の娘に同じ道を歩ませる……。男と女は違う。そのせいで君は、貴族令嬢として当たり前に手に入るはずだったすべてを失ってしまった……」

「私は、何も失っていません」

 考える間もなく、言葉が落ちた。


「いや、だがっ……」

「殿下。私が選んだことです」

 きっぱりと言い切った声は、驚くほど静かだった。


「っ……ああそうだ。……君は昔からそういう奴だ。いつだって、自分が信じるものが先で——私のことなど、二の次だ」

 エリックは奥歯を噛み締める。

 表情は歪み、膝の上で握りしめた拳は小さく震えていた。


「っ、すまない、忘れてくれ。これでも私は、君の幸せを願っているのだから。話は以上だ」

 エリックはソファから立ち上り、振り返ることなく大股で部屋を出て行った。



 残されたレインは首を傾げ、

「話が終わったのなら自分も帰ろうか」と独りごちりながら腰を上げた。


「……フッ」

 微かに笑い声に顔を上げると、側近カインが口元に薄い笑みを浮かべ、レインを見下ろしていた。


「何か?」

 レインはカインの顔を見上げた。


「いえ、お気になさらず。アネモネ様の姉君とは思えない破天荒ぶりだと思いまして」

「アネモネですか?」

「ええ。彼の方は実に素晴らしいご令嬢ですのに……同じ英雄の娘でありながら、あなたは随分と残念だ」

 カインはわざとらしく、レインの頭の先からつま先まで何度も視線を往復させた。


「貴族令嬢が軍服を着て剣を振るなど、はしたないと皆が噂していますよ」

 にやにやと笑い、肩にかけた第二騎士団の徽章を指で弾いた。


「……第二騎士団は、随分とお暇なのですね」

 レインが淡々と返す。

 一瞬、空気が張り詰めた。

 カインの笑みが大きく歪んだが、すぐに貼り付けたような表情に戻る。



「今回は、実に良い結果でしたね。やはりアネモネ様こそ、エリック殿下の真の伴侶に相応しい。——ああ失礼、あなたを侮辱したつもりはありません。ただ、皆の気持ちを代弁しただけです」

「鼻」

「?」

「鼻毛、出てる」

 レインはカインの鼻の穴を指差した。


「⁉」

 カインは慌てて鼻を手で押さえた隙に、レインは一礼する。


「それでは失礼します」

「なっ⁉ 貴様!」


 パタリと閉めた扉の向こうから怒号が響くが、レインは気にせず歩き出した。


「ふ~んだ」

 べっと舌を出し、廊下を大股で進む。



 途中すれ違う者たちから向けられる好奇と嘲りの視線も、今に始まったことではない。

 レインは気にせず歩いた。


 ふと、廊下に飾られた絵画の前で足を止める。


 金髪の美しい女性が、銀の天秤を掲げて微笑んでいる。

 遥か昔、この地に現れた聖女の肖像画。

 勇者と共に魔王を討ち、大陸に平和をもたらした女。

 そして戦いの最中に命を落とした、悲恋の象徴。

 平民たちの間でも、勇者と聖女の恋物語は広く知られ、今もなお語り継がれている。


 レインたちが住んでいる国『ルガーノ王国』は、その勇者が建国した国だ。

 王族は今もなお、勇者の血を引く者として君臨している。


 ——そして同時に、聖女の加護があってこそ、この国は成り立つと信じられていた。

 聖女なき王は、女神に見放された存在。


 そう囁かれることを、王族は何よりも恐れていた。

 だからこそ彼らは、今もなお、聖女が再びこの地に現れる日を、待ち続けているのだった。




「レインお姉様?」

 呼ばれて振り返ると、レインの妹アネモネが立っていた。


 明るい金髪と少し垂れた大きな灰色の瞳を持つ彼女は、母親似の愛らしい顔立ちをしている。

 一方レインは父親似の黒目黒髪で、その無表情な顔立ちは、アネモネとあまりにも対照的だった。


「久しぶりね、アネモネ」

「お姉様ったら、まったく屋敷に戻られないから、お義父様やお母様が心配していましたわ」

「……そうなのね」


 レインは十二歳で騎士団に入団したときから屋敷を出て、騎士団専用の寄宿舎で寝泊まりしていた。


「そう言えばお姉様。私、聖女かもしれないんですって!」

 アネモネは、無邪気に胸の前で両手を合わせた。


「この前の茶会の席で、エリック様に特技を聞かれたの。だから癒しの魔法を披露したのよ。そしたら皆が急に騒ぎはじめたの」

 アネモネは、こてんと首を傾げた。


「……」

「私、昔から小さい傷なら自分で治すことができたでしょう? 当たり前のことだと思ってたの。でもエリック様がその力は珍しいものだから、神殿で調べてもらった方がいいって。女神様の力かもしれないの」

「……そう」

「それでね。聖女だったら私がエリック様の婚約者になるみたい!」


 それは、あまりにも当然の未来であるかのように、アネモネはうっとりと頬を染めた。



 聖女。

 それは、選ばれた者に与えられる“幸福の証”だと、このときのアネモネは信じていた。

 愛され、祝福され、誰からも必要とされる存在。

 その幸福が、誰かの犠牲の上に成り立つ可能性があるなど、想像することすらできなかった。



「アネモネはそれでいいの?」

 レインは静かに尋ねた。


「? エリック様と結ばれることができるのでしょ? いいに決まっているわ。でもそうね……」

 アネモネは口元を扇で隠した。


「うふふ。お姉様はきっとまた、お義父に怒られてしまいますわね」

「あの人は、私が何をしたって気に入らない」

「お姉様がきちんと謝れば、きっと許してくれるわ。いつまでも拗ねていないで、私のためにもきちんと仲直りしてくださいね」

「アネモネ。あなたは聖女になりたいの?」

「なりたいんじゃなくて、聖女だったの! 英雄の娘で聖女なんて素敵なことじゃない」

 アネモネは嬉しそうに、身体を左右に揺らした。


「……アネモネがそれでいいなら」

「変なお姉様」

「そろそろお時間です」

 首を傾げるアネモネに、背後に張り付いていた侍女が告げる。


「あら大変。エリック様に呼ばれているんでしたわ。それじゃあね、お姉様」


 アネモネは、レインに手を振りながらその場をあとにした。

 レインは、アネモネの後ろ姿が見えなくなるまで動かなかった。



 ふと、壁に飾られた肖像画に視線を戻す。


「聖女、ね、……ふふ」

 レインはこらえきれず笑みをこぼした。


「……殺したくせに」


 その声には、怒りも憎しみもなかった。


 聖女は、世界を救ったと語られている。

 けれど、彼女自身は——本当に、救われていたのだろうか。


 レインは、微笑む肖像画からそっと視線を逸らして歩き出す。



 絵の中の天秤が、今もなお――どちらにも傾ききれず、裁きを拒むように揺れている気がした。


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