9. 三文の添え状、外交の一筆
朝の執務室は紙の匂いがした。窓から入る風が、机の上の羊皮紙をふわりと揺らす。俺は指で端を押さえ、深く息を吸って吐く。胸の奥で小さな鼓動が早い。昨日の贈り物は何とか乗り切った。だが今日は“言葉だけ”で相手に届かせなければならない。
白髭の重臣、近侍、書記の少女、商務の役人、そしてリディアがいる。机はコの字、中央に封蝋の道具と紐。俺は立ち上がり、全員の顔を見渡した。
「今日は“手紙”。三文の添え状で、外交の最初の一歩を整えます」
重臣が目を細める。
「三文で、足りるのか」
「足ります。一文目『ようこそ/ご機嫌伺い』、二文目『目的』、三文目『困り事やお願い/感謝』。長い美辞麗句は、後でゆっくり」
「ふむ」
俺は羊皮紙の左上を軽く押さえ、筆を取った。手がわずかに震える。深呼吸。筆先を整え、まずは宛名の位置に小さく点を打つ。
「最初に“宛名”。相手の正式名→呼称→所属。混ぜない。全員“殿”で統一。これで誤解が減ります」
「渾名“雷犬”は?」
すかさずリディア。俺は首を振る。
「仲良くなってから」
「はいはい」
商務の役人が腕を組み、半眼で俺を見る。
「言い切るな。嫌われるぞ」
「最初の五秒だけは強く言います」
「……分かったよ」
近侍が封蝋の皿を温め始める。赤い蝋がゆっくり柔らかくなっていく。俺は筆を走らせた。
> 〈宛〉辺境伯領 使者殿
> いつもお世話になっております。明日、王城にて短い打ち合わせをお願いしたく存じます。ご到着の刻と人数をお教えいただけますと助かります。
書き上げると、胸の緊張が少し下がる。机に置いた筆を拭きながら、俺は続けた。
「差出人は最後。『王国執務代行 近侍長 〇〇』『手伝い 佐藤正樹』。俺の名は小さく、最後」
「自分を小さく書くのは“異界の礼”か」
重臣の声は皮肉にも聞こえるが、怒りではない。俺はうなずいた。
「“誰から”より“何を”が先です。最初の五秒で要件を置く」
その時、扉が開いて、伝令役の若い兵が駆け込んできた。肩で息をしながら、巻物を両手で掲げる。
「辺境伯からの事前の書状であります!」
近侍が受け取り、机に置く。商務の役人が手を伸ばしかけ、俺は反射で声を出した。
「それ!!マナー違反ですよ!!!」
場がぴたりと止まる。自分の声が鋭すぎたと理解するのに、半拍かかった。胸が冷たくなる。だが、言い直す。
「開封は代表だけ。今は重臣か近侍。手を出すなら、ひと言お願いしてから」
商務の役人は顔を赤くして手を引っ込めた。
「……頼む。開けてくれ」
重臣がうなずき、近侍が封蝋に刃を入れる。くるりと開かれた紙に、全員の視線が集まる。書記の少女が読み上げた。
「『王国殿 明日、三刻前に入城する。供は五名。礼物少々。――辺境伯侍従』」
短い。だが、十分だ。俺は胸の奥の熱を押さえながら、紙の余白を指さす。
「受けの返書は、三文で返す。『迎えの場所』『人数の確認』『入城の手順』。ここまででいい」
「“歓迎の文句”は要らぬのか」
「一文目がそれです。長く飾ると、遅れます」
リディアが椅子の背にもたれ、足を組んだ。
「封はどうする。昨日みたいに紐をぐるぐる?」
「今日は一巻き、結び目は裏。封蝋は下辺の中央に一つ。印はまっすぐ。押したら数える間に息を止めて三拍。動かない」
「三拍?」
「こう。『いち、に、さん』。斜めに押すと、相手が印を読みづらい」
俺が見本を押そうとした時だ。リディアが面白がって蝋に指を突っかけた。
「あつっ」
「だから触らない!」
「冗談だよ」
「冗談でもだめです。火は礼の外側にある」
「はいはい。……でも、今のはちょっと笑った」
書記の少女がくすりと笑い、重臣も目尻だけで笑う。空気が少し和らいだ。俺は印章を持ち直し、まっすぐ下ろす。蝋が押し広がり、王国の紋がきれいに浮かぶ。
「よし」
近侍が巻きを整え、紐を裏で結ぶ。伝令役の若い兵が一歩前へ出た。
「持ち方は?」
「胸の前で両手。片手でぶら下げない。雨よけの布を上にかける。落としても踏まない」
「踏まない?」
「紙は言葉そのものです。踏むと、言葉を踏むことになる」
若い兵が真面目な顔でうなずく。俺は窓の外を見た。空は明るい。まだ間に合う。
「では、送る前に“説明書”を添えます。門の場所・迎えの合図・入城の順番。図は簡単に。言葉は短く」
書記の少女が素早くペンを走らせ、簡単な門の図を描く。矢印。番号。俺は短く文を足す。
> 門一にてお迎えします。合図は旗一つ。順番は使者→供→荷。止まる位置は印のとおり。
重臣が低くうなずく。
「わかりやすい。――講師、ひとつ問う」
「はい」
「相手が“殿”ではなく“様”を望むかもしれぬ。その時は」
「相手に合わせます。ただし全員同じ。混ぜません」
「よい」
商務の役人が手を挙げる。
「昨日の贈り物、開けさせたな。今日は『開けません』と言われたら?」
「『後ほど拝見します』。押しつけない。それで相手の時間が守られます」
「ふむ……悪くない」
リディアが机に身を乗り出した。
「じゃ、最後に“読み合わせ”な。相手役は私がやる」
「助かる」
俺は咳払いを一つし、便箋を新しく取り出した。
「――読み上げます」
「来い」
俺は三文で書いた添え状を、ゆっくりと音に乗せた。
「『辺境伯領 使者殿。ご機嫌うるわしく、道中のご無事を願っております。明日、王城にて短い打ち合わせをお願いしたく存じます。ご到着の刻と人数をお教えいただけますと助かります』」
読み終えると、室内が静かになった。胸の奥がじんわり温かい。言葉が、短くても届く感覚。リディアが腕組みを解いて言った。
「分かる。短いのに、礼がある」
「ありがとう」
「礼は短く」
「ありがとう」
重臣が立ち上がり、近侍に目で合図する。
「出せ」
伝令役の若い兵が巻きを受け取り、胸の前で両手。踵を返して、扉へ向かう。俺は思わず声をかけた。
「走らない。歩幅をそろえて速歩。落ち着きが、相手への礼になる」
「はっ!」
扉が閉じる。静けさ。俺は肩の力を抜き、椅子に腰を下ろした。背中にじんわり汗。緊張が遅れて体に届く。
「講師」
商務の役人が咳払いを一つ。
「さっきの“マナー違反”は、必要だった。……素直に言っておく」
「ありがとうございます」
「礼は短く」
「ありがとう」
リディアが笑い、書記の少女も笑う。重臣は鼻を鳴らしただけだが、怒りではない。
窓の外で、伝令の馬の蹄が遠ざかっていく音がした。俺は立ち上がり、窓辺まで歩く。深呼吸。胸の真ん中に小さな火が灯っている。昨日より少し明るい。
――強すぎないか。押しつけになっていないか。心の中で何度も問い直す。それでも、最初の一歩で転ばせないために、短く置く。命と安全は強く言う。その他は、短く置く。
拳を軽く握り、ゆっくり開く。指先のインクが乾いている。
「次は、迎えの当日の流れを“図と三文”で作ります」
「図、得意になったな」
リディアのからかいに、俺は苦笑いで返した。
「短く、分かりやすく」
「顔も短く」
「顔はどうやって」
「笑え」
思わず笑う。胸の緊張が、またひとつほどけた。俺は机に戻り、次の便箋を引き出した。最初の五秒のために、三文をもう一度磨く。今日の一筆が、明日の混乱を一つ減らすと信じて。
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