57. 境界の向こうで
翌朝、空気はやけに冷たかった。
夜明け前の薄青い空の下、俺は集落の入口に立っていた。肩の傷はまだ完全には塞がっていない。包帯の下がじくりと疼く。
(本当に行くんだな……)
昨日は勢いで言えた。
「行く」と。
でも今は違う。
足の裏が、やけに重い。
背後に気配を感じて振り向くと、先頭の魔族と若い戦士が立っていた。
「我らは森の手前までだ」
先頭の魔族が低く告げる。
「村には入らぬ」
「分かってる」
喉が乾く。
若い戦士が俺を睨む。
「逃げるなら今だ」
「逃げない」
「向こうに着いた瞬間、槍が飛ぶぞ」
「かもしれないな」
「笑うな」
「笑ってない」
自分でも分かる。
顔が引きつっている。
(怖いに決まってるだろ)
でも、足は前へ出た。
森を抜ける。
木々の隙間から見える、境界の丘。
その向こうに、人間の村がある。
俺がかつて「守るべき側」だと思っていた世界。
(敵対者)
昨日の宣告が、耳の奥で蘇る。
丘の手前で、先頭の魔族が止まった。
「ここまでだ」
「……ああ」
「正樹」
呼ばれ、振り向く。
「戻れなくなるかもしれん」
「もう戻れない」
「そういう意味ではない」
先頭の魔族の目は真剣だった。
「橋は、壊れれば落ちる」
「……分かってる」
若い戦士が吐き捨てる。
「死ぬなよ」
俺は少し驚いた。
「心配してくれてるのか」
「違う」
「?」
「死なれたら、斬る相手がいなくなる」
思わず吹き出しそうになる。
でも、その裏にある本音は分かる。
(見てるんだよな、俺を)
俺は深く息を吸い、丘を越えた。
村が見えた。
柵、畑、煙の上がる家。
普通の村だ。
でも。
見張りが俺に気づいた瞬間、空気が変わった。
「止まれ!」
叫び声。
槍が向けられる。
「……佐藤?」
見覚えのある顔。
勇者一行の補給を担当していた兵士だ。
「何してる!」
「話をしに来た」
「ふざけるな! 敵対者だぞ!」
胸がきゅっと縮む。
(やっぱり、そう呼ばれるんだな)
「敵対してない」
「魔族の集落にいたと報告がある!」
「いた」
「なら敵だ!」
「違う」
声が震える。
怖い。
でも逃げない。
「戦いを止めたい」
兵士が鼻で笑う。
「止めたい?」
「軍は動いてる」
「知ってる」
「魔族は襲ってくる」
「見たのか?」
兵士が言葉に詰まる。
「……可能性がある」
「可能性で殺すのか」
「お前は魔族側に立った!」
「立った」
言い切る。
「でも、人間を捨てたわけじゃない」
ざわめきが広がる。
兵士が睨む。
「じゃあなぜ戻らない」
「戻れと言われたからだ」
「は?」
「戻れば、全部なかったことにできる」
「できない!」
「できると思ってるだろ」
胸が熱い。
「俺を連れ戻せば、魔族はやっぱり敵だって証明できる」
「……」
「でも、それで何が変わる?」
沈黙。
兵士が歯を食いしばる。
「お前は裏切った」
「守ろうとしただけだ」
「誰を!」
「子供を」
空気が揺れる。
「魔族の子供だろ!」
「子供だ」
兵士の目が揺れる。
「人間も魔族も関係ない」
「綺麗事だ!」
「そうだよ」
俺は一歩前へ出る。
槍先が胸に触れそうになる。
でも止まらない。
「綺麗事だ。でも、それを捨てたら何が残る」
「……」
「憎しみだけだ」
兵士の呼吸が荒い。
村の中から人々が顔を出している。
怯え、不安、怒り。
(俺は、どっちにも怖がられてる)
それでも。
「軍が来る前に、話し合え」
「魔族の王は民を襲わないと言っている」
「信じられるか!」
「信じなくていい」
「じゃあ何だ!」
「見に来い」
自分でも驚く言葉だった。
「集落を見に来い」
ざわりと空気が揺れる。
「罠だ!」
「罠なら、俺が死ぬ」
兵士が目を見開く。
「俺が前に立つ」
「……本気か」
「本気だ」
沈黙が落ちる。
風が、畑を揺らす音だけが聞こえる。
(震えてるな、俺)
足が少しだけ揺れている。
でも逃げない。
兵士が、ゆっくりと槍を下ろした。
「……隊長に伝える」
「すぐには決められない」
「分かってる」
「お前はどうする」
「戻る」
「魔族のところへ?」
「ああ」
兵士は俺を見つめた。
「本当に橋になるつもりか」
俺は、深く息を吸う。
「壊れてもな」
それだけ言って、背を向けた。
丘を戻る途中、膝が少し震えた。
(怖かった……)
心臓がまだ速い。
でも。
丘の向こうで待っている影が見えた。
先頭の魔族と若い戦士。
「どうだった」
「刺されなかった」
若い戦士が鼻で笑う。
「甘いな」
「かもな」
「手応えは?」
「迷いはあった」
先頭の魔族が目を細める。
「それで十分だ」
俺は空を見上げた。
橋はまだ、完全には繋がっていない。
でも。
最初の一歩は、確かに踏み出された。
胸の奥に残る恐怖と、わずかな手応えを抱えながら、
俺はゆっくりと森へ戻っていった。




