56. 橋を渡る者
王国の使者が去った翌日、集落の空気は明らかに変わっていた。
昨日までは「戦いの余韻」だったものが、今日は「準備」になっている。
武器を研ぐ音があちこちから聞こえ、見張りの配置が増え、若い魔族たちの動きも硬い。
(……本当に、敵になったんだな)
俺は広場の端に立ちながら、ゆっくりと息を吐いた。肩の傷はまだ鈍く痛む。包帯越しに脈打つ感覚が、生きている証みたいで、やけに現実的だった。
王に呼ばれたのは、そのときだった。
「正樹」
「はい」
中央へ歩く。一歩ごとに、視線が集まるのが分かる。
(見られてる)
逃げたい。
でも、足は止まらない。
王の隣には、先頭の魔族と、数人の若い戦士がいた。その中の一人が、露骨に俺を睨んでいる。
「今日からだ」
王が静かに言う。
「何が、ですか」
「橋としての役目だ」
胸が小さく跳ねる。
「王国は次に軍を送る」
「はい」
「その前に、我らは動く」
ざわりと空気が揺れる。
「動く……?」
「境界近くの村と接触する」
言葉の意味を理解するまで、一瞬かかった。
「人間の村、ですか」
「そうだ」
若い戦士が一歩前に出る。
「なぜだ!」
声に苛立ちが滲む。
「敵だぞ!」
「敵になるのは軍だ」
王は揺れない。
「民ではない」
若い戦士が俺を指差す。
「それは、こいつの影響か!」
広場が静まる。
視線が俺に突き刺さる。
(来たな……)
橋は両側から壊される。
王国からは敵認定。
今度は、内側からの疑念。
「言え、人間」
若い戦士が睨む。
「俺たちに、人間を信じろと言うのか?」
喉が乾く。
でも、逃げるわけにはいかない。
「信じろとは言わない」
「は?」
「疑え」
ざわりと空気が揺れる。
「疑って、見て、話して、それから決めろ」
「それで裏切られたら?」
「そのときは、俺も責任を負う」
言った瞬間、自分の言葉の重さに息が詰まりそうになる。
(責任って何だよ……)
でも、口にした以上、引けない。
「責任?」
若い戦士が嘲る。
「どうやって?」
「逃げない」
短く答える。
「俺が前に立つ」
沈黙。
先頭の魔族が低く言う。
「昨日も、そう言ったな」
「はい」
「そして傷を負った」
「はい」
「死にかけた」
「……はい」
若い戦士が吐き捨てる。
「役立たずだ」
胸に刺さる。
痛い。
でも、それは事実だ。
「そうだ」
俺は頷いた。
「俺は強くない」
「戦えない」
「でも、話せる」
若い戦士の眉が寄る。
「話して何になる」
「昨日、戦いが止まった」
「完全には止まっていない」
「でも、全滅はしなかった」
広場が静まる。
「俺が叫んだからじゃない」
「王が止めたからだ」
「でも、リディアが迷った」
その名前に、空気が揺れる。
「迷いは、隙だ」
若い戦士が言う。
「迷いは、道だ」
俺は言い返す。
「迷うやつは、変われる」
先頭の魔族が、わずかに目を細めた。
「……続けろ」
「橋は、渡る者がいなきゃ意味がない」
胸の奥が熱い。
「俺が橋でも、誰も渡らなければ壊れるだけだ」
「だから、最初は俺が渡る」
「人間の村へ?」
「そうだ」
ざわり。
若い戦士が叫ぶ。
「罠だ!」
「罠かもしれない」
「それでも行くのか!」
「行く」
即答だった。
怖い。
正直、めちゃくちゃ怖い。
村に行けば捕まるかもしれない。
殺されるかもしれない。
でも。
(橋になるって、そういうことだろ)
王がゆっくり頷く。
「正樹が先に行く」
「そして、我らは後ろで待つ」
若い戦士が食い下がる。
「信用できない!」
「信用しなくていい」
俺は言う。
「見てろ」
視線を真正面から受け止める。
「俺が裏切ったら、そのときは斬れ」
広場が凍る。
若い戦士の目が見開かれる。
「……本気か」
「本気だ」
心臓がうるさい。
でも、目は逸らさない。
数秒の沈黙。
やがて、若い戦士が顔を逸らした。
「……勝手にしろ」
その声には、完全な拒絶はなかった。
王が告げる。
「明朝、出立する」
「準備しろ」
解散の空気が流れる。
広場から人が散っていく中、先頭の魔族が俺の横に立った。
「怖いか」
「はい」
「逃げたくなるか」
「なります」
「それでも行くか」
「行きます」
先頭の魔族は、ふっと息を吐いた。
「橋を渡るのは、橋自身だ」
その言葉が、胸に落ちる。
俺は空を見上げた。
雲が流れている。
(本当に、渡るんだな)
守ると決めた場所のために。
敵になった世界と向き合うために。
橋は、踏まれるだけじゃない。
渡る者にもなる。
その覚悟を、震える足の裏で確かめながら、
俺は静かに拳を握った。




