54. 期待される側になっていた
戦いの翌朝は、やけに静かだった。
いつもなら聞こえる木を割る音も、子供の笑い声も控えめで、集落全体が何かを飲み込んだまま息をしているようだった。
俺は、簡素な寝床から体を起こす。
肩に巻かれた包帯が、ずしりと重い。傷自体は深くないらしいが、動かすたびに鈍い痛みが走る。
(……生きてる)
それだけで、十分なはずなのに。
胸の奥が落ち着かない。
昨日、俺は選んだ。
“今は、ここを守る”と。
それは衝動だったのかもしれない。
でも、嘘じゃなかった。
外へ出ると、何人かの魔族がこちらを見ていた。
視線が集まる。
敵意ではない。
でも、以前とは違う重さがある。
(……なんだ、この感じ)
気まずくなって視線を逸らしかけたとき、子供が駆け寄ってきた。
「人間!」
昨日庇ったあの子だ。
「肩、痛い?」
「まあな」
笑ってみせると、子供は真剣な顔で言った。
「ぼく、強くなる」
「……え?」
「昨日みたいに、守られないように」
胸の奥が、きゅっと縮む。
(……違う)
守りたくて動いただけだ。
でも、その行動は、この子の中で“意味”になっている。
「無理はするなよ」
そう言いかけて、止まる。
(それは、否定になるか?)
俺は言い直した。
「強くなりたいなら、ちゃんと考えろ。昨日みたいに、飛び出す前にな」
子供はこくりと頷いた。
「人間みたいに?」
「……俺は失敗例だ」
「でも、助かった」
真っ直ぐな目。
言葉が詰まる。
子供が去ったあとも、その視線の感触が胸に残った。
広場の中央へ向かうと、先頭の魔族と年配の魔族、それに王が立っていた。
「来たか」
王の声は落ち着いている。
「正樹」
「……はい」
「傷はどうだ」
「問題ありません」
強がりだと自分でも分かる。
王は小さく頷き、続けた。
「昨日、お前はここに立った」
胸がどくりと鳴る。
「はい」
「衝動か」
「……半分は」
正直に答える。
「でも、半分は考えた」
王の目が細くなる。
「何を」
「どちらにも立たないまま、綺麗なことを言うのは……もう無理だと」
沈黙。
先頭の魔族が低く言う。
「なら、覚悟はあるか」
その問いは、刃のようだった。
「昨日のような戦いが、また来る」
「人間は引かぬ」
「お前は、そのたびに選ぶことになる」
喉が乾く。
(覚悟……)
俺は、まだ迷っている。
人間も守りたい。
魔族も守りたい。
理想は捨てきれない。
でも。
「逃げません」
それだけは、はっきり言えた。
「分からなくても、逃げない」
王は、しばらく俺を見つめ、それから静かに言った。
「それでいい」
短い言葉。
だが、重い。
「正樹」
年配の魔族が口を開く。
「昨日の戦いで、若い者たちは揺れた」
「……揺れた?」
「人間を、敵としか見ていなかった者もいる」
「だが、お前を見て迷っている」
胸の奥がざわつく。
「迷いは弱さだ」
先頭の魔族が言う。
「だが、迷える者は変われる」
視線が、俺に集まる。
「お前がいることで、若い者は考える」
「……俺が?」
「そうだ」
王が断言する。
「お前は、もはや“客”ではない」
その言葉に、肩が震えた。
「お前は、橋だ」
息が止まりそうになる。
「橋は、踏まれる」
「……」
「揺れる。壊れそうにもなる」
「……」
「だが、繋ぐ」
胸の奥が、じわりと熱くなる。
(橋……)
綺麗な役目じゃない。
楽でもない。
どちらからも疑われる。
どちらからも踏まれる。
それでも。
俺は、昨日、確かに選んだ。
王が続ける。
「お前が望むかどうかは別だ」
「だが、若い者はお前を見る」
「子供も、お前を見る」
「……」
「期待される側になっている」
その言葉が、胸に重く落ちる。
(期待……)
俺は、ずっと逃げてきた。
講師として正解を押し付け、責任を「正しさ」に預けていた。
でも今は違う。
俺自身が、見られている。
誤魔化せない。
逃げれば、その背中が見られる。
「……怖いです」
思わず、口から出た。
王は笑わない。
「当然だ」
「怖くない者に、橋は務まらぬ」
先頭の魔族が、腕を組んだまま言う。
「怖いなら、考えろ」
「考えて、立て」
その言葉は、命令ではなく助言だった。
ふと、昨日の婚礼を思い出す。
命令ではなく、提案。
否定ではなく、理解。
(……同じか)
俺は、ゆっくりと息を吸った。
「橋になります」
自分の声が、少しだけ震えている。
「完璧じゃなくていいなら」
王が頷く。
「完璧な橋はない」
小さな笑いが、広場に落ちる。
そのとき、遠くで子供の声がした。
「人間ー!」
振り向くと、数人の若い魔族がこちらを見ている。
昨日より、視線がまっすぐだ。
(……見られてる)
逃げたくなる。
でも、足は動かない。
俺は、ゆっくりと手を振り返した。
その動作が、やけに重い。
(もう、軽くはない)
期待される側になっていた。
知らないうちに。
その重みを、肩の痛みと一緒に感じながら、
俺は静かに、自分の立つ場所を見つめ直していた。




