53. 受け入れられた理由
戦いの音が、少しずつ遠ざかっていった。
剣がぶつかる金属音は、まだどこかで鳴っている。けれど、さっきまでの「全部が一気に壊れる」感じじゃない。怒号も、悲鳴も、波が引くみたいに弱くなっていく。
(……止まった?)
肩の傷がじくじく痛む。血が腕を伝って、手のひらがぬるい。
俺は広場の端、建物の影に身を寄せながら、荒い呼吸を整えようとしていた。息を吸うたびに、土と煙と鉄の匂いが喉に刺さる。
さっき、俺は言った。
「今は、ここを守る」
言ってしまった。
(……もう、戻れない)
その事実が、今さらになって胸を締めつける。
逃げたかったわけじゃない。
どちらも守りたかった。
なのに、結局は――。
「正樹!」
リディアの声が飛ぶ。
振り向くと、彼女が走ってきていた。鎧のない簡素な装いでも、動きは鋭い。剣は血で汚れ、肩で息をしている。
「生きてるか!」
「……見ての通り」
俺は苦笑しようとして、顔が歪んだ。肩が痛む。
「肩!」
リディアが眉を吊り上げる。
「かすっただけって言っただろ!」
「かすったの範囲が広すぎる!」
「うるさい、今それどころじゃ――」
言いかけたところで、広場の中央に低い声が響いた。
「やめろ」
先頭の魔族――あの強面の魔族が、短く告げる。
その声だけで、魔族側の動きがぴたりと止まった。
人間側も、同時に止まる。
前方の隊列の中から、兵士たちがざわつく。
「なぜ止める!」
「押し切れるぞ!」
「隊長、命令は――」
リディアが歯を食いしばり、兵士たちに向かって叫んだ。
「静かにしろ! 今は――」
言葉が続かない。
命令と現場の混乱の間で、彼女の声が折れそうになっていた。
(……俺が、追い込んでる)
胸が痛む。
そのとき、集落の奥から、重い足音が近づいてきた。
ざわめきが静まり、空気が変わる。
現れたのは、王だった。
太い角、落ち着いた眼差し。彼が歩くだけで、場が「戦い」から「判断」の空気に切り替わる。
王は、人間の兵士たちを一瞥し、次に魔族たちを見た。
そして、俺に視線を向ける。
その視線が、重い。
(……俺、何をしたんだ)
受け入れられた気がしていた。
輪の中に入った気がしていた。
でも、今の俺は。
人間からは裏切り者。
魔族からは、得体の知れない人間。
どちらにも完全には属していない。
王が口を開いた。
「人間の隊長」
リディアが背筋を伸ばす。
「はい」
「ここは我らの集落だ。お前たちが踏み込んだ」
「……命令です」
リディアの声が硬い。
「魔族の動きを確認し、必要なら制圧せよと」
「必要、とは何だ」
王の問いに、兵士の一人が前へ出た。
「魔族は危険だ! 人間を襲う!」
別の兵士も続く。
「人間の土地に巣食っている!」
王は、静かに首を傾げた。
「お前たちは、我らの生活を見たのか」
「見る必要はない!」
兵士の声が荒い。
「魔族は魔族だ!」
その言葉が、俺の胸をえぐった。
(……これだ)
見ない。
知ろうとしない。
正しさで片付ける。
昔の俺と同じだ。
俺は、拳を握りしめた。
王が視線を俺に戻す。
「正樹」
名前を呼ばれ、背筋が反射的に伸びる。
「お前は、なぜこちらに立った」
喉が鳴った。
(言えば、決まる)
ここで何を言うかで、俺の立場は確定する。
怖い。
でも、もう逃げられない。
「……守りたかったからです」
声が震えた。
「子供が、いた。矢が飛んだ。体が勝手に動きました」
王は頷く。
「それだけか」
「それだけじゃ……ない」
俺は息を吸い込み、言葉を選ぶ。
「ここで見たんです。宴も、婚礼も、弔いも……生きてるって」
リディアが、俺を見ていた。
兵士たちが、俺に罵声を浴びせる。
「魔族に騙された!」
「裏切り者!」
「隊長! あいつを拘束しろ!」
リディアの拳が震える。
「黙れ……!」
絞り出すような声。
彼女は、兵士と俺の間に立った。
(リディア……)
胸が熱くなる。
でも、俺は甘えちゃいけない。
王が、先頭の魔族に視線を送った。
「お前は、どう思う」
先頭の魔族が、低く唸る。
「この人間は……邪魔だと思っていた」
心臓が跳ねる。
(やっぱり……)
だが、続く言葉が違った。
「だが、弔いで声を上げた」
「……」
「子供を庇った」
「……」
「そして、今もここにいる」
先頭の魔族が、俺を見た。
「逃げない」
その一言が、胸に落ちる。
別の魔族が口を挟む。
「人間のくせに、我らの肉をうまいと言ったやつだ」
「宴で笑った」
「婚礼で、命令じゃなく助言をした」
声が次々に重なる。
(……覚えて、くれてる)
俺がやったことは、小さかった。
教えなかった。
否定しなかった。
それだけ。
なのに、彼らは見ていた。
王がゆっくりと頷き、俺に向かって言った。
「受け入れられた理由を知りたいか」
喉が渇く。
「……知りたいです」
王は、静かに答える。
「お前は、我らを“直そう”としなかった」
胸が、きゅっと締まる。
「そして、我らの痛みを“避けなかった”」
弔いの叫びが、頭に蘇る。
「我らは強い」
王は続ける。
「だが、強い者ほど、弱さを見せられない。人間の前では特にな」
兵士たちがざわつく。
「なのに、お前は泣いた。声を出した」
王の言葉に、頬が熱くなる。
(恥ずかしい……)
でも、目を逸らさなかった。
「それは、勇気だ」
王は俺の肩の傷に視線を落とし、静かに言った。
「今日、お前は選んだ。言葉ではなく、体で」
胸がどくんと鳴る。
王が、手を差し出した。
「正樹。こちらへ来い」
足が重い。
怖い。
でも、進むしかない。
俺は一歩、また一歩と王に近づいた。
周囲の魔族たちが、道を空ける。
輪が、自然にできる。
(また、輪だ)
この輪の中に入るのは、宴のときよりずっと怖い。
王の前に立つと、彼は短く言った。
「膝をつけ」
命令だった。
俺は迷い、そして膝をついた。
土の冷たさが膝に伝わる。
王が、俺の額に指を当てた。
ひんやりとした感触。
次の瞬間、熱が走った。
(うっ……)
痛みではない。
胸の奥が、熱くなる。
周囲から、低い声が上がった。
「――誓いの印」
誰かが囁く。
王がゆっくりと指を離す。
「これは束縛ではない」
王の声は落ち着いていた。
「お前がここで見たものを、偽らぬための印だ」
俺は額に手を当てる。そこに、確かに何かが残っている気がした。
(……印)
リディアが一歩前へ出る。
「王。待ってください」
王が彼女を見る。
「人間の隊長よ。言え」
リディアは、唇を噛みしめた。
「彼は、人間です。……私の、仲間でした」
胸が締めつけられる。
「このままでは、彼は戻れない」
王は静かに答えた。
「戻れる場所はある」
俺の胸が跳ねる。
「だが、戻らない場所もある。それは――彼が選ぶ」
リディアの肩が落ちる。
彼女は俺を見た。
「正樹……」
俺は、彼女に言いたいことが山ほどあった。
ごめん。
ありがとう。
でも、今は――。
俺は、ゆっくりと立ち上がり、リディアに向かって言った。
「俺は……逃げない」
リディアの目が揺れる。
「……馬鹿」
それだけ言って、彼女は顔を背けた。
兵士たちが騒ぐ。
「隊長! 撤退ですか!?」
「命令を――」
リディアが鋭く叫んだ。
「撤退する! 負傷者を運べ!」
兵士たちが不満げに動き始める。
王が、兵士たちを見送りながら言った。
「今日のところは、これ以上血を流さぬ」
先頭の魔族が頷く。
「追わぬ」
戦いは、終わった。
完全に解決したわけじゃない。
むしろ、ここからが始まりだ。
だけど。
魔族たちが、俺を見ていた。
疑いではない。
確かめるような視線。
そして、少しだけ――期待。
子供が建物の陰から顔を出し、俺に手を振った。
「人間!」
俺は、痛む肩をこらえて手を振り返す。
(……受け入れられた理由)
教えなかった。
否定しなかった。
泣いた。
庇った。
どれも、すごいことじゃない。
ただ、逃げなかっただけだ。
それだけのことが、この場所では――
信じる理由になる。
俺は額の熱を感じながら、ゆっくりと息を吐いた。
(……ここで、生きる)
そう決めた瞬間、怖さよりも、静かな覚悟が胸の底に沈んだ。
もう、戻れない。
でも。
俺は、確かに輪の中にいた。




