51. どちらも守れなかった
角笛の音が、集落の空気を切り裂いた。
短く、鋭く、迷いのない音。さっきまでの穏やかさが嘘みたいに、広場の温度が一気に下がる。
(来た……)
胸の奥で、嫌な予感が形になった。息を吸うと、喉の奥に灰の匂いが残っている。弔いの火の名残だ。
魔族たちは素早かった。誰が指示するでもなく、武器を手に取る者、子供や年寄りを建物の陰へ誘導する者、見張りの位置へ散る者が、同時に動き始める。
俺も、体が勝手に動いていた。
(……俺は、何をすればいい)
足が一歩前へ出る。次の一歩で止まる。自分の中に二つの声がある。
「前に出るな。お前は戦えない」
「でも、黙って見ていたら、また同じになる」
手のひらが汗で湿る。視線が定まらない。
そんな俺の横を、強面の魔族が通り過ぎた。森で会った、先頭の魔族だ。
「人間」
「……はい」
「前に出るな」
短く、切るような声。
「でも――」
「死ぬ」
それだけだった。
反論が喉で詰まる。
(そうだ。俺が出ても、役に立たない)
それでも、胸の奥が納得しない。ここで「守る側」に立ちたい気持ちが、消えない。
集落の入口付近で、木々が揺れた。
次の瞬間、鎧の擦れる音が聞こえる。
人間の兵士たち。
槍、盾、弓。規律のある足取り。隊列。
(……あの感じ)
懐かしい、というより、胃が縮む。
その隊列の先頭に、一人の女性がいた。
リディア。
昨日「顔を見に来ただけだ」と言って去ったはずの彼女が、今は人間の隊列の一番前に立っている。
目が合った。
一瞬、彼女の表情が揺れる。
だがすぐに、騎士の顔に戻った。
(……板挟みだ)
俺の胸が痛む。
リディアが一歩前へ出る。
「魔族の集落だ。警戒しろ!」
後ろの兵士たちが、槍を構える。
魔族側も、武器を構えた。
空気が、火花みたいに弾ける。
その間に、俺は一歩前へ出てしまっていた。
(やめろ、俺)
足が止まらない。
リディアが俺を見て、声を低くする。
「正樹……何をしてる」
「ここにいる」
自分でも意味の分からない返事をした。
リディアの眉が寄る。
「ふざけるな。危ない」
「分かってる」
「分かってるなら下がれ!」
きつい声。
その背後で、兵士の一人が叫ぶ。
「リディア隊長! あれは人間です! 捕虜ですか!?」
「……」
リディアは答えない。
その沈黙が、余計に場を焦がす。
俺は両手を上げた。武器はないと示すために。
「待ってくれ。話せる」
兵士たちの槍先が、さらに鋭く俺に向く。
「裏切り者が何を言う!」
「魔族に取り込まれたんだ!」
罵声が飛ぶ。
(……やっぱり、こうなる)
胸の奥が冷たくなる。
でも、俺はここで黙りたくなかった。
リディアを見て、息を吸い込む。
「リディア。俺は――」
「喋るな」
彼女が、かすかに首を振った。
その動きが、痛い。
(守ろうとしてる)
俺を守るために、俺の言葉を止めている。
同時に、魔族側を守るために、兵士たちを抑えようとしている。
どちらも守ろうとして、どちらも危うい。
先頭の魔族が、低く唸る。
「人間の騎士よ。ここは我らの地だ」
リディアが顔を向ける。
「王国の命令だ。魔族を確認し、必要なら制圧する」
「制圧?」
魔族が笑う。冷たい笑いだ。
「それは侵略だ」
兵士の一人が槍を突き出す。
「黙れ魔族! 人間の土地に巣食うな!」
魔族側が一斉に動きかける。
(やめろ!)
俺は前へ出ようとして、先頭の魔族に腕を掴まれた。
「動くな」
「でも――」
「死ぬ」
またその言葉。
俺は歯を食いしばる。
ここで俺が出れば、戦いが始まる。
ここで俺が黙れば、戦いが始まる。
(……詰んでるじゃないか)
息が浅くなる。
リディアが、兵士たちに向けて手を上げた。
「待て! まだ状況が――」
「隊長! 命令は確認と制圧です!」
「魔族が武器を持ってます!」
「それに、あの男! 正樹は勇者一行の……!」
兵士たちの声が重なり、リディアの言葉が掻き消される。
彼女の拳が、微かに震えた。
(……限界だ)
その瞬間、俺は気づいてしまった。
リディアはここで、隊長としての立場に縛られている。
俺はここで、戦えない。
魔族はここで、引けない。
誰も悪くないのに、衝突する。
そして――。
俺の喉が勝手に動いた。
「違う!」
叫んでいた。
空気が一瞬、凍る。
全員の視線が俺に刺さる。
リディアが息を呑む。
「正樹……!」
俺は胸の奥が燃えるみたいに熱かった。
「魔族は無礼なんじゃない。文化が違うだけだ!」
兵士が嘲るように笑う。
「何を言ってる。魔族は人を襲う!」
「それは、人間も同じだ!」
口が止まらない。
「ここで俺は見た。宴も、婚礼も、弔いも……普通に生きてる!」
「黙れ!」
兵士が一歩踏み込む。
槍先が、俺の胸に近づく。
リディアが前に出て、槍を押し下げた。
「やめろ!」
兵士が食い下がる。
「隊長! あいつは裏切り者です!」
「裏切りじゃない!」
リディアが叫ぶ。
その声に、俺の胸が痛くなる。
(俺のせいで、言わせた)
リディアの顔が、ぐっと歪む。
魔族側でも、ざわめきが走った。
「人間が、我らを庇う?」
「罠ではないのか」
疑念の視線が刺さる。
(……どっちからも、信じきられない)
それが現実だ。
俺は、どちらにも完全には属していない。
属したいのに。
守りたいのに。
その時だった。
後方から、矢が放たれた。
ヒュッ、と空気が裂ける音。
(え?)
時間が遅くなる。
矢は魔族側へ――。
リディアが振り返り、叫んだ。
「放てと言ってない!」
だが、もう遅い。
魔族の一人が肩を撃ち抜かれ、うめき声を上げた。
その瞬間、魔族側の殺気が爆発した。
「来たか!」
「殺せ!」
剣が抜かれ、槍が突き出される。
人間側も、盾を構え、槍を揃える。
戦いが始まる。
(やめろ! やめろ!)
俺は叫んだ。
「やめろ! 誰も得しない!」
声は、届かない。
リディアが俺を掴み、後ろへ引いた。
「正樹! 下がれ!」
「リディア、止めてくれ!」
「無理だ!」
「無理って――」
「命令と恐怖が、もう動いてる!」
その言葉が、胸に突き刺さる。
俺は足を踏ん張った。
「俺が、間に入る」
「死ぬって言っただろ!」
「それでも――!」
言い切る前に、背後で何かが弾けた。
魔法だ。
炎が走り、土が抉れ、悲鳴が上がる。
俺は体が固まった。
(怖い)
怖い。
でも、立ち尽くしている自分がもっと怖い。
どちらも守りたい。
その願いが、あまりにも無力だ。
リディアが、俺の胸倉を掴んだ。
「正樹。見ろ」
「……」
「今のお前の言葉で、矢が止まったか?」
俺は答えられない。
「止まってない」
リディアの声が震える。
「魔族も、人間も、恐怖で動く。理屈じゃ止まらない」
俺の目の奥が熱くなる。
「じゃあ、俺は……」
言葉が途切れる。
リディアは一瞬だけ目を伏せ、そして俺を見た。
「守りたいなら、生きろ」
その一言が、胸に落ちた。
(生きろ……)
守りたい。
でも、ここで死んだら、何も守れない。
俺は歯を食いしばり、足を後ろへ引いた。
後退するたびに、胸が裂けそうだった。
(どちらも守れない)
その現実が、重い。
リディアは俺を庇うように前へ出る。
「正樹、ここから先は私が――」
「リディア!」
叫ぶ。
彼女は振り返らない。
戦いの音が、近づく。
俺は、拳を握りしめた。
(……次は、違うやり方を探す)
どちらも守れなかった。
それでも、諦めたくない。
その悔しさだけが、俺の胸の奥で燃え続けていた。




