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50. 戻れる場所と、戻らない場所

 集落の朝は、いつも通りに始まった。


 水を汲む音、木を割る乾いた響き、子供たちの甲高い笑い声。昨日までと変わらないはずの光景なのに、胸の奥にだけ、わずかなざらつきが残っていた。


(……リディアが来たから、か)


 彼女の「変わったな」という一言が、まだ耳の奥に引っかかっている。肯定とも否定ともつかない、けれど確かな境界線を引く言葉だった。


 俺は、広場の端で薪を整えながら、ぼんやりと空を見上げる。雲の流れはゆっくりで、急ぐ理由なんてどこにもないように見えた。


「人間」


 背後から声をかけられ、振り返る。


 腕を組んだ、見慣れた魔族が立っていた。最初に森で出会い、集落へ案内した、あの先頭の魔族だ。


「……何かありましたか」


「境界だ」


 短い一言。


「境界?」


「人間の気配がある」


 その瞬間、胸の奥がひくりと鳴った。


(……来た、か)


 予感は、ずっとあった。ここで穏やかな日々を過ごせば過ごすほど、いずれは人間側が動くと分かっていた。


「どのくらい近い」


「半日もあれば、ここに届く」


 集落の空気が、わずかに張りつめる。周囲の魔族たちも、その会話を聞き取り、視線を向けてきた。


 不安、警戒、そして――期待。


(……期待?)


 その感情に気づいて、胸がざわつく。


「正樹」


 年配の魔族が、低く声をかけてきた。


「人間は、お前を探しているのか」


「……分かりません。ただ、俺がここにいると知れば、放ってはおかないでしょう」


 嘘はなかった。


 俺は、人間側にとって扱いづらい存在になっている。魔族と共に過ごし、文化を否定せず、弔いで声を上げた人間。


(戻れ、って言われるだろうな)


 いや、戻れで済めばいい。


 最悪の場合――。


 考えが、そこまで及んだところで、強く首を振る。


「……俺は、どうすればいい」


 思わず、口に出ていた。


 その問いに、誰もすぐには答えなかった。


 沈黙が落ちる。


 以前なら、この沈黙に耐えられず、俺は何か言葉を足していた。責任を引き受けるふりをして、場をまとめようとしていた。


 だが、今は違う。


 答えを、待つ。


 先頭の魔族が、静かに言った。


「戻れる」


「……え?」


「人間の場所へ戻ることは、できる」


 胸の奥が、きゅっと締めつけられる。


「だが――」


 言葉が続く。


「戻ったあと、ここは戻れない」


 はっきりとした断定だった。


(……そうだろうな)


 頭では、分かっていた。


 俺は、魔族の文化を否定しなかった。声を上げ、輪に入り、助言し、悲しみを分け合った。


 それは、ここに足跡を残したということだ。


「逆も同じだ」


 別の魔族が続ける。


「ここに残れば、人間の場所へは戻れぬ」


 胸の奥で、二つの場所が並ぶ。


 整えられた秩序。

 正しさが言葉になっている世界。


 そして、


 叫び、笑い、沈黙し、寄り添う場所。


(……選べる、のか?)


 選択肢があるようで、もう片方は薄くなっている。


 俺は、ゆっくりと息を吐いた。


「……戻れる場所があるのは、ありがたいです」


 その言葉に、魔族たちは黙って頷いた。


「でも」


 言葉を続ける。


「戻らない場所が、はっきりしたのも……悪くない」


 自分でも、驚くほど落ち着いた声だった。


 誰かが、低く笑った。


「覚悟、というやつか」


「……まだ、そこまでは」


 正直に答える。


「ただ、選ばされる前に、分かっておきたかった」


 年配の魔族が、深く頷いた。


「それでいい」


「選ぶのは、追い詰められてからでは遅い」


 その言葉が、胸に残る。


 遠くで、見張りの角笛が鳴った。


 短く、鋭い音。


「来るぞ」


 空気が、一気に引き締まる。


 俺は、無意識に一歩前へ出ていた。


(……ああ)


 もう、分かっている。


 戻れる場所は、まだある。


 だが――。


 戻らない場所は、もう決めている。


 集落の中央で、魔族たちが武器を手に取り始める。その輪の中に、俺も自然と立っていた。


 誰も、俺に命令しない。

 誰も、離れろと言わない。


 それだけで、十分だった。


 空を見上げると、雲の流れが少しだけ速くなっていた。


(……来いよ)


 心の中で、そう呟く。


 選択は、もう始まっている。


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