49. 変わったな、と言われた
朝の空気は、澄んでいた。
焚き火の名残がまだ広場に残り、灰の匂いがほんのりと漂っている。昨日までの出来事が嘘のように、集落は穏やかだった。子供たちが走り回り、年配の魔族が腰を下ろして話し込み、誰かが水を汲む音が規則正しく響く。
(……日常、か)
俺は広場の端に立ち、深く息を吸った。肺に入る空気は冷たく、胸の奥までまっすぐ届く。ここに来てから、呼吸が浅くなることが減った気がする。
ふと、背後に気配を感じた。
「正樹」
聞き慣れた声だった。
反射的に振り返り、思わず言葉を失う。
そこに立っていたのは、リディアだった。
かつて、旅の中で何度も言葉を交わし、何度も衝突し、何度も助け合った仲間。整った鎧はなく、簡素な装いだが、その立ち姿は変わらない。凛とした空気を纏い、まっすぐこちらを見ている。
「……リディア?」
名前を呼ぶまでに、少し間があった。
(なんで、ここに……)
疑問が頭を埋め尽くすよりも先に、胸の奥がざわついた。気まずさ、照れ、戸惑い。いくつもの感情が一度に押し寄せる。
「久しぶりだな」
「……ああ」
それだけで、会話が止まる。
沈黙が落ちた。
以前なら、俺は耐えられなかっただろう。何か言わなければ、場を回さなければ、気まずさを解消しなければ。そう思って、余計な言葉を足していた。
だが、今は違った。
沈黙を、そのまま受け入れられる。
(……変わったのは、俺か)
リディアが、俺の周囲を一瞥する。
「……ずいぶん、馴染んでるな」
その言葉に、胸が小さく跳ねた。
「そう、見えるか?」
「ああ」
即答だった。
「昔のお前なら、今ごろ誰かに説教してる」
思わず、苦笑が漏れる。
「……言い返せないな」
それを聞いて、リディアも小さく笑った。
その笑顔に、胸の奥が少しだけ温かくなる。
「何があった?」
問いは短く、だが真剣だった。
俺は少し考え、正直に答えることにした。
「……何も、してない」
「は?」
「教えてないし、正してもいない。ただ……見て、聞いて、声を出しただけだ」
言葉にしてみると、拍子抜けするほど簡単だ。
リディアは眉を上げ、しばらく俺を観察するように見つめた。
「……本気で言ってる?」
「本気だ」
嘘はなかった。
「それで、ここまで受け入れられた?」
「たぶん」
曖昧な答えに、リディアは鼻で笑った。
「やっぱり、変わったな」
その一言が、胸に深く刺さる。
責める響きではない。からかいでもない。
ただの事実としての言葉。
(……言われると、くるな)
俺は視線を逸らし、広場を見る。
「前はさ、正しいことを言えば、分かってもらえると思ってた」
独り言のように続ける。
「でも、正しいって言葉は……刃みたいなもんだ。向き次第で、簡単に人を切る」
リディアは、黙って聞いていた。
「ここでは、それを振り回さなくて済む」
「……逃げてるんじゃなくて?」
鋭い指摘だった。
一瞬、言葉に詰まる。
だが、すぐに首を振った。
「違う。逃げないために、やめただけだ」
リディアは、しばらく考え込むように目を伏せ、それから顔を上げた。
「なるほどな」
短く頷く。
「前より、厄介だ」
「……褒めてるのか?」
「半分はな」
軽い調子だが、目は真剣だった。
そのとき、遠くで魔族の子供が俺に手を振った。
「人間!」
呼ばれ、自然に手を振り返す。
リディアは、その様子をじっと見ていた。
「……ああ、確かに」
「?」
「説教しないやつの顔だ」
思わず、吹き出した。
「そんな顔、あるのか」
「ある」
即答だった。
少しの沈黙のあと、リディアが真面目な声で言った。
「なあ、正樹」
「なんだ」
「この先、人間側は黙ってない」
空気が、少しだけ張りつめる。
「分かってる」
俺は、静かに答えた。
「ここにいるってだけで、裏切りだろうな」
「……それでも?」
問いかけに、俺は少しだけ考えた。
そして、正直に口にする。
「まだ、戻れない」
リディアは、深く息を吐いた。
「だろうな」
納得したように、そう言った。
彼女は踵を返し、少し離れた場所へ歩き出す。
「今日は顔を見に来ただけだ」
振り返らずに言う。
「……ありがとう」
その背中に、そう告げた。
リディアは、ほんの少しだけ立ち止まり、肩越しに振り返った。
「変わったな」
もう一度、そう言ってから、歩き出した。
その言葉が、胸の奥に残る。
(……ああ)
誰かに言われて、初めて実感した。
俺は、確かに変わった。
そして、その変化は、もう戻れない場所まで来ている。
広場の中央で、魔族たちの笑い声が上がる。
俺は、その輪を見つめながら、静かに思った。
(……ここからだ)
この場所で得たものが、
この先、何を壊し、何を守るのか。
まだ分からない。
それでも。
変わったな、と言われたことが、
今は、少しだけ誇らしかった。




