45. 文化は、上下じゃない
集落の朝は、思っていたよりも早かった。
まだ空が白みきる前から、低い声があちこちで交わされ、木を打つ音や鍋の蓋を開ける音が聞こえてくる。俺は簡素な寝床から身を起こし、少しだけ伸びをした。体のあちこちが軋むが、不思議と気分は悪くない。
(……ここで目を覚ますの、二日目か)
そう考えて、胸の奥に小さな違和感が生まれる。
人間の村でなら、魔族の集落に泊まったと知れた瞬間、石を投げられていてもおかしくない。それなのに今の俺は、こうして無事に朝を迎えている。
外へ出ると、昨日の宴の名残がまだ残っていた。焚き火の跡、空になった酒壺、無造作に置かれた骨の山。どれも乱雑に見えるのに、不思議と不快感はない。
(……慣れてきてるな)
そう自覚した瞬間、少しだけ笑ってしまった。
集落の中央へ向かうと、見慣れた魔族の姿があった。昼間に先頭に立っていた、あの魔族だ。周囲より一回り大きな体で、他の者たちと静かに言葉を交わしている。
こちらに気づいたのか、彼は顎で俺を呼んだ。
「来い」
「……はい」
素直に従い、少し距離を保って立つ。相変わらず威圧感はあるが、昨日ほどの緊張はなかった。
「王がお前に会う」
その一言で、背筋が反射的に伸びる。
(王……!?)
頭の中に、これまでの経験が一気に蘇った。王国での謁見、礼の角度、視線の位置、発言の順番。あらゆる“正解”が、洪水のように押し寄せてくる。
(落ち着け……)
ここは人間の王宮じゃない。魔族の王に、人間の作法を当てはめるのは、間違いだ。
案内されたのは、集落の奥にある少し大きな建物だった。装飾はほとんどなく、石と木で組まれた質実剛健な造りだ。
中に入ると、そこには一人の魔族が座っていた。
角は太く、白くなり始めた髪が肩まで伸びている。鋭さよりも、重みを感じさせる眼差し。
「人間か」
「……はい」
跪くべきか、一礼すべきか。迷いが一瞬で頭を占める。
(どっちも、しない)
俺は、ただ立ったまま、視線を下げすぎず、かといって挑発しない程度に前を向いた。
「名は」
「正樹と申します」
「正樹」
王は、その名をゆっくりと繰り返した。
「聞いている。お前は、我らを否定しなかった」
胸が、わずかに跳ねる。
「……否定する理由が、ありませんでした」
正直な答えだった。
王は小さく息を吐き、続ける。
「人間はよく言う。魔族は無礼だと。野蛮だと」
その言葉に、胸の奥がちくりと痛んだ。
「だが、それは我らの文化だ。お前は、それをどう思う」
一瞬、言葉に詰まる。
(どう思う……?)
昨日までの俺なら、こう答えていたかもしれない。
『改善すべき点が多い』『人間社会では通用しない』
だが、今は違う。
「……上下は、ないと思います」
自分でも驚くほど、自然に言葉が出た。
「人間のやり方が正しくて、魔族のやり方が間違っているわけじゃない」
王の視線が、少しだけ鋭くなる。
「では、なぜ人間は我らを正そうとする」
その問いは、刃のように鋭かった。
俺は、一度息を吸い込み、ゆっくりと吐く。
「……正しさが、安心だからです」
「安心?」
「はい。自分の知っている形に当てはめれば、理解した気になれる。でも、それは……相手を見ていないのと同じだと思います」
王は、しばらく黙っていた。
沈黙が、重く流れる。
(言い過ぎたか……?)
不安が胸をよぎる。
だが、王はゆっくりと笑った。
「面白い人間だ」
低く、穏やかな笑いだった。
「お前は、我らを正そうとしない」
「……できません」
「なぜだ」
「分からないからです。分からないものを、正せない」
それは、俺自身への宣言でもあった。
王は、深く頷いた。
「文化とは、積み重ねだ。強いから残ったのでも、賢いから残ったのでもない」
彼は、ゆっくりと言葉を続ける。
「生きてきたから、残った。それだけだ」
胸の奥に、ずしりと響いた。
(……ああ)
俺が今までやってきたことは、その積み重ねを、軽々しく切り捨てようとしていたのかもしれない。
「人間の文化も、魔族の文化も、上下ではない」
王は、俺をまっすぐに見た。
「違うだけだ」
その言葉に、喉の奥が熱くなる。
「お前は、それを理解しようとした」
王は立ち上がり、一歩こちらへ近づいた。
「だから、ここにいる」
心臓が、大きく鳴った。
「正樹。お前は、教える者ではない」
一瞬、胸がちくりと痛む。
(……ああ、そうだな)
だが、続く言葉は予想外だった。
「理解しようとする者だ」
その一言で、胸の奥に溜まっていたものが、静かにほどけていく。
頭を下げるべきか迷った末、俺は小さく息を吐き、自然な調子で答えた。
「……そうありたいです」
王は、満足そうに頷いた。
「しばらく、この集落にいろ」
それは命令ではなく、提案だった。
「我らの文化を見ろ。感じろ。否定せずに」
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
「……ありがとうございます」
その言葉は、今までで一番、素直だったかもしれない。
建物を出ると、朝の光が集落を照らしていた。
(文化は、上下じゃない……)
王の言葉を反芻する。
正しさを振りかざすより、理解しようとすること。
教えるより、まず見ること。
俺は、ようやく自分の立つ場所を見つけ始めていた。




