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44. 褒めただけなのに

 宴がひと段落すると、集落にはゆっくりとした時間が流れ始めた。


 焚き火の勢いは落ち、肉の匂いと酒の香りが混ざった空気が、夜の冷たさと一緒に漂っている。魔族たちは思い思いの場所に腰を下ろし、低い声で語り合ったり、眠そうに目をこすったりしていた。


 俺はというと、どうしていいか分からず、広場の端に立ったまま、その光景を眺めていた。


(……受け入れられた、よな?)


 さっきまで確かに、俺は宴の輪の中にいた。笑われ、背中を叩かれ、同じ酒を飲んだ。それなのに、今は一歩引いた場所にいる自分がいる。


(また、距離を測ってる)


 無意識の癖だ。昔から、場の空気に完全に溶け込むことが怖かった。講師という立場に逃げ込み、評価する側にいれば、距離を保てると思っていた。


 そのときだった。


「――ねえ」


 背後から、小さな声がした。


 振り返ると、そこにいたのは魔族の子供だった。昼間、遠くからこちらを見て、すぐに隠れてしまったあの子だ。小柄な体に、小さな角。大きな目が、不安そうに揺れている。


(……近づいてきた?)


 思わず、体が強張る。


 子供は俺から数歩離れた場所で立ち止まり、もじもじと足先を動かした。


「……人間、だよね?」


「う、うん」


 声が少し裏返った。自分でも驚く。


(相手は子供だろ……)


 そう分かっていても、どう接していいか分からない。頭の中に、研修で見てきた数え切れない「緊張した新人」の姿が浮かぶ。


 子供は、ぎゅっと拳を握りしめ、意を決したように口を開いた。


「さっき……」


 そこで言葉が途切れる。


 俺は、何も言わずに待った。


(急かすな。教えるな)


 自分にそう言い聞かせる。


「さっき、ぼく……」


 子供は一度深呼吸をしてから、少し大きな声を出した。


「こんば……にちは!」


 集落には似つかわしくない、ぎこちない挨拶。


 胸の奥が、きゅっと締めつけられた。


(……あ)


 昔の俺なら、間違いなくこう言っていた。


『声が小さい』『語尾が下がっている』『もっと相手の目を見て』


 喉元まで、その言葉がせり上がってくる。


 だが、同時に思い出した。


 この子は、勇気を振り絞って話しかけてきたのだ。


(ここで否定したら……)


 俺は、膝を少し曲げ、子供と目線を合わせた。


「……今の、すごく良かったよ」


 それだけを、伝えた。


 子供は、きょとんと目を瞬かせる。


「え?」


「ちゃんと、相手に伝えようとしてた」


 少し考えてから、続ける。


「勇気がいることだと思う」


 一瞬の沈黙。


 次の瞬間、子供の顔がぱっと明るくなった。


「ほんと!?」


「ああ」


 力強く頷く。


 子供は嬉しそうに尻尾を揺らし、何度も何度も頷いた。


「ぼく、ちゃんとできた?」


「できてた」


 それを聞いた瞬間、子供は弾けるように笑った。


「やった!」


 その声は、思った以上に大きく、広場に響いた。


 周囲の魔族たちが、何事かとこちらを見る。


(しまった……)


 空気を壊したかと思い、身構えた。


 だが――。


「どうした?」


「何があった」


 子供は、誇らしげに胸を張った。


「ぼく、人間に褒められた!」


 その一言で、場の空気が変わった。


 ざわり、と小さなどよめき。


「ほう」


「人間に?」


 視線が、俺に集まる。


(まずい……?)


 心臓が跳ねる。


 だが、近くにいた年配の魔族が、ゆっくりと頷いた。


「それは、良かったな」


 子供の頭に、どんと大きな手が乗せられる。


「よく声を出した」


 別の魔族も、低く笑った。


「人間に認められるとは、大したものだ」


 子供は、ますます胸を張る。


 その様子を見ながら、俺は呆然としていた。


(……え?)


 ただ、褒めただけだ。

 指導もしていない。

 正解も教えていない。


 それなのに。


 子供は自信を持ち、周囲はそれを自然に受け入れている。


(俺、今まで何をしてたんだ……)


 研修の場で、必死に「正解」を教え込み、相手の顔色が曇っていくのを見てきた。


 あれは、本当に必要だったのか。


 子供が、俺を見上げて言った。


「ねえ、人間」


「ん?」


「また、話してもいい?」


 その問いかけに、胸の奥が熱くなる。


「……もちろん」


 そう答えると、子供は安心したように頷いた。


 そのとき、遠くから誰かの声が飛んだ。


「おい、人間」


 振り向くと、昼間に先頭に立っていた魔族が、腕を組んでこちらを見ていた。


「子供に、何を教えた」


 少しだけ、緊張が走る。


「……何も」


 正直に答えた。


「褒めただけです」


 一瞬の沈黙。


 魔族は、俺をじっと見つめ、それから鼻で笑った。


「それが、一番難しい」


 そう言って、踵を返す。


 その背中を見送りながら、俺は深く息を吐いた。


(……褒めただけなのに)


 それだけで、誰かの背中が少し伸びる。

 それだけで、場の空気が柔らぐ。


 胸の奥で、何かが静かに、確かに形を変えていくのを感じていた。


(これが……俺のやるべきことなのかもしれない)


 焚き火の残り火が、赤く瞬いた。


 その光の中で、子供の笑顔は、いつまでも消えなかった。


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