43. それは、無礼じゃなかった
焚き火の火が、ぱちりと音を立てた。
集落の中央に設けられた広場には、いくつもの火が灯され、その周囲に魔族たちが集まっている。日が落ちきった森の中で、炎だけが揺らめき、影が不規則に地面を踊っていた。
(……宴会、か)
そう判断するまでに、少し時間がかかった。
人間の感覚で言えば、どう見ても「無秩序」だったからだ。誰が主催なのか分からず、席順もなく、料理らしきものは大皿に雑然と盛られ、酒の入った壺が無造作に置かれている。
大きな肉を素手で引き裂き、豪快にかぶりつく者。
酒を一気にあおり、喉を鳴らして笑う者。
互いの背中を叩き合い、意味不明な叫び声を上げる者。
(……昔の俺なら)
喉元まで、言葉がせり上がってくる。
『まずは年長者から』『音を立てるのは無作法です』『落ち着いて食べるべきでしょう』
頭の中に、研修用スライドが次々と浮かぶ。そのたびに、胸の奥がひくりと痛んだ。
(言わないって決めただろ)
自分に言い聞かせる。
ここは俺の知っている世界じゃない。評価する側でも、指導する側でもない。ただ、招かれただけの場所だ。
魔族の一人が、木製の杯を差し出してきた。
「飲め」
「……はい」
受け取った杯は、ずしりと重い。中身は濃い色の酒で、鼻を刺すような香りが立ち上った。
(これ、作法とか……)
また考えそうになり、慌てて思考を止める。
杯を口元に運ぶと、周囲の魔族たちがじっとこちらを見ていた。その視線に、背中がむず痒くなる。
一口。
強烈な刺激が喉を焼き、思わず咳き込みそうになるのを必死で堪えた。
「……っ」
その瞬間、魔族たちがどっと笑った。
「いい顔だ!」
「弱いな、人間!」
だが、その笑いには悪意がなかった。むしろ、どこか楽しげで、歓迎するような響きがある。
(……怒られてない)
拍子抜けするほどだった。
隣に腰を下ろした魔族が、大きな肉の塊を俺の前に差し出す。
「食え」
「……手で?」
「他に何がある」
もっともな返答に、言葉を失う。
(ナイフもフォークも、ないよな……)
人間の宴会なら、確実に指摘していた場面だ。脂で手が汚れるとか、衛生的にどうとか、そんな理屈が頭をよぎる。
だが、ここでは――。
俺は、意を決して肉を掴んだ。
温かい脂が指に絡みつき、思った以上に柔らかい。引き裂いて口に運ぶと、野性的な旨味が一気に広がった。
「……うまい」
思わず、そう呟いていた。
魔族たちが、また笑う。
「だろう!」
「人間に分かるとは思わなかった」
背中を叩かれ、杯を打ち鳴らされる。その一つひとつが、輪の中に引き込まれていく感覚を伴っていた。
(音を立てるな、なんて……)
今ここで言ったら、場の空気を壊すだけだ。
酒を飲む音、肉を噛みちぎる音、笑い声。
それらは、この宴にとって「無礼」ではなく、むしろ必要な要素なのだと、肌で理解する。
しばらくして、魔族の一人が立ち上がり、大声で叫んだ。
「今日の狩りに感謝する!」
それに呼応するように、周囲から雄叫びが上がる。
俺は一瞬、どう振る舞えばいいか分からなくなった。
(静かにする場面、じゃない)
頭では分かっていても、体が追いつかない。声を出すことへの抵抗が、まだ残っている。
だが、ここで黙っていれば、また外側に戻ってしまう気がした。
俺は、腹の奥に力を入れた。
「……おめでとう、ございます!」
人間的すぎる言葉だったかもしれない。それでも、声を上げたことに意味があった。
一瞬の間。
そして――。
「ははは!」
「人間なりに、祝っているぞ!」
笑い声が重なり、誰かが杯を掲げた。
(……受け入れられた)
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
気づけば、俺も笑っていた。作法も、正解も、もうどうでもよかった。ただ、この場にいることが、楽しい。
ふと、以前の自分が頭をよぎる。
音を立てるなと注意し、順番を守れと叱り、場の空気を凍らせていた俺。
(あれは……正しかったのか?)
少なくとも、ここでは違う。
この宴において、豪快さは無礼じゃない。
声を上げることは、失礼じゃない。
それは、この場所の礼儀だ。
杯を重ね、肉を分け合い、笑い声に包まれながら、俺はようやく理解した。
(……マナーって、形じゃない)
相手のやり方を否定しないこと。
その場の空気を壊さないこと。
それこそが、今の俺が選ぶべきマナーなんだ。
焚き火の炎が高く上がり、夜空を赤く染める。
その光の中で、俺は初めて、胸を張ってこの宴の輪の中に立っていた。




