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42. 教えなかった理由

 森を抜ける道は、思っていたよりも静かだった。


 魔族たちは無言で歩く。先頭を行く者の背中は大きく、肩甲骨の動き一つひとつがやけに目についた。後ろを歩く俺は、置いていかれないように必死で足を運ばせながら、周囲の気配に神経を張りつめていた。


(……殺されないだけで、奇跡みたいなものだよな)


 数刻前まで、俺は確実に死ぬと思っていた。それが今は、こうして魔族の集落へ案内されている。状況が飲み込めず、現実感が薄い。


 木々の隙間から、わずかに煙が見えた。


「――止まれ」


 先頭の魔族が低く告げる。全員が一斉に足を止め、俺も慌てて立ち止まった。


 視線の先には、粗削りな木造の建物がいくつも並んでいるのが見える。石と木を組み合わせた家屋は、人間の村とは造りが違い、どれも実用性を重視した無骨な形をしていた。


(ここが……魔族の集落)


 胸の奥がざわつく。人間社会で聞かされてきた「魔族の村」は、もっと荒々しく、血なまぐさい場所だと思っていた。だが、目の前に広がる光景は、驚くほど落ち着いていた。


 洗濯物のような布が風に揺れ、子供らしき小さな影が建物の間を走り回っている。


(……普通の、暮らしだ)


 その事実が、じわじわと胸に染みてくる。


 集落の入り口に近づくと、複数の魔族の視線が一斉に俺に向けられた。警戒、疑念、敵意。混ざり合った感情が、空気を重くする。


(ここからが本番だな……)


 喉が鳴る。無意識に背筋を伸ばしかけて、はっとした。


(……違う)


 以前の俺なら、ここで考えていたはずだ。


『異文化の場では、まずこちらから礼を示すべきだ』

『姿勢を正し、相手の目を見て、簡潔に挨拶を――』


 頭の中に、研修資料の文言が浮かびかける。


 それを、ぐっと押し殺した。


(教える必要は、ない)


 そう自分に言い聞かせる。ここは俺の職場でも、講義室でもない。俺は客で、しかも歓迎されているかどうかも怪しい立場だ。


 最前を歩いていた魔族が振り返り、俺を見下ろした。


「騒ぐな。ここでは、静かな方がいい」


「……分かりました」


 即座に頷く。声の大きさ、返事の仕方、姿勢――どれも気にならないと言えば嘘になる。それでも、口には出さなかった。


 集落の奥へ進むにつれ、周囲の視線はさらに増えていく。囁き声が、あちこちから聞こえた。


「人間だ……」


「なぜ生きている?」


「捕虜か?」


 胸の奥が、ちくりと痛む。


(……そう思われても仕方ないよな)


 かつて自分が、人を一方的に評価してきたように。今度は俺が、評価される側に立っている。


 ふと、建物の陰から小さな魔族の子供が顔を出した。大人の魔族に引っ張られて、慌てて隠れる。


(怖がらせてる、よな……)


 その瞬間、昔の自分の姿が重なった。


 研修の場で、緊張した新入社員を前にして、「挨拶の角度が違う」と真顔で指摘していた自分。相手の表情を見ず、ただ正しさだけを押し付けていた。


(あれと、同じことをしたら……)


 ここでも、同じ結果になる。


 集落の中央に、少し開けた場所があった。簡素な焚き火跡と、腰を下ろせそうな丸太が並んでいる。


「ここで待て」


 魔族の一人がそう告げ、他の者たちは散っていった。


 一人残された俺は、丸太に腰を下ろすこともできず、ただ立ち尽くした。


(座っていいのか……?)


 そんな些細なことすら、判断できない。


 だが、だからこそ。


(勝手に決めるな)


 自分にそう言い聞かせ、動かずに待つ。


 やがて、先ほどの最前列の魔族が戻ってきた。視線を合わせ、短く言う。


「妙だな」


「……何が、でしょうか」


「人間は、もっと喋る。もっと命乞いをする。もっと、我らを恐れる」


 図星だった。恐れていないわけじゃない。ただ、それをどう扱えばいいのか、分からなくなっているだけだ。


「なぜ、何も言わない」


 問いかけに、俺は少しだけ考えてから答えた。


「……分からないからです」


「分からない?」


「あなたたちのやり方も、考え方も。だから、勝手に口出しするのは……違うと思って」


 魔族は、しばらく黙って俺を見つめていた。その視線は、試すようでもあり、探るようでもあった。


「人間は、よく教えたがる」


「……はい」


 否定できなかった。


「だが、お前は教えない」


「今は、まだ」


 そう答えた瞬間、自分でも少し驚いた。


(……俺、ちゃんと考えてる)


 以前なら、「正しいことは早く伝えるべきだ」と即答していただろう。だが今は違う。


「ここは、あなたたちの場所です」


「なら、なぜ来た」


 核心を突かれ、言葉に詰まる。


 少し考えてから、正直に答えた。


「……生きたかったからです」


「それだけか」


「それだけです。でも……生きるなら、ちゃんと相手を知りたい」


 焚き火の灰が、風に舞った。


 魔族は、ふっと口角を上げたように見えた。


「妙な人間だ」


 そう言い残し、背を向ける。


「しばらく、ここにいろ」


 それは、命令とも、許可ともつかない言葉だった。


 魔族の背中を見送りながら、俺はゆっくりと息を吐いた。


(……教えなかった)


 それだけのことなのに、胸の奥に小さな達成感があった。


 正しさを飲み込むことは、苦しい。言いたいことを言わないのは、もっと苦しい。


 それでも。


(これが、俺が選んだやり方だ)


 集落の中で、遠く子供の笑い声が聞こえた。


 その音を聞きながら、俺は初めて、この場所で息ができている気がした。


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