表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
40/48

40. 思いやりという名のマナー

 朝の光が、障子代わりの薄布を通して部屋に差し込んできた。


 目を覚ますと、昨夜までの重苦しさが少しだけ和らいでいるのが分かった。体はまだだるく、喉も完全には戻っていない。それでも、頭の中は驚くほど静かだった。


(……生きてるな、俺)


 そんな当たり前の事実を、噛みしめるように実感する。


 ゆっくりと体を起こすと、軋む音を立てて床が鳴った。その音に反応して、隣の部屋から足音が近づいてくる。


「お、起きたか」


 顔を出したのはトマスだった。相変わらずの気の抜けた声だが、手には湯気の立つ器がある。


「今日は座れるか?」


「……はい。昨日よりは」


 そう答えると、トマスは満足そうに頷いた。


「無理はするな。歩けるようになってから考えりゃいい」


 器を受け取り、口をつける。昨日と同じ、薄味の粥だ。それでも、不思議と美味く感じた。


(……何も言われない)


 食べ方も、姿勢も、音も。誰も気にしない。誰も指摘しない。


 その事実が、じわじわと胸に沁みてくる。


 しばらくして、村の人たちが様子を見に来てくれた。年配の女性、木こり風の男、子供を連れた母親。


「調子はどうだい?」


「水は飲めてる?」


「無理したらだめだよ」


 次々とかけられる言葉は、どれも短くて、柔らかい。


「……ありがとうございます」


 何度目か分からないその言葉を口にしながら、胸の奥がじんと熱くなった。


(俺、今……何もしてないのに)


 役に立っていない。教えてもいない。正しさも示していない。


 それでも、ここにいることを許されている。


 村人たちが去った後、俺は布団の上で天井を見つめた。


(マナーって……何だったんだろうな)


 異世界に来てからも、俺はずっと考えていた。どうすれば正しいか。どう振る舞えば恥をかかないか。どうすれば評価されるか。


 でも、この村で、誰一人として俺の所作を見ていない。


 見ているのは、俺の顔色と、呼吸と、生きているかどうかだけだ。


(……違うな)


 胸の奥で、何かが静かにほどけていく。


 午後、体調が少し落ち着いた頃、俺は外に出た。家の前には小さな畑があり、子供たちが土遊びをしている。


「おじちゃん、もう大丈夫?」


 昨日、額に手を当ててくれた女性の孫らしい。


「……まだ完全じゃないけどな」


「ふーん」


 それだけ言って、また土に夢中になる。その距離感が、やけに心地よかった。


 俺は、子供の横に腰を下ろす。


「なぁ」


「なに?」


「ここじゃ、挨拶ってどうしてるんだ?」


 聞きながら、自分でも少し驚いた。教えるためじゃない。直すためでもない。ただ、知りたかった。


「んー……会ったら言う! 会わなかったら言わない!」


 即答だった。


「……それで、いいのか?」


「うん!」


 迷いのない返事。


 思わず笑ってしまう。


(ああ、そうか)


 この村には、この村のやり方がある。


 夕方、トマスと並んで家の縁側に座った。空は茜色に染まり、風が涼しい。


「顔、変わったな」


 不意に、トマスが言った。


「え?」


「前は、もっと力入ってた。今は……少し抜けてる」


 それは、褒め言葉のように聞こえた。


「……俺、ずっと勘違いしてたんだと思います」


「ほう」


「マナーって、形を揃えることだと思ってました。でも……」


 言葉を探し、少し間を置く。


「相手が何を感じてるかを考えることの方が、よっぽど大事なんですね」


 トマスは、黙って頷いた。


「思いやり、ってやつだな」


 その一言が、胸にすとんと落ちた。


「……はい」


 思いやり。


 相手の文化を尊重すること。相手の状態を慮ること。自分の正しさを押し付けないこと。


 それは、どんな作法よりも難しくて、どんな規則よりも大切なものだった。


「俺……もう一度、旅に出ようと思います」


 自然と、そんな言葉が口をついた。


「今度は、教えるためじゃなくて……知るために」


 トマスは、にやりと笑う。


「それでいい。人はな、教え合う前に、生き合わなきゃいけねぇ」


 夕焼けの中で、その言葉を噛みしめる。


 孤独な放浪は、確かに俺を追い詰めた。


 けれど、その果てで俺はようやく気づいた。


 マナーとは、誰かを縛るためのものじゃない。


 誰かと一緒に、生きるためのものだ。


 その思いを胸に、俺は静かに、次の一歩を思い描いていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ