40. 思いやりという名のマナー
朝の光が、障子代わりの薄布を通して部屋に差し込んできた。
目を覚ますと、昨夜までの重苦しさが少しだけ和らいでいるのが分かった。体はまだだるく、喉も完全には戻っていない。それでも、頭の中は驚くほど静かだった。
(……生きてるな、俺)
そんな当たり前の事実を、噛みしめるように実感する。
ゆっくりと体を起こすと、軋む音を立てて床が鳴った。その音に反応して、隣の部屋から足音が近づいてくる。
「お、起きたか」
顔を出したのはトマスだった。相変わらずの気の抜けた声だが、手には湯気の立つ器がある。
「今日は座れるか?」
「……はい。昨日よりは」
そう答えると、トマスは満足そうに頷いた。
「無理はするな。歩けるようになってから考えりゃいい」
器を受け取り、口をつける。昨日と同じ、薄味の粥だ。それでも、不思議と美味く感じた。
(……何も言われない)
食べ方も、姿勢も、音も。誰も気にしない。誰も指摘しない。
その事実が、じわじわと胸に沁みてくる。
しばらくして、村の人たちが様子を見に来てくれた。年配の女性、木こり風の男、子供を連れた母親。
「調子はどうだい?」
「水は飲めてる?」
「無理したらだめだよ」
次々とかけられる言葉は、どれも短くて、柔らかい。
「……ありがとうございます」
何度目か分からないその言葉を口にしながら、胸の奥がじんと熱くなった。
(俺、今……何もしてないのに)
役に立っていない。教えてもいない。正しさも示していない。
それでも、ここにいることを許されている。
村人たちが去った後、俺は布団の上で天井を見つめた。
(マナーって……何だったんだろうな)
異世界に来てからも、俺はずっと考えていた。どうすれば正しいか。どう振る舞えば恥をかかないか。どうすれば評価されるか。
でも、この村で、誰一人として俺の所作を見ていない。
見ているのは、俺の顔色と、呼吸と、生きているかどうかだけだ。
(……違うな)
胸の奥で、何かが静かにほどけていく。
午後、体調が少し落ち着いた頃、俺は外に出た。家の前には小さな畑があり、子供たちが土遊びをしている。
「おじちゃん、もう大丈夫?」
昨日、額に手を当ててくれた女性の孫らしい。
「……まだ完全じゃないけどな」
「ふーん」
それだけ言って、また土に夢中になる。その距離感が、やけに心地よかった。
俺は、子供の横に腰を下ろす。
「なぁ」
「なに?」
「ここじゃ、挨拶ってどうしてるんだ?」
聞きながら、自分でも少し驚いた。教えるためじゃない。直すためでもない。ただ、知りたかった。
「んー……会ったら言う! 会わなかったら言わない!」
即答だった。
「……それで、いいのか?」
「うん!」
迷いのない返事。
思わず笑ってしまう。
(ああ、そうか)
この村には、この村のやり方がある。
夕方、トマスと並んで家の縁側に座った。空は茜色に染まり、風が涼しい。
「顔、変わったな」
不意に、トマスが言った。
「え?」
「前は、もっと力入ってた。今は……少し抜けてる」
それは、褒め言葉のように聞こえた。
「……俺、ずっと勘違いしてたんだと思います」
「ほう」
「マナーって、形を揃えることだと思ってました。でも……」
言葉を探し、少し間を置く。
「相手が何を感じてるかを考えることの方が、よっぽど大事なんですね」
トマスは、黙って頷いた。
「思いやり、ってやつだな」
その一言が、胸にすとんと落ちた。
「……はい」
思いやり。
相手の文化を尊重すること。相手の状態を慮ること。自分の正しさを押し付けないこと。
それは、どんな作法よりも難しくて、どんな規則よりも大切なものだった。
「俺……もう一度、旅に出ようと思います」
自然と、そんな言葉が口をついた。
「今度は、教えるためじゃなくて……知るために」
トマスは、にやりと笑う。
「それでいい。人はな、教え合う前に、生き合わなきゃいけねぇ」
夕焼けの中で、その言葉を噛みしめる。
孤独な放浪は、確かに俺を追い詰めた。
けれど、その果てで俺はようやく気づいた。
マナーとは、誰かを縛るためのものじゃない。
誰かと一緒に、生きるためのものだ。
その思いを胸に、俺は静かに、次の一歩を思い描いていた。




