4. 晩餐会でマナー講座を披露し大混乱
夕方、城の大広間に灯りがともった。厚い扉が開くと、照り返しのような温かい光が廊下まで流れてくる。俺は深く息を吸い、胸の奥の緊張をゆっくり押し下げた。
今日は王都の要人だけじゃない。戦で働いた村人や兵士も招かれている、と聞いた。貴族の長い衣、村人の粗い麻の服、商人の派手な上着――色も形もばらばらだ。長いテーブルには銀器と木の皿が混ざり、グラスの横にジョッキが並ぶ。最初の一歩で空気が決まる。俺はそう信じている。
「講師、顔が固い」
横からリディアが囁いた。鎧は外し、町娘みたいなシンプルなワンピースだ。いつもより柔らかい印象で、少しだけ俺の肩の力が抜ける。
「緊張はしてます。でも、大丈夫。やることは決まってる」
「やること、ね。――短く、頼むぞ」
「短く、分かりやすく」
王がゆっくり立ち上がり、会場を見渡す。
「異界の客人、今宵の席を整えると申したな。皆のために、ひと言ふた言、教えてみよ」
「はっ。では、ごく短く」
俺はテーブルの端に立ち、両手を見える位置に上げて下ろす。心臓が一拍強く鳴る。視線が集まる重さに、喉が乾く。だが、言葉はもう形になっていた。
「まず、持ち方を一つだけ。刃物は右、刺す道具は左。迷ったら、外側から使う。これで大体、困りません」
貴族の一人が手を挙げる。
「外から、とは?」
「皿に近いものからではなく、手から遠い方から順に、です」
「ふむ」
村人の男が戸惑った顔で木のフォークをいじる。
「そもそも一本しかねえぞ」
「一本の時は、それを全部に。刺す、すくう、どちらにも使っていいです」
「お、おう」
笑いが少し起きて、空気が柔らかくなる。俺は続けた。
「パンは、ちぎって口へ。大きくかぶりつくと、こぼれやすい。小さくすると、周りも自分も楽です」
その瞬間、俺の正面で――ごつい腕の戦士が、見事な大口でパンにかぶりついた。ぱらぱらと粉が散る。俺の口が勝手に動く。
「それ!!マナー違反ですよ!!!」
ぴたり、と場の時間が止まった。戦士はパンを口に半分入れた姿で固まり、周りの視線が一斉にこちらへ向く。しまった、と胸が冷える。けれど引けない。
「それでもマナーです! 皿の上で小さくちぎれば、こぼさず済むし、片付ける人も助かる。自分の服を汚さずに済むんです」
俺は自分のパンを一口大にちぎって見せる。戦士は目を瞬き、ゆっくりパンを引き抜いた。
「……悪い」
「ありがとうございます」
俺が会釈すると、笑いが波のように広がった。リディアが肘で小突く。
「講師、強気だな。そんな言い切り方、嫌われても知らないぞ」
「マナーは譲れませんから」
「はあ……まあ、今は笑いになってるから助かってるけどな」
応酬一つで、胸の緊張が少しほぐれた。だが、白髭の重臣は眉間に皺を寄せている。ここからが本番だ。
「乾杯の前に、もう一つだけ。杯はそっと扱ってください。強くぶつけると泡や酒が飛んで、隣の人にかかって迷惑です。目線は相手の眉と目の間。にらみにならない高さです」
貴族の若者が手を挙げる。
「だが、我らは木のジョッキだ。杯みたいに細い足もない。どう持てばいい?」
「その場合は、器の胴を軽く。高く持ち上げすぎず、胸の前で『どうぞ』の角度に」
「どうぞ、の角度?」
俺は自分の器を胸の前で少し傾けて見せる。若者が真似をして、照れくさそうに笑った。斜め向かいの商人が、わざとらしく肩をすくめる。
「異界の礼は細けぇな」
リディアがすかさずかぶせる。
「細かいじゃない。“こだわり”だ」
「……言い換えありがとう」
小さな笑いがまた起きる。俺は呼吸を整え、肝心の乾杯へ。
「では、陛下のご発声の前に、皆で一つ“合わせ”ましょう。乾杯の言葉は短く、すぐ飲める。合図は『乾杯!』の一言で」
白髭の重臣が低く咳払い。
「合図は王が決める」
「もちろんです。今日は陛下の『乾杯!』で、全員が同じタイミングで杯を上げると、席が揃います。……陛下、よろしいでしょうか」
王は目を細め、唇の端を上げた。
「面白い。やってみよ」
許可が出た。胸が熱くなる。だが、その次の一言が余計だったと、すぐに思い知ることになる。
「最後に……席での刃物は、口の中に入れない。舌を切ります。置く時は皿の右に、刃を内側に」
俺の声に、会場の半分が手を止め、もう半分が混乱した。木の皿の右がどこだ、銀の皿と木の皿で違うのか、刃がついてないナイフはどうする――小さなざわめきが、すぐに大きな波になる。
「おい、右ってこっちか?」
「違う、こっちが右だ!」
「刃がないのに刃を内側ってどうする!」
「知らん! 皿に立てとけ!」
「立つか!」
混線。しまった、情報を詰め込み過ぎた。頭の中で、余計な言葉が自分の足を引っ張る音がする。リディアが袖を引いた。
「講師、短く」
「……はい、短く」
俺は手を上げ、はっきりと言い直した。
「今は一つだけでいい。『口の中に刃物を入れない』。置き場所は、近くの平らな所で大丈夫。後で揃えます」
安堵の笑いがあちこちで漏れる。白髭の重臣はなお眉を寄せていたが、王が軽く顎をしゃくった。
「では、乾杯じゃ」
王が杯を上げる。俺は胸の前で器をそっと傾け、目線を合わせた。
「乾杯!」
「乾杯!」
声が重なり、器が鳴った。泡が軽く揺れる。さっきまでのざわめきが、音楽に戻っていく。
……よし。ここまでは、なんとか。
安堵の息を吐いた矢先、向こうのテーブルで事件が起きた。村の少年が大きな肉を掴み、豪快にかぶりついている。周りの大人が笑い、貴族が目を丸くした。白髭の重臣が顔をしかめるのが見えた。
俺の足が勝手に動く。止めるなら今。けれど、怒らせたくない。少年の手の高さに視線を下げ、笑みを作る。
「おいしそうだな。……少しだけ、皿の端に骨をまとめてもらえると、隣の人が助かる」
「え?」
「骨が転がると、器が倒れやすい。まとめると安全。食べる速さはそのままでいい」
「わかった!」
少年は素直にうなずき、骨を皿の端へ寄せた。隣の女将がほっと息をつき、肩を撫でる。
「助かったよ」
その時、別のテーブルで貴族の婦人が手を挙げた。
「異界の人。パンをちぎるのは、どうして?」
「手が忙しくならないからです。口の中に入れすぎない。会話が続きやすい」
「会話のため、ね」
婦人は納得した顔で頷き、パンを小さくちぎった。向かいの商人が肩をすくめ、わざと大きくちぎって見せる。
「こうか?」
「いや、それは大きい」
「こう?」
「もう少し小さく」
「こう!」
「完璧」
テーブルが笑いに包まれる。俺の胸に、小さな誇らしさが灯った。だが油断は禁物だ。白髭の重臣が静かに立ち上がる。
「異界の講師よ。礼は心から生まれる。形を押せば、心は離れる。今夜、形が先走っておらぬか」
静かな声なのに、刃より鋭い。胸の内側が冷たくなる。俺はまっすぐに答えた。
「おっしゃる通りです。だからこそ“少しだけ”形を揃えたい。最初の一歩が揃えば、心は追いつきやすい。今日は“最初の一歩”だけを置きたいと思っています」
「ふむ」
重臣はわずかに目を細め、席に戻った。王が笑う。
「難しくはない。わしにも分かった。続けよ。ただし、短くな」
「はい」
俺は深くうなずき、言葉を選ぶ。
「では最後に、三つだけ。『手を止めて聴く』『短く言う』『骨は端に』。これだけ、覚えてください」
会場のあちこちで復唱が起きる。リディアが指を折りながら笑った。
「手を止めて聴く、短く言う、骨は端に。よし、覚えた」
「よかった」
「でもな」
「うん?」
「さっきの“刃は口に入れない”の時は、顔が怖かった」
「え」
「言葉が正しくても、顔が怖いと伝わらない。柔らかい顔で言え」
「努力します」
「今、柔らかい」
「え?」
「笑ってるから」
思わず吹き出した。肩の力が抜け、その抜けた分だけ、胸の内側が温かくなった。
宴はその後も続いた。完璧ではない。誰かがこぼし、誰かが笑い、誰かが眉をひそめる。だが、最初より確かに“揃って”いた。声が重なり、視線が合い、骨は端に寄っている。
片付けの手伝いを申し出ると、給仕の少女が首を振った。
「今日は楽でした。みんな、端に寄せてくれたから」
「そうか」
喉の奥がじんと熱くなる。小さなことだ。けれど、誰かの負担が少し減った。俺がこの世界に持ってきた“こだわり”が、ほんの少し役に立った。
大広間を出ると、夜風が頬に触れた。リディアが隣で背伸びをする。
「生きたな、今夜も」
「何とか、だな」
「やり過ぎるなよ」
「分かってる。短く、分かりやすく」
「あと、顔な」
「顔も」
互いに笑い、緊張の残りが夜に溶けていく。
けれど、背後の大広間では、重臣たちが小声で何かを話していた。視線の端で、その輪の冷たさがちらつく。胸の奥で、小さな不安が灯る。
それでも――今夜の「乾杯!」の重なりを思い出すと、足取りは軽かった。最初の一歩は、置けた。次の一歩も、置けるはずだ。俺はそう信じて、暗い回廊をまっすぐ歩いた。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます!
もし少しでも
「クスッと笑えた」
「この先どうなるのか気になる」
と感じていただけたなら――
ブックマークや★評価を押していただけると、作者が本気で跳ねて喜びます。
応援していただける一つ一つの反応が、次の話を書く力になります。
どうぞこれからも気軽に見守っていただければ幸いです。
引き続きよろしくお願いいたします!




