39. 心配されるということ
ぬるい温もりに包まれて、俺はゆっくりと目を覚ました。
最初に感じたのは、雨音がないことだった。耳を澄ませても、あのざあざあという不快な音は聞こえない。代わりに、どこかで薪がはぜる小さな音と、人の話し声が微かに届いていた。
「……?」
喉を鳴らそうとして、かさりとした音しか出ない。だが、昨日よりは明らかに楽だった。体の重さは残っているが、頭が割れそうな痛みはない。
ゆっくり視線を動かすと、粗末だが清潔な天井が見えた。木の梁、白く塗られた板。どうやら建物の中らしい。
(……屋根、ある)
それだけで、妙に安心してしまう自分に苦笑する。
「お、起きたか」
少し離れたところから声がした。顔を向けると、行商人のトマスが椅子に腰かけていた。湯気の立つ器を手にしている。
「……トマス」
「無理に喋るな。喉、まだやられてる」
そう言って、彼は器を差し出してきた。中身は薄い粥のようなものだった。
「熱は下がってきてる。丸一日寝てたぞ」
「……そんなに」
驚きよりも先に、申し訳なさが胸を刺す。
「すみません……」
かすれた声で言うと、トマスは肩をすくめた。
「謝るな。生きてるなら十分だ」
その言葉に、返事が詰まった。
俺はゆっくりと体を起こし、器を受け取る。両手が微かに震えていた。粥を一口含むと、胃の奥にじんわりと温かさが広がる。
(……食べられる)
当たり前のことなのに、胸がいっぱいになった。
「ここは……?」
「近くの小さな村だ。雨が本降りになる前に、知り合いの家に運び込んだ」
知り合い、という言葉に少し驚く。
「……迷惑、かけました」
「だから謝るなって」
トマスは、少しだけ面倒くさそうに笑った。
「村の連中もな、『倒れてた旅人がいる』って聞いて、放っとけないってさ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がきゅっと締め付けられた。
(……心配、された?)
俺は何もしていない。ただ倒れていただけだ。それなのに。
しばらくして、戸口の方から足音がした。年配の女性が顔を覗かせる。
「あら、起きたのかい」
穏やかな声だった。怒りも警戒もない。
「この子が? 雨の中倒れてたっていう」
「そうだ」
トマスが答える。
「まぁ……大変だったねぇ」
女性はそう言って、俺の額に手を当てた。
「まだ少し熱があるね。無理しちゃだめだよ」
「……はい」
素直に返事をしている自分に、少し驚いた。
勇者一行といた頃なら、ここで気を遣わせまいとして立ち上がろうとしただろう。あるいは、迷惑をかけない所作について考え始めていたかもしれない。
今は、そんな余裕はなかった。
女性は、器を置きながら言った。
「何かあったら、呼びなさい。夜も誰かが様子を見るから」
「……ありがとうございます」
その言葉が、自然に口から出た。
女性は微笑んで部屋を出ていく。
静かになった部屋で、俺は天井を見つめた。
(……心配されるって、こういうことか)
指摘もされない。評価もされない。ただ、「大丈夫か」と言われる。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
「なぁ、正樹」
トマスが、不意に声をかけてきた。
「お前、よく人に説教してきただろ」
ぎくりとする。
「……はい」
「でもな」
彼は、窓の外を見ながら続けた。
「心配される側になるのも、悪くないだろ」
返す言葉が、見つからなかった。
俺は、ずっと『役に立つ側』『教える側』でいようとしてきた。そうでなければ、自分の価値がない気がしていた。
けれど今は、布団に寝かされ、粥を食べさせられ、額に手を当てられている。
それでも、誰も俺を責めない。
(……ここにいて、いいんだ)
そんな感覚が、胸に広がった。
不意に、目頭が熱くなる。
「……泣くなよ」
トマスが、気まずそうに言う。
「いえ……」
言いながら、涙が一筋、頬を伝った。
止めようとしなくていい、と初めて思えた。
俺は今、誰かに気にかけられている。それだけで、こんなにも救われる。
「……大丈夫です」
そう言うと、トマスは鼻で笑った。
「それはな、決めるのはお前じゃない」
その言葉が、胸に残る。
心配されるということ。
それは、弱さを責められることじゃない。
生きている証として、誰かの中に居場所ができることなのだと──その時、俺は初めて知った。




