38. 夢の底で呼ばれる名前
雨の音で目が覚めた。
最初は、それが現実なのか夢の続きなのか分からなかった。耳の奥で、ざあざあと一定のリズムが鳴っている。まぶたを開けようとして、頭がぐらりと揺れた。
「……っ」
喉が焼けるように痛い。体が重く、指一本動かすのにも気力が要った。
視界の端に、灰色の空が見えた。どうやら屋根のない場所に寝かされているらしい。雨粒が頬に当たり、冷たさがじわじわと染み込んでくる。
(……ああ、そうか)
思い出す。行商人トマスの荷車から降りた後、無理に歩こうとして──そこで、意識が途切れた。
「……情けない」
掠れた声は、雨音にかき消された。
体を起こそうとするが、力が入らない。腹の奥がきりきりと痛み、視界が白く滲む。
(だめだ……)
そう思った瞬間、意識がふっと沈んだ。
次に気づいた時、俺は夢の中にいた。
見慣れた場所だった。白い壁、整然と並ぶ椅子、天井の蛍光灯。会社の会議室だ。
「……ここは……」
自分の声が、やけに遠く聞こえる。
視線を巡らすと、長机の向こうに若い社員たちが座っていた。全員、緊張した面持ちで背筋を伸ばしている。
その中に、見覚えのある顔があった。
リディアだ。
彼女はスーツ姿で、周囲と同じように座っている。だが、こちらを見ていない。机の上に視線を落とし、唇を噛み締めていた。
「……挨拶は社会人の基本です」
教壇に立っているのは、かつての俺だった。
「角度は三十度。深すぎても、浅すぎてもいけません」
夢だと分かっているのに、体が硬直する。
「やり直し」
若い社員が立ち上がり、頭を下げ直す。その中に、リディアが混ざっていた。
「違います」
俺が言う。
「感情が見えません。形だけです」
その言葉に、リディアの肩がびくりと震えた。
「……ちがう」
止めたかった。そんなこと、言いたくなかった。
だが夢の中の俺は、止まらない。
「あなたの挨拶は、評価に値しません」
会議室の空気が、凍りつく。
その時、誰かが後ろから肩を掴んだ。
「……正樹」
振り返ると、勇者一行が立っていた。カイン、ミラ、ガレス。そして、リディア。
彼女だけが、まっすぐ俺を見ている。
「それ、今言うことじゃないでしょ」
いつもの声だった。少し怒っていて、でもどこか心配そうな声。
「……俺は、正しいことを……」
「正しいかどうかじゃない」
リディアは、首を振った。
「相手、今どんな顔してる?」
言われて、初めて気づく。
会議室にいる全員が、俯いていた。怯えた目で、俺を避けている。
「……あ」
胸が、ぎゅっと締め付けられる。
「正樹はさ」
リディアは、少しだけ悲しそうに笑った。
「人を直すことばっかりで、人を見てない」
その言葉が、胸に突き刺さる。
次の瞬間、会議室が崩れた。床が割れ、椅子が落ち、闇が広がる。
俺は、落ちていく。
「……正樹」
誰かが、名前を呼んだ。
今度は、はっきりと現実の声だった。
重いまぶたを開けると、ぼやけた視界の中に、人影が映る。
「……生きてるか?」
聞き覚えのある声。トマスだ。
俺は、かろうじて頷いた。
「無茶しすぎだ」
トマスは、濡れた外套を直しながら言った。
「雨が降ってきた。熱もある。今日は動くな」
額に、冷たい布が当てられる。気持ちいい。
(……助けられてる)
その事実を、今は素直に受け取れた。
意識が、また沈んでいく。
最後に聞こえたのは、トマスのぼやきだった。
「ほんと、世話の焼ける旅人だな」
その声に、少しだけ安心して、俺は再び眠りに落ちた。




