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37. 差し出されたパン

 朝なのか昼なのか、もうよく分からなかった。


 空は白く霞み、太陽の位置も曖昧だ。歩いているつもりなのに、景色が進んでいる実感がない。足を前に出すたび、地面がふわりと揺れるような感覚がして、俺は何度目か分からないため息を吐いた。


(……まずいな)


 自覚はあった。空腹と疲労が限界に近い。昨日からろくに食べていないし、眠りも浅かった。外套の内側は汗と冷えで不快だが、それを気にする余裕もない。


 ふらついた拍子に、膝がかくりと折れた。


「……っ」


 とっさに手をついて踏みとどまる。だが、次の一歩が出ない。視界の端が暗くなり、耳鳴りがする。


(このまま倒れたら……)


 そんな考えが浮かんだ瞬間、遠くから車輪の音が聞こえた。


 ごと、ごと。


 一定のリズムで近づいてくる音に、俺は必死で顔を上げた。街道を進んでくる一台の荷車。布で覆われた荷台に、木箱がいくつも積まれている。


「……たす、け……」


 声にならない声が、喉から漏れた。


 次の瞬間、俺は地面に崩れ落ちていた。


 意識が戻った時、最初に感じたのは匂いだった。


 焼きたてのパンの、香ばしい匂い。


「……?」


 ゆっくり目を開けると、視界に見慣れない天井が入ってきた。荷車の幌の内側だ。揺れは小さく、誰かが近くで動く気配がする。


「お、起きたか」


 低く落ち着いた声がした。


 体を起こそうとして、めまいに襲われる。思わず唸ると、誰かが肩に手を添えてくれた。


「無理するな。水だ」


 差し出された水袋を、両手で受け取る。冷たい水が喉を通り、乾き切っていた体に染み渡った。


「……ありがとう、ございます」


 かすれた声で言うと、男は小さく笑った。


「礼なんていい。倒れてたら、そりゃ放っとけんだろ」


 男は中年で、日に焼けた顔をしていた。旅慣れた行商人、といった風貌だ。


「俺はトマス。行商をやってる」


「……正樹、です」


「正樹か。ずいぶん無理した顔してるな」


 トマスはそう言って、懐から包み紙を取り出した。中には、丸いパンが一つ。


「腹、減ってるだろ」


 有無を言わさず、俺の手に押し付けてくる。


(……え)


 一瞬、思考が止まった。


 マナーだの、順序だの、礼だの。何も言われていない。食べ方の指摘も、遠慮の確認もない。ただ、当然のように差し出されたパン。


「……いいんですか」


 情けないほど弱い声が出た。


「いいも何も、食え。死なれたら寝覚め悪い」


 それだけだった。


 俺はパンを見つめる。温かい。手のひらに、はっきりと温度が伝わってくる。


(……条件、ないんだ)


 礼儀も、作法も、正しさも求められていない。


 気づけば、涙が滲んでいた。


「……っ」


 慌てて俯く。こんなところで泣くつもりはなかった。


「おいおい、どうした」


「いえ……その……」


 言葉が続かない。胸の奥に溜まっていたものが、堰を切ったように溢れてくる。


 俺は、黙ってパンにかぶりついた。


 音を立てたかどうかなんて、分からない。ただ、必死だった。


 噛むたびに、温かさが広がる。喉を通るたびに、体の奥が少しずつ動き出す。


「……うまい」


 ぽつりと零れた。


 トマスは、満足そうに頷いた。


「だろ。朝に焼いたばかりだ」


 それ以上、何も言わない。


 俺が食べ終わるまで、ただ待ってくれた。


 パンを食べ終えた頃には、胸の苦しさが少しだけ和らいでいた。代わりに、別の感情が込み上げてくる。


「……どうして、助けてくれたんですか」


 聞かずにはいられなかった。


 トマスは肩をすくめる。


「理由が要るのか?」


「……」


 言葉に詰まる。


「困ってるやつがいた。だから手を貸した。それだけだ」


 それは、あまりにも単純で、あまりにも強い言葉だった。


 俺が今まで振り回してきた“正しさ”は、そこにはなかった。


「……ありがとうございます」


 今度は、自然に言えた。


 トマスは、にやりと笑う。


「そういうのは腹が満ちてからでいい」


 その一言に、胸の奥がじんとした。


 教えられたわけでも、評価されたわけでもない。


 ただ、人として扱われた。


 それが、今の俺には何よりも救いだった。


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