36. 返ってこないツッコミ
焚き火を起こしたわけでもないのに、夜はしっかりと冷え込んでいた。
俺は小枝を踏まないように気をつけながら、静かな林の中に腰を下ろしていた。地面は硬く、背中に当たる木の感触も決して心地いいとは言えない。それでも、昨日よりは少しだけ眠れそうな気がしていた。
理由は分からない。ただ、胸の奥が妙に疲れていた。
(……今日は、考えすぎたな)
自嘲気味に思う。ブラック企業時代の記憶を掘り返し、自分で自分を殴るような真似をしたのだ。そりゃ疲れる。
外套の前をきゅっと掴み、体を丸める。その拍子に、無意識のうちに口が動いた。
「……今のは、さすがに言い過ぎだろ」
ぽつりと、独り言。
いつもなら、その直後に声が飛んでくる。
『いやいや、そこじゃないだろ!』
『なんでそこで説教始めるんだよ!』
少し高めで、歯切れのいい声。
──リディアだ。
もちろん、返事はない。
俺はそのことに、一拍遅れて気づいた。
「……あ」
言葉が宙に浮いたまま、静寂に溶けていく。風が葉を揺らす音だけが、やけに大きく聞こえた。
胸の奥が、きゅっと縮まる。
(そうだ。もう、いないんだ)
分かっていたはずなのに、改めて突きつけられると、思った以上に効いた。
勇者一行と行動していた頃、俺の言動に真っ先に反応していたのはリディアだった。ミラは怒り、ガレスは怒鳴り、カインは黙って眉をひそめる。
でもリディアだけは、違った。
『正しいかもしれないけどさ、それ今言う必要ある?』
そう言って、俺の言葉を一度止めてくれた。
『相手、今いっぱいいっぱいだぞ』
俺が見落としていたものを、当たり前のように拾い上げてくれた。
(……助けられてたんだな、俺)
今さらそんなことに気づく自分が、ひどく情けない。
小さく息を吐き、空を見上げる。星はよく見える。昨日と同じ夜空なのに、今日はやけに遠く感じた。
「……お辞儀の角度は三十度が適切で……」
試しに、声に出して言ってみる。
しん、とした空気。
何も起きない。
「……スープは音を立てずに……」
やっぱり、何も返ってこない。
胸の奥が、じわじわと冷えていく。
リディアがいた頃なら、ここで即座に突っ込まれていたはずだ。
『だからそれ今じゃないって言ってんだろ!!』
その一言で、俺は我に返っていた。言い過ぎたと気づけた。空気のズレを修正できた。
だが今は、そのブレーキがない。
(……俺、歯止め役を全部リディアに任せてたのか)
自分で自分を止める術を、持っていなかった。
そう思った瞬間、背筋に冷たいものが走る。
リディアがいなければ、俺はただの“空気を壊すやつ”だったのだ。
「……そりゃ、嫌われるよな」
苦笑が漏れる。笑っている場合じゃないのに、笑うしかなかった。
焚き火もない暗がりで、俺は一人、自分の言葉を反芻する。
正しさ。
マナー。
礼儀。
それらは、本来、人と人の間を滑らかにするためのものだったはずだ。なのに俺は、それを武器みたいに振り回していた。
『突っ込んでくれる人がいる前提でやるなよ』
もし今、リディアがここにいたら、きっとそう言うだろう。
そして俺は、きっと何も言い返せない。
喉の奥が、きゅっと詰まる。
「……リディア」
名前を呼ぶと、胸の奥がじんと痛んだ。
返事はない。それでも、呼ばずにはいられなかった。
(いなくなってから分かるなんて、遅すぎだろ……)
目を閉じると、リディアの姿が浮かぶ。腕を組んで呆れた顔をしているかと思えば、戦場では真剣な目で前を見据えていた。
あの背中に、俺はどれだけ甘えていたのか。
小さく息を吸い込み、ゆっくり吐く。
「……自分で、止まらないとな」
誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。
突っ込んでくれる人はいない。代わりに、自分で考え、自分で踏みとどまるしかない。
それができなければ、また同じことを繰り返すだけだ。
夜風が吹き抜け、木々がざわめく。その音が、まるで返事の代わりみたいに耳に届いた。
俺は外套を握り直し、目を閉じた。
孤独は、はっきりとそこにあった。
そして同時に、リディアという存在が、どれほど大きな“支え”だったのかを、嫌というほど思い知らされる夜だった。




