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34. 小さな声が胸に残る

 農村を離れてから、しばらくの間、俺は無言で歩き続けていた。


 老人の言葉が、頭の奥で何度も反響している。


――形だけの正しさは、人を遠ざける。


 分かっている。頭では、理解できているつもりだった。けれど、理解したからといって、すぐに変われるほど俺は器用じゃない。長年染みついた癖は、思考よりも先に体を動かしてしまう。


 それが、俺だ。


「……くそ」


 吐き捨てるように呟いて、歩く速度を少しだけ上げた。何かを振り払うみたいに。


 道はやがて、村と村を結ぶ細い街道へと変わった。両脇には低い草原が広がり、ところどころに小さな石が転がっている。遠くで鳥が鳴き、空は穏やかな青色をしていた。


 平和な景色だ。勇者一行と旅をしていた頃なら、「戦場との落差がすごいな」なんて軽口の一つも叩いていただろう。


 今は、そんな余裕もない。


 ぼんやりと前を見ながら歩いていると、不意に視界の端で何かが動いた。


「……ん?」


 足を止めて、そちらを見る。


 街道の脇、少し低くなった場所で、小さな人影がよろめいていた。次の瞬間、つまずいた拍子に前のめりになり、派手に転ぶ。


「うわっ!」


 反射的に、体が動いていた。


 考えるより先に駆け寄り、倒れた小さな体を抱き起こす。


「大丈夫か!?」


 抱えた相手は、まだ幼い子供だった。年は六つか七つくらいだろうか。膝を擦りむいたのか、涙を溜めた目で俺を見上げている。


「……いたい……」


 小さな声が、胸に直接響いた。


 俺は慌てて膝を確認し、持っていた布でそっと拭う。血は出ていないが、赤く腫れている。


「よし、大丈夫だ。骨も折れてない」


 自分でも驚くほど、声が柔らかかった。


「歩けるか?」


 子供はこくりと頷く。


 俺はゆっくりと手を差し出した。子供は一瞬だけ迷ってから、その手を握ってくる。小さくて、温かい。


 その感触に、胸の奥がじんわりと熱くなった。


 立ち上がった子供は、しばらく俺を見つめてから、遠慮がちに口を開いた。


「……ありがとう」


 たったそれだけの言葉だった。


 けれど、不思議なほど、胸に深く残った。


「……え?」


 思わず聞き返してしまう。


「助けてくれて……ありがとう」


 今度は、少しだけはっきりした声だった。目を伏せながら、ぎこちなく頭を下げる。


 その瞬間、胸の奥で何かが音を立てて崩れた。


(……言われた)


 教えたわけでもない。角度を指定したわけでもない。声量も、姿勢も、何一つ指摘していない。


 それなのに、この子は自然に礼を言った。


 俺は、しばらく言葉を失っていた。返事をしなきゃいけないのに、何も出てこない。


「……どういたしまして」


 ようやくそれだけ言うと、子供はほっとしたように笑った。


「お兄ちゃん、旅の人?」


「ああ、まあ……そんなところだ」


「へぇ……」


 興味津々といった様子で俺を見上げる。


「どこまで行くの?」


 その問いに、俺は一瞬だけ言葉に詰まった。


「……まだ、決めてない」


 正直な答えだった。


 子供は「ふーん」と頷き、それ以上深くは聞いてこなかった。その距離感が、妙に心地いい。


「気をつけてね! この道、石ころ多いから!」


 そう言って、子供は手を振りながら駆けていく。


「……ああ」


 俺も、自然と手を振り返していた。


 子供の背中が見えなくなってから、俺はしばらくその場に立ち尽くしていた。


 胸の奥が、じんわりと温かい。


「……ありがとう、か」


 呟いてみる。


 今まで、何度も「ありがとう」を言われてきたはずだ。王宮でも、騎士団でも、宴会の席でも。けれど、それらはいつも、俺が“教えた結果”だった。


 正しい作法を示したから。恥をかかせなかったから。評価されたから。


 だから、どこか形式的で、当たり前のものとして受け取っていた。


 でも、さっきの「ありがとう」は違った。


 ただ、転んだ子供を助けただけ。


 それだけなのに、胸がこんなにも揺れる。


(……これが、心からの感謝、か)


 老人の言葉が、再び頭をよぎる。


――礼儀より、心を示せ。


 俺は、ようやくその意味を、少しだけ理解した気がした。


 足元の石を避けながら、再び歩き出す。


 さっきよりも、空が明るく見えた。


 孤独は消えない。それでも、ほんの少しだけ、胸の中に温もりが残っている。


 それが、今の俺にとっては、何よりも大きな一歩だった。

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