33. 形だけの正しさ
村を出てから、どれくらい歩いただろうか。
朝日の村を背にして進む道は、昨日よりもずっと長く、そして重く感じられた。足の裏はじんじんと痛み、喉は乾き切っている。それでも立ち止まる勇気はなかった。立ち止まれば、あの冷たい視線と怒鳴り声が、また頭の中で蘇ってしまいそうだったからだ。
(……腹、減ったな)
そんな当たり前の感覚に気づいたのは、日がだいぶ高くなってからだった。昨日からまともに食べていない。勇者一行と別れてから、空腹すら後回しにしていたのだと、今さら思い知る。
ちょうどその頃、道の先に小さな農村が見えてきた。石垣に囲まれた畑、干された作物、ゆっくりと動く牛。規模は小さいが、生活の匂いがする。
「……今度こそ」
思わず口をついて出た。今度こそ、何も言わず、何も指摘せず、ただ静かにやり過ごそう。腹が満たされれば、それでいい。
そう心に決めて、村の入り口に足を踏み入れる。
畑仕事をしていた老人が、こちらに気づいて顔を上げた。
「おや、旅人さんか?」
「は、はい……」
その声は、昨日の村人たちと違って穏やかだった。思わず胸の奥が緩む。
「腹は減っておらんか。昼飯なら、少し分けてやれるが」
「え……?」
予想外の言葉に、思考が一瞬止まった。疑うより先に、喉がごくりと鳴る。
「い、いいんですか……?」
「旅は腹が減るものじゃ。遠慮はいらん」
老人はそう言って、俺を家の中へ招き入れた。
土間に敷かれた簡素な敷物。木の机。焼いたパンと、温かいスープの匂い。豪華ではないが、胸がじんわりと温まる光景だった。
「さあ、食べなさい」
「……いただきます」
そう言って、俺は席に着いた。久しぶりの食事を前に、思わず背筋を正してしまう。
(落ち着け……何も言うな……)
自分に言い聞かせながら、パンを手に取った。
その時だった。
老人が、大きめにちぎったパンをそのまま口に運んだのが、視界に入った。
(……大きい)
反射的に、頭の中で声が響く。
――パンは一口大にちぎる。大きすぎると、見た目が良くない。
長年叩き込まれてきた“正解”が、勝手に浮かび上がる。
(いや、違う……今は違う……)
必死に抑え込もうとするが、喉の奥がむずむずする。言ってはいけないと分かっているのに、口が勝手に動こうとする。
「……あの」
声が出てしまった。
老人が、ゆっくりこちらを見る。
「ん?」
「パ、パンはですね……もう少し小さくちぎってから食べた方が……」
言い終わった瞬間、頭の中が真っ白になった。
(言った……)
沈黙が落ちる。老人は驚いたように瞬きをし、それから眉をひそめた。
「……ほう」
低い声だった。怒鳴り声ではない。それが逆に怖い。
「それは、わしの食べ方が悪いと言いたいのか?」
「い、いえ! 悪いというわけではなくてですね、その……見た目が整うというか……」
言い訳を重ねるほど、言葉が空回りしていくのが分かる。
老人は、パンを机に置き、深く息を吐いた。
「旅人さん」
「は、はい……」
「わしはな、長いことこの村で畑をやっておる。朝から晩まで土を触り、腹が減ったら食う。それだけじゃ」
静かな語り口だった。
「食べ方が綺麗かどうかより、誰と、どんな気持ちで食うかの方が、よほど大事だと思っとる」
胸を、殴られたような気がした。
「……礼儀より、心を示せ」
その一言が、深く突き刺さる。
言葉が出なかった。喉が詰まり、視線を上げられない。
(まただ……また、俺は……)
空腹を満たすために招かれただけなのに、俺はここでも“正しさ”を振りかざしてしまった。相手がどう思うかも考えず、ただ自分の基準を押し付けて。
「……すみません」
絞り出すように、そう言った。
「……悪気は、なかったんです。ただ……」
その先が続かなかった。“ただ正しいと思った”──それを口にした瞬間、また同じことを繰り返す気がした。
老人はしばらく俺を見つめ、それから小さく笑った。
「悪気がないのは分かる。じゃがな、それで人が傷つくこともある」
穏やかな声が、逆に重い。
「覚えておくといい。形だけの正しさは、人を遠ざける」
胸の奥が、ずきりと痛んだ。
俺は俯いたまま、何も言えずにスープを飲んだ。音を立てないように、いつも通りの癖で。
けれど、その行為が、今はひどく空虚に感じられた。
食事を終えると、俺は深く頭を下げて家を出た。老人はそれ以上、何も言わなかった。
村の外れまで歩きながら、胸の中で同じ言葉が何度も反芻される。
――形だけの正しさは、人を遠ざける。
「……俺は、何をしてきたんだろうな」
誰にともなく呟く。答えは返ってこない。
それでも、この村での出来事は、昨日までとは少し違っていた。怒鳴られたわけでも、追い出されたわけでもない。それなのに、胸の痛みは今までで一番深かった。
それが、何を意味するのか。
その答えは、まだ見えなかった。




