32. 朝日の村で踏み外す一歩
夜が明ける頃、俺はようやく足を止めた。どれだけ歩いたのか分からない。夜通し歩き続けたせいで足は棒みたいだし、肩にかけた荷物はやけに重く感じる。けれど、立ち止まった瞬間に押し寄せてくる静けさの方がもっと重かった。
「……どこだ、ここ」
薄明るい空の下、視界に小さな村が現れた。木造の家がぽつぽつと並び、畑からは朝露の匂いが漂ってくる。煙突から立ち上る白い煙が、ここが人の営みのある場所なんだと教えてくれる。
胸の奥が少しだけ緩んだ。
(よかった……)
ようやく人のいる場所に辿り着いた安堵感が、身体の芯からじんわりと広がっていく。誰かと言葉を交わせる。それだけで救われる気がした。
ゆっくり村へ足を踏み入れると、家から人々が出てきて朝の仕事を始めていた。農具を担いだ男。水を汲みに行く女。パンを抱えて走る子供たち。俺が来たことに気づいた数人がちらりと視線を向けてきた。
その視線に、反射的に背筋を伸ばしてしまう。
(ここでは……ちゃんとした態度を見せないと)
勇者パーティにいた頃の癖が抜けない。評価されなきゃいけない、役に立たなきゃいけない──そんな焦りが背中を押す。
「すみません、旅の者です。どこか宿屋は──」
そう声をかけようとした瞬間、近くの女の人が眉をひそめた。
「ちょっとあんた、家に入る前は靴を払うもんだよ」
その言葉に、俺の胸の奥に“マナー警察魂”がむくむく顔を出してしまった。
「おお、靴を払う前にですね、本来は敷居の手前で一度軽くかかとを——」
「は?」
女の人の眉がさらに吊り上がる。周りにいた男も子供も、動きを止めてこっちを見ている。あ、やばい。空気が変な方向へ行っている。
「い、いや、つまり……家屋に入る前の所作は大事でして——」
「そんなの聞いてないし!朝から訳わかんない説教垂れないでくれる!?」
「せ、説教ではなく、配慮の——」
「同じだよ!」
ばっさり斬られた。周りの村人まで「なんだあいつ」「面倒くさそう……」とひそひそ声を漏らし始める。
ああ……やってしまった。
慌てて頭を下げる。
「す、すみません! 悪気はなく、その……」
謝りながらも、胸の奥にぐさっと刺さるものがあった。“悪気はなかった”──勇者パーティの時も、何度そう思っただろう。いや、何度口に出してしまっただろう。
(また俺は……同じことを……)
気づけば目の前の光景が勇者一行の怒った顔に変わって見えて、喉の奥が締め付けられた。
なんとか誤魔化しながら村の中心にある宿屋に向かった。木の扉に手をかけると、軋む音と一緒に中から温かいパンの匂いが漂ってくる。
(ここなら……普通に泊まれるはず)
そう思いながら扉を開けると、宿屋の女将らしき人が振り向いた。ふくよかで朗らかそうな見た目だ。
「いらっしゃい。旅人さんかい?」
「はい、一泊お願いしたいのですが——」
そう言いながら靴を脱ごうとした俺の動きを見て、女将が目を丸くした。
「あんた何してんの?」
「えっ? い、いえ……家に入る前は靴を脱ぐのが礼儀でして……」
「ここは土足だよ!」
「えっ」
ぴしゃりと叱られた。思わず中腰のまま固まる。
「土足でいいんだよ! むしろ裸足で入られたら困るよ!?」
「そ、そうでしたか……!」
(やばい、文化が違う……!)
混乱していると、女将がじとっと俺を見つめてきた。
「アンタ、さっき外で説教してた旅人だね?」
「っ……」
村小さっ!! と思ったが、今はそれどころじゃない。
「い、いえその……配慮のつもりで……」
「はぁ……めんどくさい旅人だよ。泊まりたきゃ泊めるけど、ウチで説教はやめておくれよ?」
「も、もちろんです……!」
胸を撫で下ろした……のも束の間だった。
女将が部屋の準備をする間、俺は食堂で水を飲んで待つことにした。ちょうど近所の農夫らしき男たちが朝食を食べに来ていた。
席に座り、何気なく視線を向けたその瞬間だった。
「ずずっ」
豪快にスープをすする音が響く。
(……っ!!)
体が反射的に反応した。
「す、すみません!」
「んあ?」
「スープは、音を立てずに飲むのがマナーです!」
言ってしまった。言った瞬間に後悔が頭の天辺から足元まで流れ落ちた。
「は?」
農夫が怪訝な顔をする。周りの客も一斉にこっちを向く。
「いや……その、音を立てるのは下品で……」
「うるせぇ!!」
怒号。店全体が固まる。
「朝っぱらから何文句つけてんだ! ここじゃこう飲むんだよ!」
「そうだそうだ! 旅人の癖に偉そうにしてんじゃねぇ!」
「なんだい、あんた外でも揉めてたって聞いたよ?」
あっ! 情報回るの早っ!!
立ち上がった農夫が俺の肩をどんと小突いた。
「帰れ!」
「ちょ、ちょっと待っ——」
「帰れって言ってんだ!!」
有無を言わさぬ迫力に、俺は情けなく後ずさりした。
その時、宿屋の女将がバタバタと走ってきた。
「アンタまた説教したのかい!!」
「違、違います! あの、少しの注意を……!」
「同じだよ!! ウチの客に変な口出しするなら帰っておくれ!」
「……う、うぅ……」
気づけば、村中の視線が俺に突き刺さっていた。冷たくて、拒絶するような目。昨日の仲間たちと同じ、あの痛い視線だった。
胸がきゅっと縮まり、呼吸がうまくできなくなる。
(また……俺は……同じことを……)
俯いたまま、俺はふらふらと宿屋を出た。
村の出口まで歩く足取りは重く、視界も滲んでいた。
「……はは……」
乾いた笑いが漏れる。
「結局、どこへ行っても嫌われるのか俺は……」
誰も返事をしない無人の道。朝日だけが、やけに眩しく俺を照らしていた。




