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31. 孤独な放浪の始まり

 焚き火の明かりが、背中の方で小さく揺れていた。


 振り返れば、まだギリギリみんなの姿が見えたかもしれない。ガレスはきっと腕を組んでそっぽを向いていて、ミラは眉間に皺を寄せて何かぶつぶつ言っていて、カインは無言で火を見つめている。リディアは──俺の方を、見ない。


 そう想像してしまった瞬間、振り返る勇気が完全になくなった。


「……行くか」


 自分に言い聞かせるみたいに、かすれた声が漏れる。俺はぐっと顎を引いて、焚き火とは逆の闇の中へ一歩、足を踏み出した。


 ざく、と草を踏む音がやけに大きく響く。二歩、三歩と進むごとに、背後の明かりはじわじわと小さくなっていく。あれだけ賑やかだった夜営地の声が、もう届かない。


 ようやく十数歩ほど進んだところで、俺はふと立ち止まった。


(最後に、もう一回謝った方がよかったのか……?)


 頭の中で、さっきの光景が鮮明によみがえる。


『正樹。……もう、お前とは一緒に行けない』


 カインの声は、決して怒鳴り声じゃなかった。静かで、でも決意だけは揺らいでいなかった。その静けさが、逆にきつかった。


『そうよ!儀式の邪魔ばっかりして! こっちがどれだけ危ない目にあったか分かってんの!?』


 ミラは感情のままにぶつけてきた。あの時の彼女の頬は火の明かりで真っ赤で、怒りと、少しの恐怖が混ざっていた気がする。


『戦場でスープの音とかどうでもいいんだよ! いい加減にしろ!』


 ガレスの怒鳴り声は、耳の奥にまだ残っている。


『正樹……』


 リディアだけが、最後まで言葉を飲み込んだ。何か言いかけて、結局「ごめん」の一言すら口にしないまま、唇を噛んで俯いた。


 あの沈黙が、一番こたえた。


「……俺、間違ってないはずなんだけどな」


 ぽつりとこぼれた独り言は、夜気に混ざって消える。誰も拾ってくれない。


 寒さとは別の震えが背筋を走り、俺は両腕を自分の体に回して抱きすくめた。マントの裾が風にあおられてはためく。吐いた息が白く曇り、足元の草に落ちていく。


 もう戻れない。あの焚き火の輪に、俺の場所はない。


 分かっているのに、足はしばらく動かなかった。


「立ち止まってどうするんだよ、俺……」


 自分で自分を急かす。歩かなければ、本当にここで凍りついてしまいそうだった。俺はぎこちなく足を前に出し、闇の中を進み始める。


 右足。左足。ひたすらそれだけを繰り返す。


 頭の中では、さっきの言い争いが再生され続けていた。


『敵にも敬意を払うべきだ! 勝ったからといって踏みにじるような真似は──』

『今それどころじゃないんだよ! こっちは生き残るので精一杯なんだ!』


 俺とガレスの声がぶつかり合う。


『詠唱の前のお辞儀はですね、角度を三十度に揃えることで──』

『魔力の流れが乱れるって何回言わせるのよ! 黙っててって言ったでしょ!?』


 呆れたミラの顔が浮かぶ。


『正樹、お前の言ってることが全部間違ってるとは思わない。だが──』

『だったら──!』

『だが、今のお前は、誰のためにやっている?』


 カインの問いに、俺は何も答えられなかった。あの時、胸の奥で何かがきしんだ感触を、今でもはっきり覚えている。


 気づけば、視界が滲んでいた。夜風が目に染みたのか、それとも──。


「違う……俺は、みんなのためにやってた。恥をかかないように、失敗しないように……」


 口に出してみる。けれど、言葉にしてみた途端、その“ために”という部分がやけに軽く感じられた。本当にそうだったか、と自分で問い直したくなる。


(俺は、俺の“正しさ”を守りたかっただけなんじゃないか……)


 そんな考えが頭の中で形になりかけて、慌てて首を振る。


「いやいや、違う。違うだろ俺。……俺は、正しいことを教えてただけだ」


 必死に言い聞かせたが、声は震えていた。自分の言葉に自分が納得できていないのが分かる。胸の中に、じわじわと黒い染みが広がっていくみたいだった。


 その時、不意に足元の石に躓いた。


「うわっ──」


 体が前に傾き、慌てて一歩踏み出す。バランスを崩しながらも、なんとか転ばずに済んだ。心臓がどくどくと早鐘を打つ。情けないため息が漏れた。


「はぁ……何やってんだ俺は」


 周りを見回しても、当然誰もいない。リディアなら「前見て歩け!」と即座にツッコミを入れてくれただろう。ガレスなら大笑いし、ミラは冷たい目で見下ろしてくる。カインは「怪我はないか」と心配してくれる。


 そんな“もしも”が、全部もう起こらない未来の話になってしまったのだと気づいた瞬間、喉の奥がぎゅっと詰まった。


 少し先に、ちょうど腰かけられそうな倒木が見えた。俺はよろよろと歩み寄り、どさりと腰を落とす。木の表面は冷たく、ざらりとしていて、背中に当たる感触が妙に現実的だった。


 夜空を見上げる。星が多い。こんなに星があったのか、と馬鹿みたいなことを思う。今まで夜営のたびに空は何度も見上げてきたはずなのに、ちゃんと見ていなかったのかもしれない。


「……静かだな」


 本当に、驚くほど静かだ。焚き火の爆ぜる音も、誰かの愚痴も、リディアのツッコミもない。風が木の枝を揺らす音と、自分の呼吸音だけが耳に残る。


 静寂が、じわじわと心に入り込んでくる。最初は落ち着くような気もしたが、すぐにそれが“孤独”と同じ形をしていることに気づかされた。


「……俺、必要とされてなかったのかな」


 気づくと、そんな言葉が勝手にこぼれていた。口に出した瞬間、自分で驚く。俺が一番言いたくなかったことだった。


 マナー講師として、異世界に来てからもずっと「俺の知識は役に立つ」「俺がいないと困る」と自分に言い聞かせていた。それは自信というより、不安から目を逸らすための呪文だったのかもしれない。


 勇者一行から追放された今、その呪文はもう効かない。


「ちくしょう……」


 思わず顔を両手で覆う。熱いものが目尻に溜まり、にじむ視界の中で星がぼやける。泣きたくない。ここで泣いたら、本当に全部終わりな気がする。


 ぐっと歯を食いしばって、深く息を吸う。肺が冷たい空気で満たされ、少しだけ意識がはっきりしてくる。


「……歩こう」


 ぽつりと呟いて、俺はゆっくり立ち上がった。今ここで座り込んだままでいたら、きっと後悔する。どれだけみっともなくても、前に進んでいれば、いつか何か変わるかもしれない。


 変わらないかもしれない。それでも、立ち止まるよりはマシだ。


 マントの裾を払い、肩にかかった荷物の紐を握り直す。一つ一つの動作を意識してこなしていくと、不思議と心も少しだけ落ち着いた。


 夜空に浮かぶ星をもう一度見上げる。さっきよりも、ほんの少しだけ明るく見えた。


「俺は……一人、か」


 自分で自分にそう言い聞かせる。寂しさと、悔しさと、情けなさと、色んな感情がぐちゃぐちゃに混ざって胸の奥で渦巻いている。それでも、その事実だけははっきりしていた。


 誰も俺を必要としていない世界で、俺はこれからどうやって生きていけばいいのか。


 答えは、まだどこにもない。


 分かっているのはただ一つ──勇者一行の焚き火とは逆方向に、俺はもう歩き出してしまったということ。


 足元を照らす光はない。夜の闇は濃く、先の道筋さえ見えない。それでも、一歩踏み出せば、足の裏に土の感触がちゃんと戻ってくる。


 右足。左足。体が覚えているリズムで、俺はまた歩き始めた。


 孤独な放浪は、こうして静かに幕を開けたのだった。



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