3. ノックのマナーで大混乱
訓練場での稽古を終えたその日の午後、俺は城の奥へ案内された。磨かれた石の回廊。高い天井に声が薄く跳ね返る。足音が重なり、鼓動まで大きく聞こえる。手のひらにじわりと汗。吸って、吐く。胸の奥の小さな火を、落ち着かせる。
目的地は王の側近が集う会議の前室。扉の向こうから、低い話し声と紙の擦れる音が漏れてくる。ここでしくじれば、午前中に積み上げた“揃い”が崩れる。胃のあたりが固くなる。だが、やるしかない。
列の先頭に近衛隊長、後ろに若い兵士たち。横ではリディアが腕を組み、じろりと俺を見上げる。
「顔、引きつってるぞ、講師」
「緊張はしてる。でも、整えれば大丈夫」
「口では強気だな」
「最初の五秒だけは」
軽口で少しほぐれる。俺は扉の手前で半歩止まり、列を見回した。
「入室の前に、合図を揃えます。――扉のノックです」
「また回数とか言い出すのか?」
リディアが半眼になる。若い兵が首を傾げる。
「回数?」
「ここは大事。二回でも三回でもいいでしょと思うから揉める。回数で気持ちを読み合うのは混乱の元です。軽く三回+一呼吸+返事待ちに統一します。理由は“誰も置いていかない”ため」
「二回じゃダメなのか」
「ダメじゃない。けど“二回でも三回でも”と言ってしまうと、全員が別ルールになる。だから城として“三回に揃える”。意味は『来訪』。返事が来なければ一度だけ三回を繰り返す」
「また細けぇ」
「細かくして“短く”する。最初の五秒で、迷いを減らす」
若い兵の何人かが納得顔で頷く。近衛隊長は眉をわずかに動かし、無言で見守る。俺は代表の指名に移る。
「代表は――」
「私がやる」
リディアが一歩前に出た。俺は指でテンポを描く。
「強さは指の第二関節で軽く。等間隔で三回。その後、半拍の間」
「分かった。……コン、コン、こんっ」
最後だけ強く響いた。回廊がぴりっと固くなる。奥の兵が思わず剣に手をかけ、近衛隊長の肩がぴくりと動く。俺は両手を開いて落ち着けの合図。
「力は半分。音で威圧すると、中が身構える」
「悪い。つい力む」
リディアが舌を出し、周囲に小さな笑い。俺の肩から力が一枚はがれる。
「じゃ、もう一度。――どうぞ」
リディアは今度、指の第二関節でコン、コン、コン。澄んだ小さな音が三つ。俺は人差し指で空の上に小さな丸を描き、待ての合図を置く。半呼吸。返事を待つ。
そのとき、列の後ろで真似する音が重なった。「コンコンコン!」「コンコンコン!」――若い兵たちが面白がって、一斉に三拍子を叩き始めたのだ。回廊が太鼓の波みたいな三連で満ちる。
「待て待て待て!」
俺は振り返って手を振る。
「代表以外は叩かない! 合図が混線する!」
近衛隊長も咳払いし、掌を上げる。「静粛に」。兵たちが一斉に口をつぐむ。ほっとした次の瞬間――
扉の内側ががたりと鳴った。椅子が引かれる音。つづいて、ばっと扉が開き、近侍が血相を変えて飛び出す。
「火事か、急報か!」
「違います!」
俺は両手を上げ、一歩踏み出す。胸の真ん中が冷たい。ここで誤解を放置したら終わる。短く、分かりやすく、落ち着いた声で。
「今の三拍子は練習中の混線です。本番は代表一名が三回だけ。以後、代表以外は叩きません。緊急の合図は別系統にします」
近侍が目を瞬く。近衛隊長が俺に一度、頷きを送った。
「了解。以後は代表のみだ」
「こちらの説明不足でした。失礼しました」
俺が頭を下げると、横でリディアが口角を上げる。
「ノックで城が動くとはな。心臓止まるかと思ったぞ」
「俺も。止まらないように“短く”しないと」
「そうだな」
空気が落ち着く。近侍が一つ咳払い。「では改めて」
「代表、お願いします」
リディアが前へ。俺は半歩下がり、列へ目線を走らせる。
「背筋を伸ばす。顎を引く。扉から半歩下がって待機。視界を塞がない」
「手は?」
「下腹の前で軽く組むか、体側。剣に触れない」
「了解」
整った。俺は指で三拍子を切る。「どうぞ」。――コン、コン、コン。間を置いて、内側から落ち着いた声。「入れ」。
リディアは体を半身にして取っ手を回し、背中を扉に当てない角度で開ける。動きが静か。俺たちは順番に中へ。白髭の重臣が書類を手にこちらへ視線をやる。数秒の沈黙。鼓動が一拍、強く打つ。
「異界の“講師”。また来たか」
「入室の合図を三回の軽いノックに統一しました。理由は“誰も置いていかない”ためです」
「ほう」
重臣の目が少しだけ笑う。昨日の宴でのやり取りが頭をよぎる。胸の緊張が薄まり、声が出る。
「三つだけ短く共有します。一、叩く前に一歩止まる。二、同じ強さで三回。三、返事のあと半拍待って半身で入る。――以上です」
兵たちが真似をする。鎧の触れ合う音がさっきより静かだ。
「混線は困る」
重臣の低い一言。
「対策として、代表を事前指定。緊急は鐘の四度早打ちに分離。ノックは“来訪”だけ」
近侍が手を上げる。「鐘は四度、早打ち。混じらぬ」。
「なら問題ありません。本件、俺の説明不足でした。お詫びします」
「よい。学べ」
短い許し。胸の糸が一つほどける。
会議開始前に俺たちは前室へ戻る。扉が静かに閉じる音。俺は壁にもたれず、一歩下がって長く息を吐いた。
「お見事」
リディアが肩を小突く。
「途中の大合唱は肝が冷えたがな」
「俺も。最初に“代表以外は叩かない”を言うべきだった」
「覚えたならいい。兵も笑って“いた”」
「笑われて“ない”のか」
「そこは言い方次第だな」
二人で小さく笑う。笑いながらも、胸の奥にはまだ棘が残っている。強く言いすぎたかという不安。だが、命と安全の前では、強さは必要だ。
若い兵が手を上げる。
「教官、質問。左利きは左で叩いていい?」
「いい。回数と間が同じなら向きだけ半身を強める。手首は第二関節で」
「返事が遅い時は?」
「二呼吸。来なければ三回を一度だけ繰り返す。それでも無ければ近侍に取り次ぎ」
「了解」
別の兵が続ける。
「中から『少し待て』って言われたら?」
「『外でお待ちします』と短く復唱。扉から半歩下がって、通路を塞がない位置で待つ」
「なるほど」
近衛隊長がまとめる。「以後、入室は三回。代表以外は叩かない」――「はっ!」。返事が揃い、回廊に澄んだ声が伸びる。その響きに、胸の中の小さな火が少し大きくなる。
そこへ、先ほど飛び出してきた近侍が歩み寄り、丁寧に頭を下げた。
「先の早とちり、失礼した。突然の音に弱い者も多い。軽い音と間は助かる」
「こちらこそ。……“耳が先に驚く”人がいる。だから短く・同じ強さ・間で、安心を作りたい」
近侍が小さく笑い、去っていく。胸が熱くなる。俺の“細かさ”が、押しつけではなく誰かの助けになった感触。
「さて、次はどこを――」
リディアが肘でつつく。
「直す、は違うんだったな。揃える、だ」
「うん。まず列の間隔。半歩詰めるだけで扉前が楽になる。次に声。用件は短く、はっきり」
「覚えやすいな。『止まる』『三回』『半身』。私でもいける」
素直な言葉が胸にしみる。
「ありがとう」
「礼は短く」
「ありがとう」
午後の光が回廊に斜めの帯を作る。俺は扉から半歩下がって向きを変え、一歩、また一歩と歩き出す。足取りはさっきより軽い。失敗の冷たさと成功の温かさを同時に抱えたまま、次の扉へ。
――“最初の五秒”が揃えば、次も揃う。嫌われても言うべき時は言う。だが、言い方の場所も守る。短く、分かりやすく。ここで、まだやれる。
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