21. 勇者、疑念を抱く
夕暮れの城壁は赤く染まり、土の匂いに鉄の味が混じっていた。討伐から戻った俺たちは、小さな会議室に集められた。木の机、粗末な椅子、壁にかけられた薄い地図。窓の外でカラスが鳴く。
俺は背筋を伸ばして椅子に座り、手のひらを膝に重ねる。姿勢を整えるのは、心を整える儀式だ。——そう思いながらも、胸の奥はじわりと冷えていた。今日の訓練場での衝突が、まだ尾を引いている。
先に口を開いたのはミラだった。「本題、手短に。私は儀式の準備に戻りたいの」
「準備は一日二十四時間ある」ガレスが欠伸を噛み殺す。「寝ることも儀式に入れとけ」
「入れてるわよ。睡眠儀式」
軽口に笑いが起きる……はずだったが、今日は空気が湿っている。リディアは腕を組んで壁にもたれ、視線は床に落ちたまま。勇者カインは沈黙したまま地図を見つめ、指先で国境線をなぞっていた。
「——正樹」カインがようやく視線を上げ、俺の名を呼ぶ。その声は平板で、感情の気配が薄い。
「はい」
「今日の訓練、どう見た」
喉が渇く。「……形を整える重要性は確かです。ただ、俺の指導が過ぎた。反省しています」
カインは頷きもせず、問いを重ねる。「お前は、俺たちにとって必要か」
机の木目が急に鮮やかになる。視界が狭まって、指の汗が冷たく感じられた。「必要です。式典、外交、戦場の連携——俺の役割は、皆の力を最大化すること」
「最大化、ね」ミラが鼻で笑う。「爆発の最大化は得意そう」
「ミラ」リディアが制した。だが彼女の声も弱い。
「俺は——」言葉を探す。「俺は、正しさで皆を守れると信じてきた。型は揺れない柱だ。乱戦の中で、柱があれば倒れない」
「柱は、持つ相手の腕力次第だ」ガレスが低く言う。「重すぎりゃ、逆に押し潰される」
心臓に刺さる比喩だった。俺は拳を握り、胸の内のざわめきを押さえる。
「カイン」リディアが顔を上げる。「こいつ、悪いやつじゃない。やりすぎるけど、全部、皆のためだと思ってやってる」
カインはリディアを見、それから俺を見た。その瞳は澄んでいて、残酷なほどに正直だ。「俺も、最初はそう思ってた」
沈黙。壁の向こうで、夕風が窓を叩く。
「戦は近い」カインは言う。「儀礼も式典も、この先は減る。必要なのは、一瞬で判断し、一瞬で動ける仲間だ。お前の“正しさ”は、その一瞬を遅らせることがある」
「一瞬が命取り、ですか」
「そうだ」
喉の奥が焼ける。「なら、俺はどうすればいい」
「黙ってろ」ミラが即答する。
「言い方!」リディアが肘でつつく。
「でも、正直、それが一番助かる」ガレスが肩をすくめる。「戦いの最中はな」
俺は視線を落とした。黙る。講師が最も苦手とする処方箋だ。言葉で整えることを仕事にしてきた。言葉を奪われたら、俺は空っぽになる。
「……黙るだけで、本当に役に立てるのか」思わず漏れる。
カインは首を横に振る。「黙るだけでは足りない。空気を読むこと。俺の合図だけ動くこと。仲間の目を見て、次に必要なことを推すこと——推し付けるんじゃない。押し支えるんだ」
押し支える。聞き慣れない言葉が胸で転がる。俺はゆっくり息を吐いた。
「分かりました」口が勝手にそう言う。心はまだ追いついていない。押し付けではなく、押し支える。どんな角度だ、それは。どこに手を置けば、相手は前に進める。
「試用期間だ」カインが短く告げた。「次の遠征まで、お前は戦場で口を出さない。俺の『いまだ』だけ動け。それで改善しなければ、考える」
「考える、とは」
カインは答えない。答えなくても分かる。胸の奥で細い氷が軋んだ。
「異議は?」
ミラは「ない」と即答し、ガレスは頷いた。リディアだけが迷って、俺の顔を見てから小さく「……ない」と言った。その瞳の揺れが、逆に痛い。
「異議はありません」俺は背筋を伸ばした。形式は、俺の最後の盾だ。盾の裏で、手が汗で濡れる。
「よし」カインは席を立つ。「解散。各自、準備を」
椅子が擦れる音。ミラはそそくさと出ていき、ガレスは腰を伸ばしてあくびをする。「腹減った。肉」
「炭水化物も取れ」リディアが呟く。二人は軽口を交わしながら出ていった。部屋に残ったのは、俺とカインだけになった。
「……カイン」
「なんだ」
「俺は、お前に認められたくて、ここにいるのかもしれない」自分でも驚くほど、素直な言葉が出た。「王の前でも、貴族の前でもなく。お前に」
カインは少しだけ目を見開いた。次に見せた笑みは、とても短い。「なら、俺の言葉を守れ」
「はい」
「リディアを見ろ」
意外な名前に、瞬きをする。「リディア、を?」
「彼女は空気を読む。読むだけじゃない。空気の流れを先に作る。お前が真似すべきは角度じゃない。彼女の“間”だ」
間。俺は息を止める。沈黙が数拍、部屋に置かれる。心臓の音が数えるリズムになる。
「……やってみるよ」自分の声がかすれていた。
カインは頷き、扉に向かった。「期待してる」
扉が閉まる。会議室に残ったのは、夕暮れの匂いと、言葉の余韻だけ。俺は椅子に座り直し、深く息を吸った。押し付けではなく押し支える。角度ではなく間。俺の知らない辞書が、目の前にぽんと置かれた気分だった。
窓の外、石畳を歩く足音。リディアだろうか。俺は立ち上がり、扉へ向かう前に、机に手を置いて小さく一礼した。誰にも見えない三十度。——今度は、角度ではなく、タイミングを合わせるための礼だ。




