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ブラック企業マナー講師、異世界追放されたら魔族に爆ウケしました  作者: ならん
第2章:押し付けマナーの果てに ~正しさと孤独の分岐点~
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20. 誰のためのマナーだ!

 朝靄が訓練場の地面を薄く覆っていた。乾いた砂の匂いに、金属の冷たい光。規律を整えるには最適な空気だ、と俺は思う。兵士たちが二列に並び、剣を腰に下げて待っている。二十代前半の若い顔が多い。緊張と眠気と、どこか誇りの混ざった目。


「今日は基本の所作だ」

 俺は前に立ち、胸の前で手を軽く合わせた。「挨拶、敬礼、報告。三つの角度が揃えば、部隊は強くなる」


 右端に、小柄な新人兵がいた。頬にそばかす、握った拳が小刻みに震えている。名札には“ノエル”。彼が目に入った瞬間、俺の講師魂がむずむずと騒いだ。


「まず敬礼」

 俺は腕を上げ、肘を水平に。「指はそろえて、耳の横。角度は四十五度」


 兵たちが見よう見まねで真似る。肘が落ち、指が開き、視線が泳ぐ。俺は列の間を歩き、一人ずつ正していく。肩に軽く触れ、顎の位置を上げ、背を伸ばす。


「違う、指は揃える。はい、ここ。——ノエル、そこは笑うとこじゃない」


「す、すみません」ノエルの声は小さい。喉が乾いたような、掠れた音。


「小さい声は相手を不安にさせる。もう一度」


「す、すみません!」


「怒鳴らない。落ち着いて、相手の目を見る」


 ノエルの瞳が泳ぐ。胸が上下し、肩がすくむ。俺は一歩近づき、彼の手をそっと取って指を揃えた。「ほら、こう。できる」


 その瞬間、訓練場の入口からリディアの声。「おーい、どんな様子だ」


 彼女は腕を組み、少し呆れ顔でこちらを見ている。背後にはガレスとミラ、そしてカイン。みんなの視線が一斉にこちらに集まり、空気が少し張った。


「今、基礎を整えてます」俺は胸を張る。「戦場で生きるのは、まず型から」


 リディアの眉がぴくりと動いた。「型ね……」


 俺は説明を続けた。「報告の所作。姿勢はまっすぐ、視線は相手の眉間。『報告します』から入る。語尾は明瞭に。ノエル、やってみよう」


 ノエルは唇を噛み、頷いた。「……ほ、報告します。昨夜の見回りにおいて——」


「噛むな。落ち着いて、息を——」


「す、すみません」


「それを言うな。『すみません』は禁止だ。代わりに『失礼しました』。はい、もう一回」


 ノエルの声がさらに小さくなる。耳の奥で、彼の鼓動まで聞こえそうだ。俺は前屈みになり、彼の顎を指で少し上げた。「胸を開け。声が出る」


「やめろ」


 背中に冷たい声。リディアだ。「正樹、手を出すな。ノエル、深呼吸」


 ノエルは言われた通りに息を吸う。肩が震え、目に涙が溜まっていた。俺は一歩引いて、言葉を選ぶ。


「……泣くほど難しい話じゃない。できる。人は型を得ると強くなる。俺はそれを何度も見てきた」


「正樹」リディアの声が低くなる。「お前は誰のためにやってるんだ」


「皆のためだ」即答した。迷いはない。「彼らのため、隊のため、王国のため。そして——」


 言いかけて、ノエルの肩がびくりと跳ねた。ぽたり、と涙が落ちる。彼は拳で目をこすりながら、「す、すいません、俺、上手くできなくて……」と、声にならない声を絞り出した。


 兵の列がざわつく。どよめきと、気まずさの波。ガレスが舌打ちし、ミラは眉をひそめ、カインは黙って目を閉じる。


「謝らなくていい」リディアがノエルの前にしゃがむ。「できない時は言え。ゆっくりでいい」


 俺はそのやりとりを見つめながら、胸の奥がざわつくのを感じていた。ゆっくり? 戦場は待ってくれない。間違いは命取りだ。今ここで整えなければ——。


「ゆっくりでは、身につきません」俺は踏み込む。「繰り返し、即時の矯正、角度の明確化。これが最短です。ノエル、立って」


 リディアが俺を睨む。「正樹、下がれ」


「嫌だ」自分でも驚くほど、声が硬く出た。「今、彼が崩れている。ここで整えれば、二度と崩れない」


「崩れてるのは心だ」リディアの声が上がる。「お前は外から殻を固めてるだけだ。中身、見てるのか」


「中身は、型で育つ」


「違う!」


 訓練場に、彼女の怒鳴り声が響いた。兵たちが息を呑む。ノエルは肩を震わせ、さらに泣きそうな顔になる。


「お前の『正しさ』は誰のためだ」リディアは一歩踏み込んで、俺の胸を指で突いた。「彼のためじゃない。お前自身のためだ。自分が『役に立ってる』って実感するために、押し付けてる」


 心臓がぎゅっと縮む。否定したい言葉が喉まで上がって、そこで詰まった。俺は反射的に背筋を伸ばす。「そんなつもりは——」


「じゃあ、今は黙って見ろ」リディアはノエルに向き直る。「ノエル、怖いか」


「……はい」


「よし、怖いって言えたな」彼女は笑う。「じゃあ、怖いままやろう。敬礼は指が揃ってなくてもいい。私を見る。うん、その目。——で、声はいつもの大きさで『はい』って言え」


「……はい」ノエルの声は震えているが、芯があった。


「できたな」リディアはうなずく。「それでいい。明日は少し指を揃えよう。明後日は肘の角度を考える。順番にやる」


 列の空気がほどけるのが分かった。兵たちの肩が落ち、誰かが安堵の息を漏らす。ガレスが腕を組み、「それでいい」と低く言い、ミラは小さく頷いた。カインは目を開け、俺とリディアを交互に見た。


 俺の足が、砂に縫い付けられたみたいに重い。胸の奥が熱く、苦い。俺は間違っているのか。いや、型は必要だ。俺はそれを武器にここまで来た。でも——彼は泣いていた。


「……俺は、正しいことをしていると思っていた」かすれた声で言う。「正しさで、みんなを守れると」


「正しさは武器だよ」リディアが静かに言う。「でも、味方に向けるな。刃は外へ。中には鞘が要る」


 その比喩が胸に刺さる。俺は視線を落とし、拳を握った。爪が手のひらに食い込む。


「ノエル」俺は彼に向き直る。「……さっきは、急かしてすまなかった」


 彼は驚いたように目を見開き、ぎこちなく頭を下げた。「い、いえ……俺、頑張ります」


「頑張らなくていい。今日より少しだけ、でいい」リディアが肩をぽんと叩く。「できたら一緒に飯行こう。できなくても行こう」


 兵たちから笑いが漏れた。ノエルの口元にも、ようやく小さな笑みが灯る。


 俺は一歩下がり、列の端に立った。胸の中で、渦のような感情が回る。悔しさ、情けなさ、そして、わずかな安堵。俺は深く息をして、頭の中の“角度”を一つずつ片付けていく。


「訓練、再開する」カインが静かに告げる。「今日の指揮はリディア。正樹は補助に回れ」


「……了解しました」


 言葉は苦かったが、反論はしない。俺は列の外から、ノエルの姿勢ではなく、顔色と呼吸を見た。足元の砂が小さく鳴る。太陽が靄を破り、訓練場を照らす。目を細めたリディアが、俺にだけ分かる小さな視線を寄越した。——頼むぞ、空気を壊すなよ。


 うなずき返す。俺は胸の前で手を組まず、ただ腕を下げて立った。風が通り抜ける。角度ではなく、距離を測る感覚を、初めて真面目に探っていた。


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