19. 陰口のマナー、ありますか?
その日の夜は、どこか静かだった。戦闘も終わり、街道沿いの宿に泊まる。薪がぱちぱちと燃える音だけが響き、空気が妙に重い。笑い声も、酒の香りも、どこか遠慮がちに漂っている。
俺はテーブルの上で紙ナプキンをきれいに折りたたみながら、みんなの会話を聞いていた。ガレスは酔っ払って笑っているが、リディアとミラ、そして勇者カインの声はどこか硬い。
「今日は大変だったな」カインが短く言う。
「そうね、爆発の後片付けも全部こっちだったし」ミラがにらむ。
俺は思わず背筋を伸ばした。「あの件は……反省しています」
リディアは小さくため息をついた。「まあ、生きてりゃいいよ。爆発も、ミラが慣れてるしな」
「慣れてない!」ミラが即座に突っ込む。火花のような怒りがまだ残っている。
そのやり取りに、ガレスが豪快に笑った。「はっはっは! まぁまぁ、こいつは悪気ねぇんだ。ただ、うるせぇだけだ」
「悪気がないから余計タチ悪いのよ」ミラがぽつりと漏らす。その声は小さいが、はっきり聞こえた。
俺の手が止まった。周りの笑いが少しずつ消える。ガレスが苦笑して酒を飲み、リディアがちらりと俺を見た。
「……聞こえてますよ」俺はできるだけ穏やかに言った。「陰口は、相手のいないところでするものです」
「そういう問題!?」ミラが机を叩く。「マナーの話じゃないのよ! あんたのせいで、私たち何回死にかけたと思ってるの!」
リディアがあわてて止める。「まぁまぁ! 落ち着けって!」
「いや、落ち着いてます」ミラは腕を組み、「でも、あんたがいると、何かと空気が壊れるの。場を整えるとか言いながら、逆に乱してる」
胸の奥に小さな棘が刺さるようだった。俺は自分の手を見つめ、指を握る。「……そうですか。僕は、みんなが気持ちよく過ごせるようにと思って」
「それが押し付けだって言ってんの」リディアの声が静かに落ちた。怒っているというより、疲れている声だ。
「正樹、お前さ、全部“正しさ”で人を測ってないか?」
「正しさを大事にすることは、悪いことですか?」
「悪くはない。でもな、世界は全部がマナーで動いてねぇ」
ガレスが、酒瓶を置いてぼそりとつぶやいた。「戦場じゃ、命と腹が満たされりゃそれで十分だ。角度も声のトーンもいらねぇよ」
それでも俺は言葉を探した。心がざわつく。「でも、誰も見ていない時こそ、礼を守ることに意味があるんです。そうすれば、自分を見失わずに——」
「自分しか見てねぇんだよ、お前は!」ミラの叫びが、炎の音をかき消した。
リディアが立ち上がり、「もうやめろ!」と声を上げる。カインは黙ったまま、テーブルを見つめている。その横顔が、いつもより冷たく見えた。
「……すみません」俺は頭を下げた。角度は自然と四十五度。癖のように出る動作。だが、その瞬間、空気が一層冷えた気がした。
「そういうとこだよ」リディアがぼそっと言った。「形だけ謝るな。気持ちで謝れ」
何も言い返せなかった。形だけ、なんてことはない。俺は本気で謝っているつもりだ。けれど、伝わらない。胸の奥が重く沈む。
沈黙が続く中、ガレスがぽつりと口を開いた。「なぁ、正樹。お前の言葉は、正しい。でもな……俺らには“正しい”より“まっすぐ”が必要なんだ」
「まっすぐ……?」
「そうだ。誰かが傷ついたら、その肩に手を置く。それで十分なんだよ。説教よりな」
その言葉が妙に心に残った。俺の手は膝の上で止まり、拳を握りしめた。触れること、支えること——それが俺にはできていないのかもしれない。
リディアが小さく笑う。「ま、こいつに触られたら余計緊張しそうだけどな」
「……ひどい」
「冗談だよ」リディアは肩をすくめた。「でもな、本気で心配してる。お前、最近ずっと自分のことでいっぱいいっぱいだろ」
「そんなことは——」言いかけて、言葉が詰まる。思い当たる節が多すぎた。
その様子を見ていたカインが、ようやく口を開いた。「正樹。お前が“整えよう”としてる気持ちは分かる。だが、それはお前の中の恐怖から来てる」
「恐怖?」
「自分が無価値になるのが怖いんだろう。だから“役に立つ自分”でいようとして、周りを整える。違うか?」
息が止まった。図星すぎて、何も言えなかった。言葉を探しても、喉が動かない。
ミラが小さく吐息を漏らす。「……少しは、分かってるじゃない」
リディアも頷いた。「ああ、カインの言う通りだ。お前、頑張りすぎなんだよ」
「頑張るのは悪いことじゃ……」
「悪くない。でも、方向がズレてる」
その言葉に、心がわずかに軋む。俺の中の“正しさ”が、少しだけ揺らぐ音がした。
しばらく沈黙が続いた後、カインがゆっくりと立ち上がる。「今日はもう休もう。明日も早い」
その声には、どこか突き放すような響きがあった。だが、同時にどこかに優しさも混じっていた。
部屋を出る時、リディアが小声で俺に言った。「なあ正樹……お前、悪いやつじゃない。でも、もう少し、人を見てくれ」
扉が閉まる音がして、静寂が残る。火がぱち、と弾け、灰が舞う。俺はその火を見つめたまま、心の中で自問した。
「人を見る……か。どうすれば、見られるんだろうな」
テーブルの上には、綺麗に畳まれたナプキン。俺の癖のようなそれが、やけに寂しく見えた。火がゆらゆらと揺れ、まるで俺の“正しさ”を照らして笑っているように見えた。




