14. 嫌われ始めた気配、言い方の場所
朝の執務室は、昨日より静かだった。窓を開けると、ひんやりした風が紙の端をめくる。俺は端を押さえ、深く呼吸した。吸って、吐く。胸の奥の小さな火は消えていない。けれど、どこかでじりじりと焦げる匂いがする。嫌な予感は、大体当たる。
近侍が小さく咳払いをした。
「講師、今日の議題は小会議の段取りと、夜の親睦会の席次です」
「了解しました。短く、三つに分けます。『入室の順』『合図は三つ』『親睦会の席は“話す距離”で決める』」
白髭の重臣、近衛隊長、商務の役人、書記の少女、そしてリディアが入ってくる。皆の視線が俺に集まった時、胸の内側が少し縮んだ。昨日から、いくつかの視線が固いのを感じている。
「異界の講師」
重臣の声は低い。
「最近、“それ!!マナー違反ですよ!!!”が増えておる。命と安全の場面以外も、強く聞こえるのだ」
喉の奥が乾いた。認めたくない気持ちと、分かっている気持ちがぶつかる。俺は短くうなずいた。
「承知しています。今日は“言い方の場所”も決めます。危険=その場で強く、その他=離れて短く」
リディアが腕を組んでこちらを見る。
「最初からそうしろ」
「今日からそうする」
「遅い」
「遅いけど、やる」
軽口の針で、胸の緊張が少し和らぐ。
「では共有。合図は三つに統一。手の平=止まれ、握り拳=準備、親指=どうぞ。口は短く添えるだけ。親睦会の席は“誰と話すか”を優先。通路は一本、上座は風の当たらない側」
商務の役人が鼻で笑う。
「細かいな」
「細かくない。最初の五秒で転ばないためです」
午前の小会議は順調に進んだ。扉の前で三人が詰まれば、手の平で止め、拳で代表を示し、親指で通す。覗き込む商人がいれば、手の平を肩と目線の間にそっと差し込む。言葉は最後に短く。「代表一人」「覗かない」。音が減るほど、場の息が揃った。胸の中の小さな火が、少し明るくなる。
問題は夜だった。親睦会。昼の会議よりたちが悪い。正確さより“空気”が勝つ場だ。
大広間に灯りがともる。長机はL字。貴族、商人、騎士、村の世話役が混ざって座る。俺は壁際で、椅子の角度を「どうぞ」の角度に揃え、通路を一本に整える。書記の少女は札を配り、近侍は贈り物の台を壁際に置く。ここまでは良い。
やがて、問題の人が現れた。商務局の中でも口の回る高官――ヘルダだ。彼女は笑っているが、笑っていない目をしている。
「異界の講師、今夜は楽しみましょう。細かい話は抜きで」
「最初の五秒だけ、整えます」
「“だけ”が長いのよね、あなた」
皮肉の棘が、丁寧な布を着ている感じ。胸の内側に、冷たい針が落ちた。だが、表に出さない。短く呼吸。
乾杯。王の代読を重臣が務め、杯が上がる。俺は胸の前で器をそっと傾ける。隣の列で、若い騎士がジョッキを振って泡を飛ばし、向かいの夫人の袖を濡らした。夫人の顔が曇る。ここは、言うべきだ。
「それ!!マナー違反ですよ!!!」
騎士がびくりと固まる。空気が一瞬止まる。俺はすぐ、強さを下げる。
「ぶつけない高さで。泡が飛ぶと、相手の服が濡れます。胸の前で『どうぞ』の角度で」
騎士は赤くなって頭を下げ、夫人に布を渡した。夫人は笑って受け取る。場の緊張が、薄くほどけた――その時だ。ヘルダが杯を置き、涼しい声で言った。
「講師。それ、今ここで大声で言う必要がある?」
骨の中が冷える。俺は正面を見て、短く返す。
「危険と汚れは、その場で止めます」
「でも、恥を広げるのはどうかしら。本人だけに、離れて短く言えばいいのでは?」
ざわりと空気が動く。視線が交差し、数人の口元がわずかに上がる。刺さっている。胸がざわつく。反論したい。けれど、正面からぶつかれば、場は壊れる。
リディアがテーブルの向こうで、ほんの少しだけ首を振った。「今は退け」の合図。俺は一歩、下がる。
「ご指摘、受け止めます。以後、危険以外は離れて短く」
「そうして」
ヘルダは笑い、杯を軽く持ち上げた。周りの笑いもついてくる。胸の奥に、じくじくした熱。悔しさと、恥と、少しの安堵がぐちゃぐちゃに混ざる。
以降、俺は場所を移して伝えることに徹した。骨を中央に置こうとする農夫には、通路の端で「端に寄せると安全です」と短く。席を立つ時に背後から人の杯を倒しそうな商人には、ドア付近で「左手で器を押さえて」と囁く。場は荒れない。だが、ときどき視線が刺さる。「また言ってる」。分かる。刺さる。
終盤、贈り物の披露。台は壁際。代表は一人。向きは相手側。俺たちが何度も磨いた手順だ。ところが、ヘルダが台の中央に自分の贈り物を高く積み、周りに見せようとした。通路が狭まる。人の流れが止まり、子どもが足を取られてよろめく。
「それ!!マナー違反ですよ!!!」
強く出た。子どもが転ぶ。迷いはない。俺は手の平で周囲を止め、拳で「準備」、親指で「下に」。
「高さは胸より下。中央は塞がない。子ども優先」
ヘルダが眉を上げ、笑いを消した。
「……了解」
彼女は贈り物を下ろし、通路が開く。子どもの母親が礼を言い、場の息が戻る。俺は胸の冷たさと熱さを同時に抱えたまま、深呼吸した。
親睦会が終わると、回廊の空気は濃かった。誰かが小声で言う。「マナー警察」。背中に突き刺さる針の先。足が一瞬止まる。けれど、歩く。歩幅を揃えて、速歩で。
執務室に戻ると、重臣が先にいた。ひと呼吸、間を置いてから口を開く。
「今夜の“強さ”は、二度。汚れと転倒。どちらも必要だった。……だが、恥は広がった。ヘルダの言も、一理ある」
胸がきゅっと縮む。分かっている。分かっているから、痛い。
「はい。場所を選ぶのが遅かった。次からは、危険=その場、その他=離れて短くを、徹底します」
重臣はうなずいた。
「王は“最初の五秒を預ける”と言った。預けられた者は、顔も預かっておる。顔を守れ」
「……はい」
部屋を出ると、廊下にリディアが寄りかかっていた。
「大丈夫か」
「大丈夫じゃないけど、大丈夫にする」
「強気は三回。数えた」
「一つは余計だった」
「分かればいい」
「……ヘルダに刺された」
「刺されたなら、抜き方を覚えろ。次は“耳打ちの場所”を先に決めろ。柱の影、通路の端、扉の外。そこに“短い言葉”を置け」
彼女の言葉が、胸の真ん中にずしんと落ちる。俺はゆっくりうなずいた。
「やる」
「やれ」
その時、近侍が走ってきた。手には封蝋の光る書状。
「講師、苦情の書状が来た。差出は……商務局より」
喉が固まる。紙の赤が目に刺さる。リディアが俺の肩を軽く叩いた。
「顔、固くするな。三文で返せ。『受領』『改善』『次の場の提案』。長く弁解するな」
指が少し震える。けれど、息を吸えば、まだ書ける。最初の五秒を、守るために。顔を守るために。
俺は廊下の机に紙を置き、筆を取った。離れて短く。言い方の場所を、今度は俺が守る番だ。
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