12. 雨天運用、鈴の三拍と濡れ対策
朝、回廊の窓に雨粒が細かく当たっていた。空は低く、石畳は薄く光っている。門へ向かう途中で裾が冷たくなり、俺は一度立ち止まって布で水をはたいた。吸って、吐く。胸の奥の鼓動を整える。
今日は雨。旗は見えづらい。だから音の合図を足す。腰の袋から小さな鈴を三つ出し、紐を結び直す。鈴一=進め、鈴二=止まれ、鈴三=ゆっくり。頭の中で三拍を何度も転がす。失敗は、濡れた床の一歩で起きる。最初の五秒を、乾かすところから作る。
門一の庇の下には、近衛隊長とリディア、白髭の重臣、近侍、書記の少女、門番の兵たち。商務の役人も来ている。みな外套のフードを深くかぶり、肩に水の線を引いていた。
「講師、今日は音か」
重臣の低い声。俺はうなずき、短く指を三本立てる。
「置くのは三つだけ。『鈴一=進め』『鈴二=止まれ』『鈴三=ゆっくり』。旗は補助。もう一つ、濡れ対策。入口に布、外套は手前で預かり、靴底を拭く。転ぶ前に乾かす」
「布は何枚だ」
「三枚を交互に交換。濡れたらすぐ引く」
「細かい」
商務の役人が肩をすくめる。俺は首を振った。
「細かくない。安全です」
書記の少女が油紙に「外套こちら」「靴拭き」と書いて紐で結ぶ。近侍は外套掛けを二本、通路の端に立てる。動く準備の音が、雨に混ざる。
角笛が短く鳴った。「来客、一行!」
胸が跳ねる。俺は庇から半歩出て、鈴三を手首で転がす。チリ、チリ、チリ。ゆっくり。雨の幕の向こうで、外套の列が速度を落とし、丸印の手前で止まった。続けて鈴二。チリン、チリン。止まれ。手の平を水平に。音は細いが、通る。
「ようこそ。ここで一度お止まりください」
近侍が三文で置く。俺は入口の布を指差して短く添える。
「外套はここで外し、外で水を切ってから預けます。靴は布で拭いて一歩目は乾いた所へ」
先頭の男が内側で外套をばさりと振った。水が円を描いて飛ぶ。
「それ!!マナー違反ですよ!!!」
声が鋭すぎたと自覚しつつ、すぐに柔らかく補う。
「内側で振ると飛沫が広がります。外で下に向けて静かに。布で受けます。中の人が滑ります」
「わ、分かった」
男は慌てて一歩下がり、外で水を落とした。布が黒く濡れる。リディアが横目でうなずく。
「“滑る”が効く。安全は通じる」
「ありがとう」
「礼は短く」
「ありがとう」
列の二人目が濡れた外套を腕に抱えたまま進もうとする。
「それ!!マナー違反ですよ!!!」
今度は落ち着いて、タオルと札を差し出す。
「濡れは手前で止めます。外套はこちら。札を付けて預かります」
「盗まれたりしないか」
「控えを書記が持ちます。戻す時に照らします」
書記の少女が「二番」と書いた札を結び、控えに同じ番号を書く。男はまだ渋いが、納得の頷き。胸の冷えが少し溶ける。
鈴一を軽く鳴らし、白旗を一本。進め。丸印の手前で、三人目が傘を畳まずに庇の中へ踏み込もうとした。
「それ!!マナー違反ですよ!!!」
傘の先から雫がぽたぽたと落ちている。俺は傘の先端を下へ向けさせ、短く言う。
「先に外で水を切って、ここで畳んで預けます。先端は下。目の高さに向けない」
「すまん」
動きが整い、庇の下が静かになる。近衛隊長が顎を上げる。
「鈴が届かん距離もある」
「遠距離は角笛にします。高い一音=進め、低い一音=止まれ、三連打=ゆっくり。鈴は近距離」
「分かりやすい」
門番が高音を短く鳴らす。ピッ。後続が歩を進める。低音二回。ポン、ポン。停止。雨越しに影が止まる。届いている。胸の奥が少し温かい。
中庭へ向かう通路。濡れた靴の客が石床に上がろうとした。
「それ!!マナー違反ですよ!!!」
俺は布を踏んで押さえ、タオルを差し出す。
「靴底を拭いて、一歩目は丸印の端へ。濡れの少ない所から」
「はい」
客の目が落ち着き、足音が軽くなる。すぐ後ろで、別の客が袖で髪を拭きはじめた。
「それ!!マナー違反ですよ!!!」
タオルを渡し、順番まで置く。
「顔→手→髪の順。袖で拭くと袖が滴って、あとが続きません」
「助かる」
前室の前。近侍が三回ノック、返事、半身。床の布が端でめくれた。危ない。
「止め!」
鈴二。俺はしゃがみ込み、つま先で布の角を押さえながら手で滑らせる。リディアが反対側を押さえ、近衛隊長が一歩下がらせる。重臣が小さくうなずく。
「無駄がない」
「最初の五秒だけ、です」
会談は短く進み、書記の帳面は濡れない。商務の役人が珍しく素直に言う。
「正直、雨の日の方が整っている」
「道具が増えた分、短く置けます」
「言い切るな。嫌われるぞ」
「命と安全は強く言います」
「はいはい」
退室。外套を返す場所で、客のひとりが受け取ってすぐ、濡れた外へ飛び出そうとした。入口の布を無視して足を出す。
「それ!!マナー違反ですよ!!!」
俺は鈴二を鳴らし、指で布を示す。
「最後の一歩も乾かして出ます。ここで靴底をもう一度。外は滑ります」
「気づかなかった。ありがとう」
「礼は短く」
「ありがとう」
外へ出る背中が安定している。胸の中の棘が一本、抜けた気がした。
ひと区切りついた頃、門の外がどよめいた。大きな荷車が予告なく近づいてくる。庇の下は人でいっぱい。通路が詰まる。呼吸が浅くなる。吸って、吐く。
「全員、右側通行。真ん中を開ける。鈴三=ゆっくりでやり過ごす」
チリ、チリ、チリ。ゆっくり。俺は手の平を開いて道を描く。荷車が庇の外で止まり、御者が帽子を取る。
「濡れ物はここまで。荷は濡れたまま中へ入れない」
「急ぎなんだが」
「布を掛けて水を落としてから。高さは胸より下。通路を塞がない」
御者が渋面でうなずき、兵が布をかける。水が布の端から落ちる音。通れる。胸の冷えが薄くなった。
片付けに入る。布を交互に交換し、濡れた札を拭き、鈴の結びを締め直す。指先がふやけて、感覚が少し鈍い。けれど頭は冴えている。雨の中でも、最初の五秒は作れた。
「講師」
リディアが肘でつつく。
「今日は強気が五回。数えた」
「多いな」
「でも、全部“滑る前”“ぶつかる前”だった。……合格だ」
言葉が胸の芯に落ちる。目の奥が熱い。俺はそれを隠すみたいに、わざと大きく息を吐いた。
「ありがとう」
「礼は短く」
「ありがとう」
重臣が庇の外を見やり、静かに言う。
「濡れを外で止める。中は乾かす。――形だが、心が楽だ」
「そう思ってもらえたなら、やった甲斐があります」
商務の役人が咳払いをひとつ。
「押しつけ、ではなかった」
「ありがとうございます」
「礼は短く」
「ありがとう」
雨脚が少し弱くなった。鈴を握り、三拍を小さく鳴らす。チリ、チリ、チリ。短く、分かりやすく。乾きから作る礼。胸の中の小さな火は、雨でも消えなかった。
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