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ブラック企業マナー講師、異世界追放されたら魔族に爆ウケしました  作者: ならん
第1章 異世界に持ち込まれたマナー警察
10/30

10. 動線と合図、当日の本番

 来客当日の朝は、空気がやけに薄く感じた。門へ向かう回廊を足早に歩きながら、俺は手の中の小さな巻紙を握り直す。掌が汗ばむ。深呼吸。吸って、吐く。胸の奥の小さな鼓動が少しだけ整う。


 門一の前には、白い粉で引いた矢印と丸印。壁には簡単な図。「旗一=進め」「旗二=止まれ」「旗三=ゆっくり」。言葉は三文で揃えた。『主賓→供→荷』『止まる位置は丸』『案内は手で』。最初の五秒に置く道具はそろった。


 近衛隊長が腕を組んで立っていた。横にはリディア。後ろに近侍、書記の少女、門番の兵たち。商務の役人もなぜかいる。全員が俺を見る。喉が乾く。


「本番だ、講師」


「はい。短く共有します。

 一つ、『合図は旗で三種』。声で怒鳴らない。

 二つ、『動線は一本』。横道に誘導しない。

 三つ、『止まる位置は丸印』。誰も丸を踏み越えない」


 俺は旗を三本、胸の前で見せた。一本上げて左右にゆっくり、二本を水平で停止、三本は胸の高さで小さく揺らす。書記の少女が目を輝かせる。


「分かりやすい……」


 近衛隊長が低く頷いた。


「合図役は誰だ」


「門では俺。中庭はリディア。前室は近侍。代表は一人ずつ。横から手を出さない」


 商務の役人が口を尖らせる。


「いちいち旗など無くとも口で言えばよかろう」


「口は届く前に消えます。目で分かる合図で、誰も置いていかない」


「相変わらず言い切るな。嫌われるぞ」


「最初の五秒だけは強く言います」


「はいはい」


 軽いやり取りで、こわばりが少しほどける。俺は門扉の位置を手で確かめ、丸印の角度を少しだけ修正した。体が勝手に細かい位置を合わせる。これは、俺の仕事だ。


 角笛が一声。見張りが叫ぶ。「使者、遠見!」


 胸が跳ねる。深呼吸。旗を握り直し、俺は一歩前へ。砂埃の向こうに青い外套。二騎、馬車一台。俺は丸印の少し手前で旗を一本上げ、ゆっくり左右へ振った。


「進め」


 馬が速度を落とし、丸の手前で止まる。成功。胸の奥に小さな熱。だが、次の瞬間――横道から、楽士の一団がうっかり列に割り込もうとした。笛を抱えた少年が、丸印を跨ごうと足を上げる。


「それ!!マナー違反ですよ!!!」


 思わず声が出た。少年がびくりと止まる。周りの視線が俺に集まる。しまった、強すぎた。補う。


「丸は“止まる位置”。ここを越えると、相手が迷います。楽士は壁際の細い線の内側へ。――手で案内します」


 俺は手の平を開いて、少年の進む道を示す。少年は素直に下がり、笛を抱え直した。ほっと息が出る。リディアが横から小声で突く。


「強い。けど、今のは必要」


「ありがとう」


「礼は短く」


「ありがとう」


 使者の二騎が丸印に揃った。近侍が前へ出て、三文を短く置く。


「ようこそ。ここで一度お止まりください。順番は主賓、供、荷の順です」


 使者は静かに頷き、馬車が丸印二つ目で止まる。俺は旗二本を水平で掲げ、停止を示す。中庭からはリディアの旗三本が小さく揺れて見えた。準備完了の合図。胸の中で歯車が噛み合う音がする。


 そこで、事件。城内から商人風の男が慌てて飛び出してきて、使者へまっすぐ近づいた。両手に包み。横から入り込む形だ。


「それ!!マナー違反ですよ!!!」


 俺は前に出て、男の進路に手の平を掲げて遮る。男が眉をしかめた。


「急ぎの伝言だ。今渡さねば――」


「代表以外は入らない。合図の後に。今は目線で『後ほど』を」


「後ほど、だと?」


「はい。三文で要件を用紙に。手は下から渡す。今は退いてください」


 男は舌打ちしたが、近衛隊長の視線を受けて渋々下がった。周りの兵が小さく頷く。胸の冷たさが少し抜ける。


「講師、前室へ回せ」


 近衛隊長の一声。俺は旗一本を高く掲げて、使者に進行を示す。ゆっくりと門をくぐり、中庭へ。リディアが受け取り、旗二本で停止。丸印の前で馬を降りる動きまで、揃っている。


 前室の前では、近侍が待っていた。扉の横には、昨日決めた三つの言葉が小さく書かれている。『三回ノック』『半身で開ける』『代表が先』。近侍が使者へ短く告げ、三回のノック。返事。扉が半身で開く。俺は一歩下がって、呼吸を整えた。


 白髭の重臣が中で待っている。机の位置は扉から見て右奥が上座。椅子の角度は、あらかじめ\*\*「どうぞ」の角度に。俺は指で小さく示し、使者を上座\*\*へ誘導する。商務の役人がまたしても王の右隣に腰を下ろしかけ、俺は即座に言った。


「それ!!マナー違反ですよ!!!」


 視線が刺さる。役人が固まる。重臣の目が細い。引くか、押すか。押す。


「そこは主賓の席です。城側は扉側へお願いします」


 役人は咳払いして席を移った。重臣がうなずき、王の代理として短く三文を置く。


「ようこそ。今日の要件は二つ。まず道の整備、次いで交易税」


 俺は壁際で旗を下げ、空気の流れを見る。椅子が軋む音が少ない。視線が交差せず、丸印の上で足が止まる。――うまく回っている。


 だが、油断は禁物。窓の外、後続の荷車が丸印を跨いで止まった。中庭の端で怒号。リディアの旗が二本、水平。止まれの合図が届いていないのか。


 俺は前室を近侍に任せ、走りそうになる足を速歩に切り替え、中庭へ戻った。荷車の御者が焦っている。周りに野次馬。通路が塞がる。胸がざわつく。吸って、吐く。


「御者さん。丸は“止まる位置”です。跨がない」


「す、すまねえ! 見えなかった!」


「大丈夫。旗は目線の高さで振ります。次は見えます」


 俺はリディアに合図し、旗を高めに上げてもらう。御者がこくこく頷き、荷車が少し後退した。通路が開く。野次馬が散る。胸の奥の冷えが引いていく。


「講師」


 リディアが小声で笑う。


「顔、今は優しい」


「意図的に優しくしています」


「器用だな」


「不器用です」


「どっちだよ」


 二言三言の応酬で、体の強張りが抜ける。俺は再び前室へ戻った。室内では、最初の議題が終わったところだ。重臣が立ち上がり、贈り物の交換へ移る。


「代表は近侍。向きは相手側。開ける合図は相手から」


 俺が短く置くと、近侍がこくりとうなずいて箱を差し出す。使者は「後ほど拝見します」と言い、近侍が「かしこまりました」で下がる。音が少ない。動きが短い。心が落ち着く。


 会談は続いた。俺は旗を壁に立てかけ、代わりに手の合図で小さな修正を繰り返す。書記の少女の筆が止まらない。商務の役人は、さっきの失敗が効いたのか、静かだ。


 やがて、重臣が締めの三文を置く。


「本日の要点は二つ。道の補修は明日開始。交易税は次回の会議で再確認」


 使者が立ち上がり、短く頭を下げる。俺は旗一本を軽く上げ、退室の合図。扉の前で三回ノック。返事。半身。外へ。動線は一本。誰も丸を踏まない。


 扉が静かに閉まった瞬間、室内に大きな息が落ちた。近侍が肩で笑い、書記の少女が「手が痛い」と指を振る。商務の役人は気まずそうに咳払い。


「……押しつけでは、なかったな」


「ありがとうございます」


「礼は短く」


「ありがとう」


 リディアが俺の肘をつつく。


「強気は三回。数えた」


「好きだな、数えるの」


「嫌いじゃない」


 笑いが広がる。けれど、胸の奥に小さな棘が残った。門で楽士に強く言いすぎた。顔は優しくしたが、言葉は刃だったかもしれない。嫌われるのは、怖い。


 それでも――最初の五秒で転ばなかった。丸印は踏まれず、合図は通じ、前室は静かだった。給仕の少女が片付けに入ってきて、小声で言う。


「今日、楽でした。道が一本だから」


 喉の奥が熱くなる。俺は深くうなずいた。


「次は、客が二組同時に来た時の練習です。旗の色を変える。赤は止まれ、白は進め」


「また増やすのか」


「増やすけど、最初の五秒は変えない。『丸で止まり、旗を見る』。それだけ」


 近衛隊長が短く笑い、重臣が椅子を押して立ち上がる。


「短いのに、整う。続けよ。ただし、顔は柔らかくな」


「努力します」


 俺は旗を束ね、丸印の粉を手でなぞった。指先に白がつく。深呼吸。吸って、吐く。胸の中の小さな火は、確かに明るい。


 短く、分かりやすく。目で分かる合図。動線は一本。命と安全は強く言う。


 その四つをもう一度胸に刻み、俺は次の準備へ歩き出した。


ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます!


もし少しでも

「クスッと笑えた」

「この先どうなるのか気になる」


と感じていただけたなら――

ブックマークや★評価を押していただけると、作者が本気で跳ねて喜びます。


応援していただける一つ一つの反応が、次の話を書く力になります。

どうぞこれからも気軽に見守っていただければ幸いです。


引き続きよろしくお願いいたします!

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