1. 転生と王国召喚、初めてのマナー発揮
俺の名前は佐藤正樹。三十五歳。元・マナー講師だ。
毎朝、腹から声を出す練習。昼は名刺交換の反復。夜はクレーム対応のシミュレーション。休日は資料作り。スマホは常に鳴る。いつの間にか、空をゆっくり眺める時間もなくなっていた。
その夜も、誰もいないオフィスで最後の資料を直していた。目がしみる。肩が重い。立ち上がろうとした瞬間、視界が白くはじけた。
次に目を開けたとき、俺は石の床の上で仰向けになっていた。
冷たい。空気が違う。金属の匂い。人の気配。
上体を起こすと、高い天井。太い柱。壁には大きな布の飾り。左右に鎧の男たちが並んでいる。胸がざわついた。ここは、どこだ。
「異世界に召喚されし者よ」
正面から落ち着いた声が響いた。玉座。王冠。赤い衣。俺は反射で背筋を伸ばす。
「まずはわしが名乗ろう。王ガイウスである。――そなたの名は?」
喉が渇く。けれど体が勝手に、研修で覚えた呼吸を始めた。
「佐藤正樹です。日本という国から……来ました。たぶん」
自分で言っておいて、たぶん、に苦笑した。足元がふわふわする。怖い。けれど少しだけ、胸が熱い。物語の中に落ちたみたいで。
「異界の客人、歓迎する。席を用意せよ」
王の一声で周囲が動いた。長いテーブル。肉と果実。焼き立てのパン。ワインの壺。銀の器。音楽まで鳴り始める。
俺はまだ頭が追いつかない。だが、目に入るものははっきりしていた。
左手でグラスをぎゅっと握る男。パンを大口でかじる兵士。肘をついたまま笑う貴族。ジョッキをぶつけて泡を飛ばす若者たち。
胸の奥で、あのスイッチが入った。
「それ!!マナー違反ですよ!!!」
声が出た瞬間、場の音がすっと消えた。十以上の視線が俺に集まる。しまった、やりすぎたか。心臓が跳ねる。けれど、言葉はもう出ている。
「グラスは右手で。左手はそっと添えるだけです。パンは小さくちぎってから口へ運ぶのが食べやすいです。肘をテーブルから離すと、みんなが取りやすくなります」
近くの兵士の前に立ち、動きを一つずつ示す。右手でステムを持つ。左手は軽く器の下。パンは親指と人差し指で一口大に。声は落ち着いたトーン。これなら相手に届く。
兵士がぽかんと口を開ける。周りから小さな笑いが起きた。
「ふむ」
玉座から低い笑い声。
「面白い。続けよ」
王の言葉で肩の力が抜けた。許可をもらえた安堵。胸が少し温かい。
「ありがとうございます。では、乾杯の前に少しだけ。最初のひと声で空気が決まります」
「乾杯なら我が合図するものだ」
白髭の重臣が眉をひそめた。声は冷たい。
「陛下に代わるつもりはありません。言い回しを整えるだけです。その方が皆さんが揃って気持ちよく飲めます」
「言い回しごときに意味があると?」
「あります。最初の言葉は旗です。揃えば歩きやすくなります」
「旗、とな」
重臣が鼻を鳴らす。少し意地悪い。けれど、正面から返す。
「旗がないと列は崩れます」
そこへ、王が片手を上げた。
「異界の“講師”よ。そなた、なぜ呼ばれたと思う」
急に胸が痛くなる。俺はきょろきょろしながら、正面に視線を戻した。
「分かりません。でも、できることがあるなら、やります」
「率直でよい」
王は重臣たちを見回し、ゆっくり言葉を置いた。
「近頃、我が国は宴や会議で失敗が続いた。贈り物の出し方一つ、座る順番一つで相手を怒らせた。戦う前に、席で負けた。ゆえに、礼を知る異界の者を呼ぶ古い術を使った。そなたが応えた」
胸の奥がじんとした。俺なんかでいいのか。けれど、やっと理由が分かった。ここに俺がいる理由。
「お役に立てるなら、喜んで」
口に出すと、背中が熱くなる。怖いけれど、嬉しい。ようやく自分の仕事が必要とされたようで。
「質問してもいいか」
隣の若い兵士が、手を少し挙げた。
「左利きはどうすればいい?」
「無理に右に合わせなくて大丈夫です。座る位置と持ち方でぶつからないようにすれば、周りも安心です」
「なるほど」
兵士が素直にうなずく。向かいの貴族が、わざと左手を背に回して見せ、周囲が笑う。場の空気が緩んだ。
「では客人、乾杯の言葉を整えてみよ」
王が顎を引く。白髭の重臣はまだ渋い顔だが黙っている。
「恐れ入ります。では、短く」
俺は杯を両手で受け、胸の前で止めた。足の裏の冷たさ。指先のガラスの感触。腹の奥の小さな熱。深呼吸。目線をゆっくり上げる。
「本日、同じ席で出会えたことに感謝します。互いを知る最初の一歩として、この一杯を分かち合えたら嬉しいです。皆さまの健康と、この国の明るい日々を願って――乾杯!」
「乾杯!」
声が重なり、器が鳴る。笑い声。ほっとした息。天井の飾りが微かに揺れた。胸の中で何かがほどける。
「やるじゃない」
給仕の少女が小声でつぶやいた。目が合う。彼女は慌てて会釈した。可愛い。俺も小さくうなずく。
その直後、反対側の席で、骨がごとりと音を立てた。男が骨付き肉を食べ、骨をテーブルの真ん中に置いたのだ。
体が勝手に前へ出る。
「それ!!マナー違反ですよ!!!」
男がびくっと肩を揺らす。俺は両手を軽く上げて、怒っていない合図をする。
「皿の端にまとめてもらえると、片付ける人が助かります。誰かの器に当たって倒れるのも防げます」
「わ、悪い」
男は素直に骨を寄せた。隣の女騎士が俺の方を見て、こっそり親指を立てる。
「助かるわ。あとで私たちが運ぶから」
「ありがとうございます」
頭を下げると、向かいの貴族が目を丸くした。
「すぐに頭を下げるのだな。異界の礼か」
「はい。短く、はっきり気持ちを伝えられます。慣れると便利です」
「便利、か。悪くない」
貴族は口元だけで笑い、杯を持ち直した。
「ところで」
白髭の重臣が、わざとらしく咳払いをした。
「そなた、先ほど『旗』と言ったな。言葉ひとつで列が揃うと」
「はい」
「ならば今、ここで証明してみよ。王の前での所作、三つだけ。短く言って、皆を揃えよ」
胸が高鳴る。挑まれている。怖い。だけど、こういうのは嫌いじゃない。
「承知しました。三つだけ」
俺は立ち上がり、テーブルの側面に回り込む。目線を全員に通す。
「一つ。王の前では、背を丸めない。胸を少しだけ張って、顎を引く」
俺は自分でやって見せる。兵士たちが真似をし、背筋が一斉に伸びた。
「二つ。話す前に一呼吸。早口は相手を置いていきます。ゆっくり、短く」
俺は息を吸い、吐く。貴族たちもつられて呼吸を合わせる。空気が落ち着いた。
「三つ。眼は相手の眉間と目の間くらい。にらみにはならず、そらしもしない位置です」
会場が静かになる。数秒だけ、全員の視線が柔らかく揃った。
「――以上です」
沈黙のあと、ぱらぱらと拍手が起きる。最初は遠慮がち。すぐに大きくなる。俺は胸の奥が熱くなった。
「ふむ。使えぬこともない」
重臣は素っ気なく言う。だが口の端がわずかに上がっている。
「異界の講師よ」
王が立ち上がった。周囲が静まる。
「そなたの言は分かりやすい。そして、皆が少し楽そうだ。礼は人の心を和らげる――わしはそう信じたい」
「俺も、そう思います」
自然に言葉が出た。胸の内側で、長い間乾いていた場所に水が染みていくような感覚があった。
「明日より、城の者に礼の稽古をつけよ。数日のうちに諸国の使者が来る。そなたの知恵で、わしらの席を整えてみせよ」
責任の重さが、肩に乗った。けれど逃げたくはない。ここまで言ったのだ。やる。
「承知しました」
はっきり言う。自分の声が、思っていたより落ち着いていた。
席へ戻る途中、さっきの若い兵士が耳打ちしてきた。
「なあ、あの『一呼吸』って、槍の稽古でも効きそうだ」
「最初の一秒で体は変わります。おすすめです」
「やってみる」
兵士は嬉しそうだった。
俺は胸の奥の不安を、そっと撫でた。ここは異世界。俺の“正しさ”が全部通じるわけじゃない。きっと失敗もする。
それでも――誰かが少し楽になるなら、意味はある。
視線を上げると、遠くの席で重臣たちが小声で話していた。眉間に皺。薄い笑み。あれは簡単ではない相手の顔だ。背中に冷たいものが走る。
でも、胸の真ん中に小さな火種がある。消えない。俺は講師だ。相手を置いていかない言葉で、もう一度やり直せる。
こうして、俺の異世界初日が終わった。怖さと楽しみが同じくらいある夜だった。明日から本番だ。礼の戦いが始まる。
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