第16話◆DEATH/MARKING
──単刀直入に言えば、風野シュウという人間は天才だった。
文武両成敗。女子人気。馬鹿友達。両親からの愛情。全てにおいて恵まれていたし、それは99%の才能と1%の努力を以て成り立っていた。
風野シュウに持ち得ないものはなかった。
そうして。
風野シュウという少年はこの世に生を受けてから14年の月日で、人生の愉しみというものを失った。
全てを手に入れた故に、全てを失ったのである。
彼には刺激が足りなかった。
「〇〇、誕生日おめでとう」
『え、誕生日は……来月……』
バシャァァァン!!
「ま、え、い、わ、いだよ。な?」
積年の友情とやらを失って、悪道に走っても、刺激がない。足りない。足りない。足りない。
風野シュウが人生に絶望し、悪に手を染め、両親含めた周囲の人間から〝悪魔〟と呼ばれるようになってから、1カ月の月日が経つ。
最初の頃はその響きが気に入っていたものの、やはりソレも、飽きてきた。
噂を聞いた。
自殺ちゃんねるというウェブサイト。なんでも死ぬためのコミュニケーションツールだとか。
なんだか面白そう。
風野シュウは刺激を求めるためならどんなことでもする。
自殺ちゃんねるにアカウントを作成し、自分に見合った人間を見つけるまで、1日もかからなかったのである。
そして、今日に至る。
「…………」
女性は20代後半の医薬品開発研究者だという。アイコンには本人の素顔を載せている……らしい。かなりの美人だ。自殺ちゃんねるのプロフィール欄に掲載されていたツベッターやイソスタのアカウントを見るに、本物に見える。
ぶっちゃけ顔とかスタイルとかはどうでもいい。彼女を選んだのは、その才能だ。
語るまでもないありきたりな理由で人生を放棄する道を選んだ彼女は、医薬品開発の傍らで、安楽死用の薬を開発したのだという。
薬品に関する知識は資格を持っているわけでもないので素人に毛が生えた程度だが、嘘をついているにしてはよく出来た写真の提供、情報の提供、本人の知識量だった。
そもそも。
このサイトもあの女も、怪しいことこの上ないが、嘘をついていようとも、関係がない。自殺を志願するような壊れ物が、嘘をついてどのような劇を見せてくれるのか。
俺が求めているのは……スリルだ。生きる刺激だ。穏やかに言うなら活力という。
俺には才能がある。それは間違いない。人間関係にも恵まれている。それでもこの世界の全てを知っているわけでも経験したわけでもあるまいし、人間の短い寿命でソレを果たすことも不可能なことは重々承知している。
俺は天才であるが故に──気づいてしまった。
多分このまま生きていても、自分の想像を超えた愉しみがない。
俺はサッカーが得意だ。ピアノも得意だ。プロサッカー選手として活躍する傍ら、趣味でコンクールに出ることも、弾き語りで億の金を稼ぐことも造作もない。うん。想像ができる。それまでだ。つまらない。このような活字に起こせている時点で、それは、つまら、ない。
だから刺激が欲しい。自分の人生を根本から揺るがすようなナニかが欲しい。
でも。多分そんなものは見つかりっこない。俺は頭が良いから、それも理解っている。
犯罪を犯すと、流石に親に迷惑をかける。自分を生んだこと以上に褒める点の見当たらないやつだが、その功労に見合った恩として、せめて飛ぶ鳥跡を濁したくない。
だから俺は、一番手っ取り早く、一番迷惑をかけないであろう、自死を選ぶ。
想像の中で人生を制覇した俺は、死を空想に創造したのである。
故に俺は、もう死んでいる。
もう、どうなってもいい。
「そろそろ時間だ」
女と約束したのは町外れにある人気の少ない公園。約束の時間まで残り15分。
『あ、ごめん。驚かせるつもりじゃ──』
『じ、じ、じゃぁ──!!』
子供っぽい(事実ガキだが)演技をするのは得意だが、あれはかなりホンモノだった。
さっきから手の震えが止まらない。耳を澄ませば歯がカチカチと鳴る音がする。
「あぁ──面白れぇ」
俺は踊るようなステップで、目的地を目指した。
⬜⬜⬜
風野シュウの後方15メートル。影に身を潜め、時々ひょっこりと顔を出し、とりあえず雰囲気を出すために買っておいたあんぱんと牛乳をかじるものの、そう言えば自分牛乳を直接飲むのは苦手だったことを思い出す死ニ噛ミ・音沙汰ユイ。
「はぁ。ついさっき思い出すとか、まだまだ見習いだな、私……」
かの少年には、誤りの整数が刻まれている。余命残り数日にして、死に方を選定しなければならない、死ニ噛ミのターゲット。
彼の死を『窒息死』から『航空事故』に選定しなければならない。
航空事故というと大袈裟だが、ずばり彼は自分で自殺するか、何者かによって殺害される。それを食い止め、数日後に発生するという航空事故に彼が巻き込まれれば任務完了。つくづく訳の分からない仕事である。
伊藤先生によるターゲットの指定により、彼の顔や経歴についてはあらかじめ知っていたのだが、まさかまさか夜の町で、バッタリと出くわすとは誰が思う。っていう言い訳をすれば、レドルがブツブツ文句を言うだろうが。
「むむむ……?」
町に目的があるわけではなく、町の外れに向かっていく、風野シュウ君。どうやら時間を潰していたらしい。
で、誰かと待ち合わせをしていて、約束の時間が近いから、彼は一人愉快にステップを踏んでいるわけか。
半魔に成った特典として得た身体能力により、彼に追いつくのは容易かった。彼が落としたスマホをすぐに渡し、直接コミュニケーションを取り、或いは私の異能力を使い、彼の過去を視ても良かった。
これはほんの直感だ。
今、私がすべき正しい選択は、傍観。彼に直接干渉してはいけない。現時点では。
私の第六感の気まぐれは、ウイの一件でも正常に作動した。
きっと悪い類のナニかが彼に起きる。それを防ぐためには、まずは後手に回るのが吉。
後手……?
『ウイ……ウイ……!?』
あのようなことをまた繰り返すのか、私は。これから、何度も。取り返しがつかないことが起きても、仕方がなかったと、割り切るのか。
運命力によって人間の生き様には筋書きがある。
人間は死ぬ価値が無いものが生きているだけ。
この世界の寿命を延ばすために、セカイに奉仕する、悪魔。
私は心も悪魔になってしまったのか──?
と。余計なことを幾つも考えているうちに、少年を見失ってしまった。
「やば……っ!」
⬜⬜⬜
一方その頃。
音沙汰家。カレーの香りの漂うキッチンに、ツインテールとポニーテールが揺れる。
「やっべぇ……。水の分量間違えちまったかぁ……? どう思うよ、カナリン」
「カレーの作り方なんて知らない。それは不必要なことだから」
「料理できねぇ女はモテねぇぞ……。ま、あたしが言えたことじゃねぇんだが。おいレドル。やっぱこれカレーうどんにしねぇか?」
「もうお米研いじゃったんですケドッッ!!?」
⬜⬜⬜
『もう……なにが、なんだか、』
『セックスしましょ♡』
──私の第六感は正しかった。シュウ君を追いかけて辿り着いたのは、私が変質者に襲われた公園だった。
ハイエースはもう撤去されたらしい。それでもこの公園はトラウマだし、もう二度と来ないと誓っていた。
嫌な予感が強まる。少年の落としたスマホに映っていた自殺ちゃんねるのウェブサイト。ログイン状態だったので、チャットを見てしまった。
この公園で待ち合わせしている相手は、薬品開発に携わる女性だ。綺麗な見た目をしていたし(アイコンなんかもう二度と信じないけど)、リンクの貼ってあったSNSの類は普通だったし、会話内容も丁寧だった。
でも、確実に、裏がある。安楽死の薬品が怪しいこともそうだけど、私の悪寒の元凶はコイツだ、と感じ取れてしまった。
「「────、…………」」
公園のベンチで、シュウ君と相手の女性が会話をしている。女性はアイコンやSNSに写っていた通りで、スタイルの良い綺麗な女性だった。
「「────、──」」
数十メートル離れた木陰からは会話の内容は聞き取れないけど、なんだか楽しそうだ。悪い雰囲気も怪しい雰囲気もない。
でも、私の悪寒は抜けない。第六感がリンゴンリンゴン警鈴を鳴らしまくっている。
距離を正確に……うん、14メートル。この木陰から直線距離。障害物なし。シュウ君に衝突しない角度調整。深呼吸、よし。いつでも──いける。
「──、────」
女性がハンカチを取り出した。
アレだ────!
前足を踏み込み、木陰から飛び出す。二人のところまで到達するまで1秒弱。しかし私は自分の半魔の力を最大限に活かしきれない。踏み込みに力を入れすぎたのと、空中浮遊時の筋肉制動に慣れていない。私の想像内ではカッコの良いパンチを女にお見舞いするところだったのだが、結果としては私は女に、全身で体当りするという結末。
「ぐがっ」
女の嗚咽。
「うえ」
私の嗚咽。
ベンチの後方、草むらに投げ出される私と女。
よし。段取りはむちゃくちゃだけど、結果はオーライだ。あのハンカチを彼から遠ざけることができた。ハンカチの匂いを嗅がせてはいけない。きっと薬品の類が仕込まれている。
すんすん。
そうそう。偶然私の顔面にハンカチが舞い落ちる。鼻の上に広がる花柄の可愛いハンカチ。強烈な薬品の匂いがす──
「ヒッ」
落ち着け。私は半魔だ。毒物は効かないとレドルが言ってたじゃないか。最優先事項は……!
「あむっ」
「なぁッ────!」
女が悲鳴を上げる。当然だ。彼女の計画において鍵となる凶器を、どこの誰とも分からん女が口に頬張ったのだから。
「もぐもぐ。ごくん」
「飲んだぁ!?」
なかなかいいリアクションをしてくれる。飲み込む力も食道も胃も強くなっているので、ハンカチ飲んでもへっちゃらなのでした。
「アナタ一体何者ですか!? な、なんてことを……!」
「あなたの方こそ、中学生の男の子にナニしようとしてたんですかっ!?」
「別に、なにも?」
「嘘ですね。ハンカチに薬品を仕込んでいて、それでシュウ君を気絶させ、色々シ用途したんですっ!」
「なんで俺の名前を……」
「証拠は!?」
「証拠は────」
勢いよく突っ走ったはいいものの、想定できるはずのイベントに対応できていない。
あのハンカチには間違いなくなにか危ない薬品が仕込まれていた。それは確かだ。
しかし、肝心の凶器を、明確な証拠品を私は自分自身で抹消してしまった。
ポカである。
このままでは私の方がヤバい奴だ。いきなり突っかかってきた変質者だ。おまけに制服に血もついている。
次の返答にすべてが掛かっている。次の選択肢を間違えれば、取り返しはつかない。
絶対に間違えられない。
しかし私の頭ではどう論理を組んでも答えに結びつかない。
バカである。
ならば私がとるべき行動はあまりにも簡単だ。
答えを視ればいいだけの話。
嘔吐はできない。
気絶なんて以ての外。
異能の鎌を悟られてはいけない。
全部じゃなくていい。
局所的でいい。
数時間前。それだけでいい。
右腕に力を込める。
私の身体を蝕む瘴気が、主の意志を汲み取り、活動をはじめる。
鎌を出現させ、魔眼を使用するまでを一瞬で行う。
上手くやれ。
巧妙く在れ。
発動と解除を、ほぼ同時に──!
「『超超心理眼』」
能力の反動で視界が逆転する。
世界の色がモノトーンに変化する。
喉まで込み上げてくるブツを、なんとか抑え込む……!
「え……? 今なんて?」
「鞄の中。見せてください。シュウ君ならきっと分かるよ。なんの薬品が入っていて、それがどんなに危ない代物か──?」
「は、は?」
「この公園に来る前に仕込んだんですよね。誰にもバレないように、こっそり、多目的トイレで。私、実は見てたんですよ。公園の多目的トイレ、ボロくて屋根に穴が空いていて、そこから見えちゃうんですよ。文字通り、ぜーんぶ」
「そ、そんなデタラメを……!」
「私がデタラメか、あなたが大嘘つきか、狼は真っ白な人間に決めてもらえましょう。ねぇ、シュウ君」
「……鞄の中、見せてみろよ。いいから」
「…………ッッッ!!!」
◆──◆──◆
女はこめかみに千切れてしまいそうなくらい血管を浮かび上がらせて、公園から走り去ってしまった。追いかけようかと思ったけど、死ニ噛ミとしては、彼の動向を見守るほうが最善だと考えた。
彼女については、伊藤先生に手を打ってもらおう。人間を監視する悪魔もいるらしいし。少なくとも、シュウ君が〝航空事故〟で死ぬまでは──。
「で、あんた誰なんだよ」
「さっきまでのオドオドした様子はどこに……?」
「あんた曰くつきだろ。媚びても仕方のない相手に媚びるような莫迦じゃない」
「あ、そう……」
私とシュウ君は、公園のベンチに座り、お互いの素性を明かした。携帯も返した。シュウ君の名前を知っていたのは、携帯を見たから、ということにしておいた。
「ね、すぐに家に帰りたい気分?」
シュウ君は首を横に振る。
「ちょっとさ、人生相談しようよ」
お互いの生き様について赤裸々に話し合う。私の次に、シュウ君の番。私の番の時、シュウ君は意外にも黙って聞いててくれた。
過去視の能力は使わない。一方的に覗くだけじゃなく、対話をすることで、見えてくるものもあると思う。
カナリンはきっと、それは非効率だ、って言うだろうな。
「あんた、残念系だな」
「優しい言い方だね」
「じゃあクソザコだ」
「直球!?」
脳裏に過ぎるツインテール。
「すげぇ気になったんだけどさ。あんたってどうして、自分に枷を付けるんだよ。あんたの人生、自分から生きにくくして、泣きべそかいてるだけに聞こえたよ」
「枷……?」
「勉強ができない、とか、スポーツができない、とか。だからいじめられる、とか。そのウイって友達はよく知らないけど、その具体的な理由はなんだよ」
「具体的なって……。それは、」
「答えられないだろ。あんたはそもそも、挑戦してない。何事もやらずに勝手に怯えて、逃げてるだけじゃないか?」
中学生に自分の欠陥について言い当てられてしまう。
そう。
私は行動を起こす前に、怯えて、逃げ出す。
できない、と決めつけるのは、いつも自分から。
決めつけて決めつけて、それを16年も繰り返して、人生は欠陥工事のまま進み、私という人間は完成されてしまった。
「俺は才能のあるやつは面白いから……尊敬はしないけど、認めてはやる。才能の無いやつは雑種みたいなもんだ。でもさ、あんたみたいな才能あるなしの関係ない半端者が、一番嫌いだよ」
「素直なんだね」
「分かんねぇな。あんたには嘘をついても無駄な感じがするしな」
「じゃあさ。自分の才能に気づいていて、それを自由に舵取りできるような君が、どうして刺激なんかのために、自殺なんてしようとするの?」
「才能を発揮する土台がつまらなかったら、意味がないんだよ」
「あなたこそ、なんでそんなこと決めつけるのさ」
「天才だからさ。なんだか分かっちまうんだよ。このまま生きてても、この世界に刺激なんて無いって」
重症だ。私と同じだ。
能無しだと自分で決めつける私。
この世界に用無しだと決めつける彼。
「なんだ。あなたもバカなんだ」
「はぁ!?」
「だってそうじゃない。子どもが世界の広さを決めつけるなんて、お笑いにもほどがある」
「だから俺は天才で──!」
この子は絶対的に自分が正しいと信じ込んでいる。それが彼の強さでもあるけど、脆さでもある。
この世界は面白くない。
そんな簡単な問題をぶち壊してくれるような刺激は、まだまだ世界中にあるだろうけど、今、この場で証明できるものがほしい。
これはズルだ。
例外中の例外。
世界の広さを証明するといっても、今から彼に見せるモノは、この世界外の能力だから。
「シュウ君はおねしょを通算6回したことあるね」
「な、はぁぁ!?」
本日3度目の能力行使。身体が慣れてきたのか、嘔吐することはなかったけど、拒絶反応で身震いする。
大丈夫。正気を保てている。
「否定しないんだ」
「は、バッ、なんだよ。お前今日初めて会うのに、なんでそんなこと知ってんだよ。誰に聞いたんだよ!」
「ちょっとした手品みたいなもの。心理学とか好きでさ。どう、これキミに真似できる?」
「できないけど。なんだよ……それで世界は面白いって言いたいのかよ」
「私さ。つい最近まで、死にたいって思ってたの。自分に自身がなくて、やること全部裏目に出て、どうしようもなくて、こんな世界に生きてる意味が無いって思った。だけどそんな私は、ある人に出会って変わったの」
「恋愛の話なら聞かないよ。俺だって経験あるし」
「違う。とんでもなく生意気なクソガキに出会ったんだよ。君の本性でも足元にも及ばないくらいの悪魔。そんな子と一緒に生活して、私は知った。世界ってこんな変なやつを生み出すくらい広くてよく分からない場所なんだって」
「すげぇ悪口だな」
「私はこれ以上にひどいこと言われてるからね」
「世界か……。あの薬品女も、俺を襲おうとした悪い変なヤツだったわけだ」
「そう。悪い変なやつも。良い変なやつも、いっぱいいるんだよ。この世界。私はそれをこの1週間でうんと理解した。だからね、人間が死滅しない限り、この世界は君が飽きるほどつまらなくないよ」
「まぁ、1週間で死滅するようなことが起きれば、それはそれで面白いけどな」
「君は良い変な人だね」
「……ジョークか?」
「いいえ。本心。君は将来、素敵なお嫁さんを見つける気がする」
「…………」
酷い嘘つきだ。彼に将来なんて無い。数日後に彼は死ぬ。彼が結婚する未来なんて存在しない。
……でも。本心だった。もし、このまま彼が生きて、十数年もすれば、いい人を見つけて、幸せになる。そんな〝もしも〟が、見えた気がしたんだ。
「世界一周でもするか」
「え?」
「いや、ちょっと世界の広さを知ってこようと思ってな。外国には何回も行ってるし、そこまで面白くなかったんだけど、一周もすれば、面白い場所の一つは見つかるかなって」
「うん。とっても素敵だと思う」
ここでもし、私が彼を止めたとしても、彼は何らかの理由で旅客機に乗ることになり、事故に巻き込まれ、死亡する。
私には正直……正しい選択なんて分からない。
運命に抗えないとしても、ここで彼を止めようとしない時点で、私はやはり悪魔の考えに加担しているのか。
人の心を失っているのか。
分からない。
分からない。
分からない。
でも……それが当たり前じゃないか?
感情は具現化できない。
彼も私も、第三者から見れば直ぐ側に答えの出ている問題に絶望して彷徨う阿呆に見えるだろうし、その逆もまたそうで、普通の人間の悩みが私たちには分からない。
この世界はあまりに広く、おまけに常世だの第三世界だのワケの分からないものもある。
私が誰で在るか。
私の心は何で在るか。
それはたったの1行にまとめられるものではなくて、
「どこの国に行ったらいいと思う?」
「パキスタンとか?」
「名前の響きだけで選んだろ」
「あはは。正解」
人生っていう駄文を以て、ようやく少し理解し得るものなんだ。
「じゃあ、そろそろ行くわ」
「…………うん」
だから──っ、
◆──◆──◆
『航空機ホースイング779がパキスタン、イードニオ国際空港への着陸進入中に急激に降下し、滑走路の手前の海面に墜落する事故が発生しました。精神疾患を抱えていた機長が錯乱し、突然機体の推力を急激に減少させながら機首下げを行ったのが原因で──』
ブツン。テレビの電源を落としたのは私だった。
音沙汰家の狭いリビング。4人で使うためにわざわざ買い直した丸机を囲む、半魔と悪魔三人。
「よし。ユイとレドルの仕事も無事片付いたわけだし、なにか飯にするか!」
パン、と手を叩いて、メイチャが立ち上がった。
「それなら、私とカナリンで買い出しに行ってくるよ」
「…………」
カナリンは無言で頷いた。
◆──◆──◆
「お疲れ様」
買い出しを済ませた帰り道、私とカナリンは行きも買い物中も終始無言だったが、先に口を開いたのはなんとカナリンの方だった。
商店街を出て、富谷川に沿って、堤防道路を並び歩く。
冬休みはもう始まっていて、段々と曜日感覚が抜けていくけれど、今日は平日。天気の良いお昼前。
河川敷ではボールを蹴って遊ぶ子どもたち。私たちの横を駆け抜けていくランニングマン。
いつか死んでいく人達。
いまも生きている人達。
「ありがとう」
「……今日、カナを呼んだのは、この前の答えを聞かせてくれるっていうこと?」
「うん。答えが出たよ。はっきりとね。私の答えは、音沙汰ユイだったってことで」
「…………。なに?」
「だからね。私は私にしかなれない。悪魔の心を持った悪魔とか、人間の心を持った人間とか、そもそもそんなこと、どうでもいいんだって。カナリンはカナリンの心を持っていて、私は私の心を持っている。経験、立場、種族、知能、何もかもが違う私たちに、物差しを作ること自体、馬鹿馬鹿しい」
「つまり開き直ったってこと?」
「そうだね。諦観に近い。結局音沙汰ユイっていう人間は半端者で、私は私にしか成れない以上、半端者であることしかできない。だからさ、半端者としての人生を全うしようと思うんだ」
「半端者としての……?」
「そう。私は半魔として、これからも悪魔の仕事をこなしていくし、人間としての生活も送る。辛いことも嫌なことも、壊れそうになっても、歯を食いしばって、生きていく。それは死ねないからじゃなくて、誰かのためでもなくて、私が私で在るために、悪魔として消滅するまで、生きていく」
目頭が熱い。焼けてしまいそう。太陽のせいじゃない。私の心が干からびてしまいそうだから、身体が必死に水を汲んでいる。
たった数時間の出会いだった少年が死んだ。うん。悲しい。苦しい。淋しい。やるせない。気持ちが悪い。辛い。心が擦り潰れそうだ。
でも倒れない。
歩く。歩く。歩く。
「消滅する前に、心が壊れたら?」
「それも本望だよ。そのくらい優しい人間になれたらさ、ちょっとは親に自慢できるかもね」
「それはユイのためなの?」
「うん。私のため。音沙汰ユイのために、音沙汰ユイは生きている。生きていく。死ニ噛ミとして、沢山の人の死をこの胸に刻み込んで、忘れない。刻んだ分だけ泣いて、その度に涙を拭って、生きていくの」
「…………辛い人生だと、思わないの?」
「思うよ。そりゃあ。
でもしばらくは大丈夫かな。
クソガキみたいな相棒と、変態教師に、あなたたち、頼れる仲間がいるから」
「…………私。ハンカチを持っていない。今時お手洗いには大抵ペーパーやドライヤーがあるから」
「じゃ、これからは持っていてくれる?」
「ええ。あなたはとても頼りない。
しばらく、あなたにはカナが必要みたいだから────」
堤防道路を歩いていく。荷物は沢山だけど、お互い悪魔だから、手を貸す必要はない。
理由はない。私とカナリンはなんとなく、お互いに手を繋いで歩きたくて、荷物を持った手を不器用に繋いで、歩いていく。
非効率だ。足取りが悪くなる。歩き方がぎこちない。
でも、きっと私も、カナリンも、それで心が満たされていた。
「あ、」
買い物袋からはみ出ていたトマトが落っこちてしまう。
「はい。傷はついていないと思う」
カナリンがトマトを拾ってくれた。
「うん。ありがとう」
トマトを受け取って、買い物袋に戻す。悲しい記憶がフラッシュバックするけれど、零れそうになる涙を、空を見上げるフリをして、カナリンに見せないようにする。
唐突に空を見上げる私を、カナリンは不思議そうに見つめてから、彼女も同じように空を見上げた。
「綺麗ね」
「うん、綺麗」
本日の音沙汰家のお昼ご飯の献立はカレー。
数日前に凄まじい出来栄えのカレーをお出しされたので、今日という今日こそは、本物のカレーというやつを、みんなに見せてやるんだから────。
私は静かに決意を固めて、レドルとメイチャの待つ、我が家を目指すのでした。
⬜⬜⬜
時同じくして。
多摩賀谷区、東京都立宮下メディカルセンター。牛込地区の基幹病院として豊富な診療科を持ち、その中の一つに精神科がある。
精神病棟4階。白を基調とした壁や病室、医者や看護師たち医療の世界にそぐわない、黒スーツの男たちがズカズカと廊下を歩いていく。
スーツの男は二人。医者とは対照的な雰囲気の二人だが、〝人を救うために仕事をする〟という点では同じである。
異なるのは、救えなかったものや、それに関連する事件を追うこともまた、彼らの仕事に含まれることである。
407号室。精神病棟は個室が多い。この病室に入院している患者は一人。
ネームプレートには、秦野浩二と記されている。
スーツの男たちはノックをし、「どうぞ」という返事を聞いてから、「失礼します」と部屋の中に入っていく。
「またあなた達ですか。刑事さん。新しい質問でも考えてきたのですか」
むくり、と身体を起こすのは、チリチリな白髪と、しかしシワの少ない、穏やかな表情をした老人、秦野浩二である。
病室の中央にあるベッドの上で、黒スーツの男たちに向かってニッコリと笑いかけた。
「いいえ。私達からの質問は変わりませんよ。浩二さん」
黒スーツの男たちは髪も黒く、ワックスで整えてあり、表情は穏やかなようで、しかし、小鳥の真似をした岩石のような冷酷さがある。
それも当然だ。
彼らの相手にしている、この秦野という人間は、
「《《宮内崎暴走事故》》の件について、またお話を聞かせてもらえますか?」
「ええ、いくらでも。答えられる範囲で、ですが」
交通死傷事故を引き起こした、犯人である。
黒スーツの男たちは病室に用意されている面会用の椅子に座ることなく、ベッドの脇に立ったまま話し始めた。
「まずは改めて、事件を振り返りましょう。
宮内崎暴走事故とは、10年前。2013年11月1日に神奈川県宮内崎市で発生した交通死傷事故です。
乗用車、RX-7.0が暴走して多重衝突事故を惹起し、音沙汰夫妻が死亡しました。その他8人が重軽傷を負った。車には《《運転手が乗車しておらず》》、犯人が見つかっていない。
これが1年前のことです。
世間では『幽霊車事件』と呼ばれ、話題になったこの事件。
何度調査しても運転手がいなければ発生しようがないという結論に達し、しかしその運転手の痕跡も手がかりも掴めず、迷宮入りをしたこの事件に、つい1年前、進展があった」
「それが、僕の存在ですね」
「ええ。浩二さん。突然東京の警察署に訪れた貴方は、自首をした。この事件の犯人であると名乗り出て、幾つかの証言、証拠品の提出をしてくれました。
警察に引き取られ、しばらくお話を聞きましたが、結果的には精神に何らかの異常が見られるとされ、この病院に送られた」
「酷い話ですよ。僕は嘘をつかない、と何度も言ったじゃないですか」
「ええ。貴方の発言や証拠品は確かなものでした。しかしですね。肝心な所をどうしても答えてくれない。
なぜ、あの車は無人で動いたのか。あの車には最新のAI技術は導入されていない。違法改造された痕跡も無かった。
そのロジックを……答えてくれませんか?」
秦野浩二は溜め息をつき、残念そうに天井を一瞥してから、話し相手である黒スーツの男の目を見た。
「また同じ質問ですか。申し訳ありませんが、お答えできません」
「どうしても、ですか」
「どうしても、です」
「…………そうですか。それでは、失礼します。気が変わったらすぐにご連絡ください」
黒スーツの男たちは、踵を返し、扉に向かって歩いていく。
黒スーツの一人が扉に手をかけたところで、
「ただしお早めに。一度迷宮入りした事件に、上の者は猶予を与えてくれない。署内の人間ほとんどが、この事件は解決できない、と諦めている。捜査が終わるのも、そう先の話ではないでしょう」
「それは残念だ。君の顔や話し方は、かなり好みだったのだが」
「嬉しくありません」
最後に本音を呟いて、黒スーツの男たちは病室を出ていった。
「聞こえてますよーって。はぁ」
浩二は身体をベッドに預けて、溜め息をついた。少し開いている窓から吹く風は冷たく、優しさが無いが、浩二にとって現実感をもたらす覚醒剤でもあるため、彼にとっては気持ちが良いものだった。
視界に広がる見知った天井。代わり映えの無い風景。
浩二は体の向きを変え、窓の外に広がる青空の世界を、羨望の眼差しで見つめる。
このような生活がいつまで続くのか。
親族はいない。助けはない。ただ老いていくだけの彼には絶望しか残されていないのか。
いいや、それは、違う。
彼はそう断言するに容易い判断材料を幾つも持っている。
その一つは────、
「ユイ。今頃元気にしてるかなぁ。
お父さんは今、幸せだよ」
あの青空の向こうで、今も尚生きている、愛すべき娘に在る。
⬜次章:恋愛論者の瓦解編⬜