私を騙してよ
少しグロテスクな箇所有り。
私は作家志望だったから、待たされる時にはやっぱり文庫本を開いてしまう。開いたってロクに頭に入ってこない事は分かり切っているのに。それでもどうして開くんだろうか、と時々、開いたページの文字をそっちのけで考え込んでしまう。多分、本を開いていると、前に進んでいる気がするからだろう。自分が何かになろうと思っている何かに向かっている事を、自分に言い聞かせられる。少なくとも、私を視界に置く周囲の人間にアピールする事は出来る。…でも、目の前の本の中の文字は、十分前から一文字も進んでいない。今まで読んだ筈である前段の内容も、一つも思い出せない。本は読むと進む筈。でも、私の頭の中には、これをここまで読んだ、という自意識だけがあって、当の話の内容は一つも頭の中に入っていない。読む前と読んだ後の頭の中の違いは、「私はこの本を読んだ」という自覚の有無以外に何も無い。何も。私はどこに向かおうとしてたのだっけ?
「杉内さん」と私を呼ぶ声が聞こえる。それで私は思い出さない訳には行かなかった。ここが何処か。ここは警察病院の廊下。私を読んでいるのは誰か。検死を担当した御医者さん、もしくは看護師さん。私は今から何を聞かされるのか?色々問題もあって、離れてもいたけど、やっぱり大好きだったあの人が、どうやって死んだのかの説明。そう、彼は死んでしまった。
「死因は、脳橋出血、という事になります。事件性は無い、病死と言えます。脳橋とは、この部分です」
お医者さんは人の頭の中身を書いた図を指さす。聞く前まではどうしても知りたい様に思えた情報だったけど、聞いた後では、こんな見えもしない分かりもしない場所の事を聞いて何になるのだろう、と思えてくる。お医者さんは一生懸命話をしている。彼にとっては見える部分なのだろう。私は彼の陰部の先にあるホクロの事だって知っていたけれど、それでもやっぱり彼の体の表面に過ぎなかった。お医者さんの様に彼の中が見えたら、或いは死なせない事も出来たのかな?無理だよね。だって離れていたんだもの。離れていて、それで、彼が死んだことに、二週間も気が付かなかった。初夏にしては厳しすぎる暑さの中で二週間。
「こういう形で、丸まって亡くなっていました。手にはスマートフォンが。恐らく亡くなる直前まで眺めていたんだと考えられます」
お医者さんは説明し続ける。それで、原因は、と私は今更どうにもならない事を尋ねる。
「過度の飲酒、それと睡眠不足が、原因と言えば言えるでしょう」
お医者さんも、幾らか辛そうに見える。きっと、もうどうにもならない事を言っている、とやはり思ってしまうのだろう。
私は聞いた。彼に会えますか?
私は、彼の顔が好きだった。格好良い顔だと思った。付き合うようになって、唇をくっつけながら見ても好きだった。近くに居ても、近くに居られなくなっても、やっぱり好きな顔だった。最後に見た、「君は俺といるとやっぱりマズいよ。俺はもう駄目だ。女を叩くなんて、もう駄目なんだと思う」と言った時の、生きてる痛みに耐えかねて苦しんでる顔でさえも、今思い返すとやっぱり好きだった。それを見ているのはとても悲しく辛くて、結局言う通りにしたけど、やっぱり好きだった。でも、言う通りにしなければ良かった、とは思う。きっとずっと思い続ける。今、お医者さんが「検死の結果、あなたが彼を殺したと証明されました」と言ってくれたなら、もっと良かったのに。ずっと良かったのに。その方が、世界は分かり易かった。その世界では、私の体は刑務所に送られる。でも現実には、心だけが刑務所に飛んでいって、体は日々の暮らしを続けようとする。仕事でお客さんの前に出れば、笑わなければならない。私にはもう、笑う事なんてなんにも要りはしないと思うのだけれど、それでも習慣で笑うのだろう。それが暮らしだから。
「ご遺体は…見ない方が良いと思います。六月の高温で、死亡から発見まで二週間経っていますから、大変遺体の傷みが激しい。見ない事をおすすめします」
と、お医者さんはこれまでより毅然とした口調で言った。その「見ない方がいい」を言われるのは、これで二度目だった。
一度目は、あの、彼の遺体が部屋から運び出された日。締め切られたドアポストに、何日分ものチラシ類が詰め込まれ放題になっていた。それで大家さんを、次いで警察とを呼んだ。ドアにはチェーンが掛かっていた。警察官の人は郵便物を抜いたドアポストを覗くと、すぐに私を振り返って、こう言った。
「今から壊して中に入ります。でも、彼女さんはここにいて下さい。見ない方がいいと思います」
きっと、仕事でそういう場面が初めてではないから、臭いで分かってしまったのじゃないかな。
私は、一番早くに彼のドアの前に来たというのに、さっぱり分かっていなかった。分かろうとしなかったのもあるし、動顛して嗅覚を忘れてしまったのかも知れない。非常時で、心がどこかに吹き飛んでしまって。それでその心は、今も帰ってきてはいないのだ。だから私は、好きだった筈の生きてる彼の匂いも、思い出せなくなっている。きっと部屋は、もう清掃の人が片づけてしまった事だろう。消さなければ、と誰もが思う臭いだけを遺して、彼は死んでいってしまったの?そんな事って酷い。彼の生きていた時の匂い、今はもう、この世界の何処に残っていないのだろうか?そんな事って酷い。
その上、彼の死に顔を見るなだなんて、私にはどうしても出来なかった。お医者さんは重ねて言った、「もう仏さんは、生きていた時とは、見分けがつかないと思うんですよ。ですからどうか…」
辛い仕事だな、と私は思った。思いながら、しかしやっぱり、言おうと思っていた言葉を言った。「覚悟はしているつもりです。どうか、最後に一目、顔を見させて下さい」
そして私はその部屋に入った。随分広い部屋に思われた。何の臭いもしなかった。嗅ぐ気が無かったのかも知れない。それから、彼と付き合っていて、彼の心がまだ健康だった時、丁度今のこんな場面が来る事を話した様な…と思い出す。
昔のお葬式コントだった。いや、映画だったかな?とにかく、人が死んで神妙にしなきゃいけないって場面が、なんだか殊更滑稽に見えてくるっていう類のお話。それで、最後に棺桶の蓋の小窓をね、こう、開ける訳。どうか最後に故人のお顔を見てやって下さいとか、あら綺麗なお顔して、眠ってるみたいねえとか、穏やかに言いながらね、皆が覗き込む。覗き込んでいる人達の顔も何か滑稽でどこか笑えるんだけど、その一方で、覗き込まれてる方の死んだ人の顔もおかしいの。何か生き残って覗き込んでる人を笑わせてるみたいな顔…。そんな場面がテレビ画面に映ってるのを二人で抱き合いながら見てた。そしたら、彼が言ったんだった。
「どっちかが先に死んでさ、こんな風に棺桶を覗き込む時が来たら、今日見たやつの事を思いだそーぜ。まあ多分俺が先に死ぬとは思うけど」
「そんなこと言わないでよ。それに、一緒に死ぬことだってあるかも知れないじゃない」「まあ聞いてよ。そしたらさ、もし俺が死んだら、思いっきり変な顔して笑わせるよ。そして君は、葬式で笑うなんてけしからん奴だと、葬儀場を追い出されるんだ。外に出ると、まるで人が死んだなんて嘘だったような気がしてくるんだ」
私はそれに笑って、「そうだね。それはいいね。上手く騙してよ」と返した。幸せだった。その時には彼の匂いを感じていた。生きている匂い。そして、彼の笑顔が好きだった。
私は、棺桶の小さな窓を開けて、彼の顔を覗き込んだ。そこにあるのは、彼の顔だと聞いていた。でも、それを知っていても、それが彼の顔なのだと分からなかった。顔の肉が膨らんで分からなかった。顎の骨が見えていて分からなかった。髪の半分が抜けていて分からなかった。髪でも皮膚でもない黒い色が多くて分からなかった。目がどこにあるか分からなかった。
それから私は、私を騙して、まだ生活を続けている。私は、時々笑う事もある。でも、それは自分で自分を騙している笑い。その笑いは、彼が私を騙してくれていた日々の、笑いとは違う。