5
セットしておいた目覚ましのアラート音が、睡眠という虚無の底に眠った意識を現実に引き戻してくれる。
寝惚け眼を擦りながら、枕元に転がしておいたスマホの画面を点灯させると二十三時を示していた。
都合二時間弱の睡眠だったが思ったより頭は冴えている感覚だ。
布団から身を起こし、もう一度スマホのロックを解除してみるとメッセージアプリに通知が入っていた。
その中身を確認しようとした瞬間に玄関チャイムが鳴った。
この時間の来客は通常なら訝しむべきだが、約束している相手が居るのなら話は別だ。
先ほどの恰好に加えてコートを羽織りマフラーを巻いて玄関へ向かう。
「……何で」
引き戸を開いて目にした顔は、とてもよく見知ったものだった。
「環希、迎えに来たぞ。さあ帰るぞ」
片道で軽く車で三時間かかる距離の先に居る筈の父親が目の前に居た。
野河寺さんとの話し合いが終わった後、父親に亡くなった叔父のことを尋ねるメッセージを送ってからすぐに家を飛び出して来たらしい。
「ちょ、ちょっと待ってくれよ」
「話なら車内で聞く。荷物もまた父さんが回収しに来るからとにかく車に乗りなさい」
抵抗を試みる俺の腕を掴み、連れ出そうとする。
「なんでこんな急に……!」
「良いから乗りなさい」
有無を言わせず腕力で引っ張られる。
驚きと親に強く抵抗することに躊躇いが生じている俺は数歩外へと出てしまう。
その時、門扉の近くにもう一台車が停まった。
それは本日三度目となる野河寺家のミニバンだ。
異変を感じ取っているようで、険しい表情をした乃愛が降車して来た。
「こんばんは、どうもお初目にかかります。野河寺家次期当主の野河寺 乃愛と申します。そちらの北田 環希様をお迎えに上がったのですが」
流石に制服からは着替えているが、明らかに年下の少女であることを認識した父親は落ち着きを払って彼女に正対する。
「……君か、息子に余計なことを吹き込んだのは。見たところ随分とお若いが、もう補導の時間なんじゃないかな?」
「その点については各所に許可を頂いているのでご心配なく。そして、息子さんにお伝えしたのはこちらが把握している事実のみです。寧ろ、お父様の方こそ伝えるべきを伝えず、継がせるべきを継がせなかったのではないですか?」
俺と話している時とは打って変わって舌鋒鋭く父親を責め立てる。
「私も貴代さんとは浅からぬ仲です。ご家族の問題が根底にあることはお察し致しますが、そればかりに配慮していると時機を逸してしまうのです」
「君、私の母さんのことを知っているということだが、ご自身で述べられた通りこれは家族の問題だ。部外者の君が割り込まないでくれるかな」
両者とも引くつもりは一切ないようで、一触即発の空気のまま膠着してしまう。
深夜に差し掛かるこの時間は月もすっかり昇りきり眩いばかりの月光が俺たちを照らしている。
春がすぐそこまで迫っているとは思えない冷え切った風が吹き抜けた瞬間、新たな人物が登場した。
それに最も早く気付いたのは、俺の父親だった。
勢いの良い足音と、それに追随するような咆哮を伴って野河寺さんの背後を突き抜けた。
「この、クソオヤジがああああああああああああ!」
月光に照らされたその顔貌と口汚い罵り声に俺は既に馴染みがあった。
野河寺さんが颯乃と呼ぶ失礼女だ。
「うおっ!?」
勢いに任せた飛び蹴りは見事に父親の胴体に直撃し、瞬く間にバランスを崩して転倒させた。
ついでに腕を掴まれていた俺も尻餅をついたが、同時にその腕が離れ身体に自由が戻る。
「今です、行きましょう!」
機を逃さず今度は野河寺さんが俺の手を握り、引き起こそうとしてくれる。
見掛けによらず力があるようで自分で地面から身を起こすのと同時に上体が引っ張られた。
野河寺さんのミニバンへ向かって駆け出す瞬間、後転していた父親の方を見遣る。
痛みや驚きで顰めた表情をしているが、目線だけはきっちりと俺を捉えていた。
そこからは明確な感情は読み取れない。
それも当然か、俺と父親は今までそれほど腹を割って話したことは無いのだから。
ただ、目の前に立ち塞がる少女をどうにか排除して俺を家へ連れ戻そうとする執念だけは分かる。
結局俺と野河寺さんが後部座席に駆け込みスライドドアが閉まり始めるまで、父親は失礼女に見下ろされる格好のまま動かず終いだった。
「一先ずは諦めてくれたみたいですね」
そう野河寺さんが呟くのとほぼ同じタイミングで助手席に失礼女が乗り込み、対抗に停車された父親の車を避けて発車する。
「勢いでこうなっちゃったけど、この後どうなるんだろう……」
冷静に考えれば、俺は経済的に自立していないので仕送りがストップする可能性が高い。
そうなれば嫌でも実家に戻らざるを得なくなってしまう。
おまけに父親とは気まずいどころか、どれだけ怒られるのか想像もしたくない。
「ちっ、一度決めたことをうだうだ言わないで鬱陶しい」
「まあまあ、颯乃もいい加減機嫌直してよね。北田さんの今後の生活については当家が保障しますのでどうぞご安心下さい」
「ていうか、ソイツがケツ捲って実家に逃げ帰ったら乃愛も丸損じゃん。しばらくタダ働きで良いでしょ」
助手席の窓に肘を押し当てた頬杖で颯乃は深々と溜息を吐いた。
「で、何でアンタの親父があそこに居たわけ?」
「……俺一人で消化し切れなかったし、それに勝手に物事を決めるのもどうかと思って……。それで、亡くなった叔父のことから聞いてみようかな、と」
「あー、それでアンタの親父が勘付いちゃったってことね」
野河寺さんの話を疑った訳ではなく、ただ裏を取っておきたかったというのもある。
しかし、一番の不安であり心に澱みのような重さが付き纏うであろう要因は、やはり両親が承知していないことだったのが大きい。
「結果論にはなりますが、まずは無事に北田さんをお迎え出来たので良かったじゃないですか。それに手間も省けましたし」
「手間?」
「ええ、北田さんのお父様の動向は懸念点の一つでしたので。今の騒動の内に運転手がお父様の車に発信機を取り付けていますから、これで少しは脅威の察知が楽になります」
さらりと笑顔で言ってのける野河寺さんに若干恐怖しつつ、ちょっとした変化に気付く。
「そういえば、その……助手席の方の態度が少し和らいでいるような……」
「実はですね、北田さんと会議室でお話している間中ずっと通話をスピーカー状態にして颯乃に繋いでおいたんです。北田さんが貴代さんのことを無視していたのではなく、ご家族という障壁があって接触を図ろうとすることも出来なかったと証言いただいたので、ご覧のとおり大人しくなりました」
「えっ、そうなの!?話したことは事実なんだけど妙に恥ずかしい……」
「だから颯乃っ、改めてご挨拶しよ?」
野河寺さんの言葉に反応を示した彼女はちらりと後部座席を見遣り、また顔を戻してしまった。
「それよりさ、いつまで仲良く手繋いじゃってんの?」
「っ、わ、ごめん」
今の今まで車へ引っ張ってくれた野河寺さんの手を握っていたことにも気が回っていなかった。
慌てて離れると彼女は慈愛に満ちた表情で手をゆっくりと戻した。
「まだ動揺していらっしゃると思って。もう大丈夫ですか?」
胸の鼓動が早まっているのは決して俺が童貞だからではないと信じたい。
それより年下の女の子の方が落ち着きを払っていることにショックと照れくささを覚えた。
「本当に助かりました……」
「どういたしまして。さ、颯乃?」
一拍の間を置いて聞こえて来たのは舌打ちだった。
「……松立 颯乃」
漸く彼女から言葉が発せられたと思えば、名前だけを呟いてまた黙りこくってしまった。
もう、と仕方なさげに野河寺さんが続きを促す。
「颯乃、言うべきことがあるんでしょ?」
それでもなお颯乃は煮え切らない様子で車内に無言の時間が訪れる。
「まぁ、その……なんていうか、さ……」
たっぷりと一分近い葛藤を終えたようで、絞り出すような声を出し始めた。
「悪かったと思ってる、色々と早とちりして……貴代さんの家族って全員冷たい奴らだって思ってたからさ……」
顔は見えないがその話す様子から途轍もない抵抗感、恥辱に顔を赤らめているであろうことが容易に想像出来た。
「どうでしょうか北田さん?多少の暴力もあったことは承知しています。それでもどうか颯乃のことを許して下さらないでしょうか」
追撃するように野河寺さんが頭を下げて来たとなれば、もうすげなくあしらう事も出来ない。
それに颯乃も手荒ではあるが大きな助けとなってくれた。
「俺の方も、ちょっとカッとなって怒鳴って悪かった」
多少もやもやしたものが残ることも確かだが、まずは表面的にでも和解するのが状況的にも好ましい。
それにこの三人の当事者の中で俺が年長になるのでつまらない遺恨を残したくないという打診も働いた。
「それじゃあ、二人のわだかまりは無くなったということで……早速だけど先輩の颯乃から後輩の北田さんへこれからの予定を説明してあげてくれる?」
「そういうの、いっつも乃愛の仕事じゃん……何でアタシが」
「私の役目は後方支援だけれど、同じ仕事をする人の目線から説明される方が後々の為にもなるのよ。それに、颯乃自身の復習にもなるから良いかなって」
「……ったく、乃愛に言われたら断れないんだよね。分かった、分かりました」
乱雑に頭を掻き毟って颯乃が振り返り、改めて俺と視線を合わせる。
今朝ぶりだがやはり整った顔をしている。
一体どんな話が始まるのか、妙な緊張感が漂い始めたところで彼女は再び前を向いてしまった。
「なんかやり辛いから前向いて話す。乃愛も話さえしたら満足でしょ?」
「しょうがないなあ、初回サービスだよ」
しかし中々話が始まらない。
野河寺さんが颯乃の顔を覗き込み、数秒思索して俺の方に向き直る。
「ごめんなさい、やっぱり颯乃は口下手だから現地までお待ちいただけますか?細かく色々と説明するのが苦手なんです」
「だから乃愛の方が適任だって言ってんのに……」
拗ねて口を尖らせたような恨み言の後は再び車内に沈黙の時間が訪れた。
少し手持無沙汰になった俺は、恐る恐るスマホを取り出す。
ロック画面に表示された通知には父親からの着信が数件入っていた。
「今は余計なことは気にしないで下さい。間がもたないのでしたら、僭越ながら話し相手になりますよ」
俺が青い顔をしていることに気付いた野河寺さんが画面を隠すように手を添えてくれる。
とても年下とは思えない包容力にまたしてもドキリとさせられる。
結局は差し障りのない世間話をしていたのだが、俺も一度スマホの電源を切っておく小さな勇気を得ることが出来た。